ソウル・ステーション/ディセンバー

 契斗と再会して、昔のことを思い出すようになった。あの頃おれはすべてにうんざりしていて、契斗はおれの幻影を追っていた。そして、皮肉なことに、今では契斗のほうが世界の舞台を目指し、おれはといえば、世にも残虐な手法をつかって契斗を意のままにしている。
 ホテルにチェックインし、テーブルの上にスマホと鍵を放り投げる。エッフェル塔は表面の装飾が剥げ、先端がわずかに欠けていた。
 冬から春になり、夏になっても、おれは契斗を抱いていた。ただしそれは契斗の望むことではなかった。
 ホテルの部屋にやってきた契斗の腕を引き、強引にベッドに押し倒した。俯せの体勢にさせ、着衣のまま背後から押し入った。
 準備はしてあった。いつもどおり。潤滑剤の助けを借りて体を進めると、やわらかくなった粘膜に包まれた。拡張されているとはいえ、抵抗がきつい。おれに逆らうことができない契斗の無言の拒絶に思えた。
 乱暴に揺さぶられても、契斗は声ひとつ上げなかった。枕をつかみ、カバーに顔を圧しつけて、黙って耐えている。避妊具をつかってほしいとも痕を残さないでほしいとも頼まなかった。なにをいっても無駄だとあきらめているのかもしれない。
 一度はおれから離れようとした契斗だったが、セックス動画を拡散すると脅されたことでおれに従う以外の選択肢を失った。
 おれが韓国を訪れる頻度も増えた。契斗はデビューを賭けた重要なテストを来月に控えていたが、連絡がくればおれの求めに応じるしかなかった。
 おれの顔の傷はほとんど完治していたが、代わりに契斗の顔から表情が消えていった。契斗がおれに笑顔を見せることはなくなり、言葉もほとんど発しなくなった。ホテルにきて、セックスして、シャワーを浴び、帰る。それだけだった。会話もなく、視線が合うこともない。
 おれの下で全身を硬くして行為の終息をひたすら待つ契斗はまるで人形だった。感情を殺し、意図的に神経を鈍らせることで自分を守っている。
 昂りはなかなか訪れず、契斗が待つ瞬間までは時間がかかった。契斗のうなじに顔を埋め、おれは呻いた。
 契斗のなかにすべて吐き出してしまうと、緩慢な動きで身を起こした。ベッドの縁に座り、うなだれた。萎えきってだらしなくぶら下がった自身を見下ろす。
 背後で契斗が身じろぐ衣擦れの音がする。乱れた着衣をなおし、帰宅の準備をはじめている。室内の空気が淀み、陰鬱な時間が流れていた。
「好きだ」
 呟いた。契斗がこちらに視線を向けるのが気配でわかった。おれは指先ひとつ動かすことなく頭を垂れたまま、いった。
「おれ、おまえのこと好きだ」
 呆れるほど稚拙かつ利己的な告白だった。しばらくの間、沈黙がその場を支配した。やがて、契斗がいった。
「それも命令?」
「ちがう」
 そのままの姿勢で振り向くことなく答えた。
「動画の話は嘘だ」
 かすかに声が震えたことに、契斗は気づいただろう。
「おまえとのセックスを撮影したことは今まで一度もない。そんな動画、この世に存在しない」
 契斗の顔を見ることができなかった。しかし、驚いた様子はなかった。背中を向けていてもわかる。
「……やっぱり」
 小さな息とともに呟いた。
「やっぱり?」
 今度は大きな深呼吸の音が聞こえた。
「知ってたのか?」
「知ってたっていうか……なんとなく」
「なんで断らなかった?」
「完全には信じられへんかったから」
「疑ってたのか?」
「疑ってたっていうか……庸介くんはそこまでせえへんと思ってたから」
 何度も騙されてきたのにもかかわらず、契斗はまだおれを信じていた。その信頼をおれはいとも簡単に裏切った。
「けど、もしほんまやったらって、ちょっとでも考えたら、怖くて……」
