ソウル・ステーション/ディセンバー

「事務所辞めるの?」
 おれが18になるすこし前の夏だった。高校の帰りに、学生服のままおれの部屋にやってきた契斗が挨拶もなくいきなり尋ねてきた。
「だれに聞いたの?」
 社長かマネージャーだろうか。聞き返したが答えない。複雑な眼差しでおれを見つめるだけだ。
「ほんとだよ」
 しかたなく頷いた。契斗が俯く。
「知らなかった……」
「わざわざ報告することでもないだろ」
「でも、一言いうてくれたって……」
 契斗の表情が曇る。関係を持って1年がたとうとしていたが、いわゆるカップルのようなことはほとんどしていなかった。おれの部屋か公衆トイレでセックスするだけだ。契斗はふたりで出かけたがったが、おれのほうがなにかといいわけをして避けていた。契斗の体には関心があったが、男同士でデートする趣味はない。地元をふたりで歩いて知り合いに見られるのも嫌だった。
 曖昧な返事でのらりくらりと交わすおれを契斗がどう感じたかわからないが、すくなくとも直接不満を口にすることはなかった。いくら恋愛経験が浅くとも、なにも感じないはずがない。口論になって関係が悪化することを恐れたのかもしれなかった。
 はじめてできた「彼氏」に舞い上がっていた契斗だったが、数ヶ月たつと、その表情に翳りが見えはじめた。
「……辞めたあとはどうするの?」
 ドアの前で座りもせずに、契斗が呟く。
「ほかの事務所に移籍とか……」
「ねえよ。芸能からはもう足洗う」
 おれも立ったまま、平坦な声で答えた。
「そうなんや……」
「ガキの頃からやってるからな。もういい加減やめどきだろ」
 本来であれば遅すぎたかもしれない。本当は何度も辞めたいと思ったが、母親に告げられなかった。落胆されるのが怖かったのだ。しかし、次男の活動が軌道に乗りはじめた今となっては、心配無用だった。母親へ報告したのは事務所の社長に離籍を申し出た後だったが、咎められることはなかった。「そうなの、わかった」と一言いわれただけだ。
 事務所の社長にもとくに引き留められなかった。もともと母親のつよい意向で無理矢理はじめたことだ。おれには意欲もなかったし、ここしばらくはレッスンにも参加していなかった。おなじグループの連中も無関心だろう。やる気のない者が消えてむしろ清々しているかもしれない。自分が疎まれていることはよくわかっていた。
 ただひとり、契斗だけがちがった。眉間に皺を寄せ、悲しげな顔で床を見つめている。
「なんだよ」
「べつに。ただ……寂しいなって」
「事務所脱けるだけだろ。一生会えなくなるわけじゃないし」
 笑って見せたが、契斗は浮かない表情のままだった。
「わかってるけど……」
 もどかしげに視線を泳がせて、契斗がいう。
「おれがダンスはじめたの、庸介くんがきっかけやから。ステージできらきらしてる庸介くんがもう見られないと思ったら寂しいねん」
 契斗の落胆は想像を超えていた。脱退を伝えていなかったのは、あえて隠したというよりは、わざわざ話すようなことでもないと思った。契斗が加入した頃にはすでにほとんどレッスンや練習にも参加しなくなっていたし、たまに出演するステージやオーディションにも真剣に取り組んでいなかった。だれもがそのうち消えると予想していたにちがいなかった。
「ほんまにいなくなるんやね」
 契斗が泣きそうな顔になる。顎に皺が寄り、眼球が揺れている。
「大袈裟なんだよ、おまえ。いつでも会えるだろ」
「そうなんやけど、事務所に行っても庸介くんがいないんやって思ったら……」
 おれの退所を惜しんでいるのは契斗だけだった。実際にはおれは輝いてもいないし将来の希望さえ持てない状況なのだが、契斗はおれの退所を本気で残念がっていた。
 俯いている契斗を見ていると、なんともいえない疼きをおぼえた。
「なにしてる。こっちこいよ」
 鞄も置かずに突っ立っている契斗に呼びかけた。
「制服、皺になるぞ」
「え?」
 誘われていることにようやく気づいたらしい。顔を上げてすぐに首を振る。
「あ、ううん。今日はこれからレッスンだから」
「さぼればいいだろ」
「そういうわけには……」
 おれとはちがい、契斗がレッスンを休むことはほとんどなかった。
「真面目だな、相変わらず」
「おれおぼえるの遅いから、休むとみんなについていけんくなる」
 契斗の話は事実ではなかった。初心者の状態で加入した契斗は本人の努力によりたちどころに上達し、今ではチームだけでなく事務所全体を牽引する立場になっていた。社長からもスタッフからも気に入られ、頼られていた。
 孤立しがちなおれの出番やパートを増やすように契斗が社長やマネージャーに提案していたことも知っていた。おれにとってはよけいな干渉だった。芸事への興味はすでに失っていたし、契斗が入ってきた頃にはすでに辞める気でいた。