ソウル・ステーション/ディセンバー

 おれは朋大に依存していた。さらに正確にいえば、依存する相手を契斗から朋大に変えた。
 朋大とはじめて会ったときのことを思い出した。朋大の外見はお世辞にも食指が動くようなものではなかった。男もいけなくはないが、圧倒的に女のほうが好きだ。はじめのうち、興味は湧かなかった。だが、関西訛りのゆったりとしたやさしい話し方と控えめにはにかむ横顔に目を引かれた。
 年齢も性格も外見もまるでちがっていたが、おれは無理矢理朋大に契斗を重ねた。契斗のように、おれを無条件に愛し、献身的に尽くすことを求めた。
 契斗のことはもう忘れたつもりだったが、実際にはおれは去って行った男を忘れられず、引きずったままだった。自分でも気づかないうちに、契斗の姿を追いかけていた。
 おれは気づいていなかったが、朋大は気づいていたはずだ。おれが見ているのが別人だと知りながら、関係をつづけていた。そしてその不毛な関係は、考え得る限り最悪のかたちで幕を閉じた。
 朋大が指定した病院で検査を受け、陽性の結果を受けて契斗にも連絡しようとしたが、電話もLINEもつながらなかった。
 朋大のマンションを出て、バッグひとつにじゅうぶんおさまる荷物をコインロッカーに預けてから、飛行機に飛び乗った。身を寄せる場所やこれから先の生活についてなど考えなければならないことはやまほどあったが、今はとにかく契斗に性病のことを伝えることが最優先だった。
 早朝の便に乗り、ソウルに到着してすぐに契斗の所属事務所に向かった。宿舎の場所は把握していなかったが、事務所の近所であることだけは聞かされていた。
 事務所は大手というほどでもないようだったが、それでもセキュリティは厳重で、エントランスで警備員に止められた。説明して取り次いでもらおうにも、韓国語が話せない。複数人の屈強な警備員を薙ぎ倒して強引に社屋内に入れるほど腕っ節に自信があるわけでもなかった。
 門前払いを食らい、おれは事務所の入ったビルの前で途方に暮れていた。入れないからといって、おめおめと帰国するわけにはいかない。もう8月半ばだ。契斗の話ではデビューを賭けたテストは今月行われるはずだ。性病の治療にどれほどの時間がかかるか知らないが、早く見つけるに越したことはない。放置しておけば命に関わるという朋大の言葉もおれの焦りを募らせていた。
 ビルからすこし離れた歩道でガードレールに凭れながら、おれは契斗が出てくるのを待った。この日は水曜だったから、通常どおりなら夜までレッスンのはずだったが、じっと待つほかなかった。
 夕方になって雨が降り出してきた。傘を買いに行こうかとも思ったが、買い物をしている間に契斗が出てきたらと考えると、その場を離れることはできなかった。
 何時間たったのか。雨のなか傘もささずにぼんやりと突っ立っているおれを横目に、帰宅途中らしいスーツ姿の男たちや連れ立って歩く若いグループにカップルたちが通りすがる。ひどく惨めだったが、自己憐憫に浸っている余裕はなかった。
 契斗はおれとはもう話もしたくないだろう。それでも病気のことだけは伝える必要があった。
 陽性と診断されてから、関係を持った相手に知らせようとしたが、ここ数ヶ月の相手は客ですらなく、一夜限りの相手も多かった。ほとんどは連絡先も知らず、警告もできない状態だった。こうしている間にも、ウイルスはどんどん拡がっていき、止めようがない。
 おれに伝染した奴がだれかもわからない。心当たりが多すぎて、感染経路を特定するのは到底不可能だと思われた。
 朋大は正しい。おれはどうしようもないクズだ。自堕落で、利己的で、他人を傷つけることしかできない。これまでは他人のことなどどうでもよかった。だが、今、おれは朋大を傷つけたことを後悔し、性病を撒き散らしていることに罪悪感をおぼえ、自らの行いを恥じていた。
 謝罪したからといって、罪が帳消しになるわけではない。しかし、冷たい雨に打たれながら、おれはただじっと俯いて自分の人生を見つめなおしていた。はじめてのことだった。子どもの頃から世界や社会や自分自身に関心を持たないようにしてきた。期待をせず、無理をせず、中途半端な生き方だった。いっぽうで、なにものかになりたい、愛されたいという欲求は膨れあがっていった。思いどおりにならないもどかしさはおれの心を尖らせ、刃を研ぎ、鋭い刃の先は他者へと向けられた。
 後悔に意味はない。それでも、契斗に伝えたかった。性病を伝染されたことを知れば、契斗はショックを受けるだろう。嘘をついていたおれを軽蔑するかもしれない。だが、知らずにいるよりははるかにいいはずだ。
 立っているのがつらくなり、その場に座り込んだ。ずぶ濡れで地面にへたりこんでいる姿はまるで浮浪者に見えるだろう。不躾な視線を向けられることすらほとんどなくなった頃、目の前でだれかが足を止めた。
 シューズの爪先が目に入って、顔を上げた。契斗が立っていた。トレーニングウェア姿で、おれの頭上にビニール傘をさしかけている。
「なにしてんの」
 呆然としているおれを見下ろし、いった。
「風邪引くよ」
 穏やかな、やさしい声だった。