 当然だった。なにもかもすべて失う恐怖をおれが与えた。
「けどそれって……ちょっとでも、疑ったっていうのは、たぶん、庸介くんのこと、愛してないってことなんやと思う。好きやったら……好きなひとのことは、信じられるはずやから」
 わかっていた答え。それでも、体が震えた。
「ごめん」
 掠れた声で、契斗が謝った。筆舌に尽くしがたい苦痛を味わわされ、屈辱を強いられたのにもかかわらず、心から申し訳なさそうに、おれに謝った。
「ごめんね」
 おれは黙って顔を逸らした。腹が立ったのだと思った。ちがった。おれは泣きたかったのだ。鼻腔の奥が熱くなり、喉仏が小刻みに震える。
「今は……」
 情けない声が漏れそうになり、言葉を切った。深く息を吸い込んでから、もう一度いった。
「今はそうじゃなくても、前は好きだっただろ?」
 この期に及んで過去の記憶にしがみつく自分に絶望していた。昔からそうだった。おれは過去に執着し現実から目を背けてきた。厳しい環境でも常に前を向き、未来に向かって一歩ずつしっかりと足を踏みしめてきた契斗とは、おなじ場所に立っていても、目線がちがっていた。互いに違和感をおぼえていたはずだ。どの道いっしょにはいられなかった。
「なあ、あのときの気持ちは本物だったよな?」
 振り向いた。無様と知りながらも、聞かずにはいられなかった。
「わかんない……」
 契斗はおれのほうに顔を向けないまま、遠くを見つめていた。
「ただの憧れやったのかも。あの頃はまだ子どもやったし……」
 固く目を瞑った。目を閉じれば、いつでも瞼の裏に15歳の契斗の笑顔を蘇らせることができた。おれはその幻に縋りついた。
 契斗がゆっくり立ち上がる。慌ただしくベッドに雪崩れ込んだためにリュックが足下に転がっていた。拾い上げようと腰を折り、肘がサイドテーブルに軽くぶつかった。
 金属音がして、テーブルの上の鍵が床に落ちた。契斗の視線がエッフェル塔をとらえ、再びおれを見た。昔のこととはいえ、それがなんなのか、気づいていないはずはなかった。
 契斗はエッフェル塔のキーホルダーがついた鍵を拾い上げ、テーブルの上にもどした。そのしぐさがすべてを物語っているようだった。
「おれが馬鹿だった」
 服を着なおして、帰り支度を整える契斗を見ながら、いった。
「おまえを大事にしなかった」
 今さらどうにもならないことだった。ふたりともわかっていた。
「嫌われて当然だよな」
「嫌ってへんよ」
 契斗がいった。やさしい、やわらかな口調だった。
「おれがダンスはじめたの、庸介くんのおかげやし。庸介くんと出会ってへんかったら、今のおれはないって思ってるから。庸介くんには感謝してる」
 思わず笑ってしまった。どこまでひとがよいのか。これだからおれのような人間につけこまれるのだ。
「ほんまやからね」
 おれが笑ったのを信じていないと取ったのか、契斗が繰り返す。顔を上げると、契斗の笑顔があった。笑った顔を見るのは久しぶりだった。胸が詰まった。
「……あきらめられそうにない」
 おれが呟くと、契斗は困ったような顔をした。おれの前に立ち、うなだれるおれの頭をそっと抱き寄せた。おれの頭頂部をやさしく撫でてから、ゆっくりと体を離した。
 それ以上は一言も話さず、契斗は部屋を出て行った。おれは深く呼吸した。契斗の匂いを鼻腔内に集めたが、すぐに消えてしまうことはわかっていた。体につけた痕も、無理矢理刻みつけた心の傷も、契斗を変えるまでには至らず、いずれ跡形もなく消え去ってしまう。おれの気持ちだけがいつまでも前に進めない。これまでもずっとそうだった。
 両手で顔を覆い、呻いた。行き場を失った歪な思いが全身を駆け抜け、充満して、あふれ出しそうだった。