ソウル・ステーション/ディセンバー

「出かけるん?」
 腕時計を嵌めていると、背後から声をかけられた。いつの間にか帰宅していた朋大がリビングの壁に半身を凭せかけ、腕を組んでおれを見つめていた。
「いつもより早くない?」
「客と約束してんだよ」
 マッチングアプリで引っかけた歯科衛生士。何度かデートを重ね、ホストであることを明かし、店に連れて行った。以降は会えば必ず同伴出勤している。今はまだ様子を見ているところだが、そろそろ高額なボトルをおろさせるつもりだ。
 この日はアフターの予定も取りつけている。こちらは他店にも通っている典型的なホスト狂いの女で、すこし前からうちの店にも足をはこぶようになった。他店のホストにとってはおもしろくないだろうが、売り上げを立てるためには多少の無茶もしかたない。
「仕事熱心やなあ」
 間延びした口調で朋大がいう。悪気はないのかもしれないが、京都出身者ならではの婉曲した表現が無学なおれにはときどき鼻につくことがあった。
「いいだろ、べつに」
 ソファの背に引っかけていたジャケットをつかみ、袖に腕を通す。
「好きなひとできた?」
 唐突な問い。すぐには返事できなかった。
「なに?」
 一拍措いて、振り返る。
「だれか好きなひとできたんやろ」
 今度は質問ではなかった。鼻で笑った。朋大は笑わなかった。瞬きもせずにおれを見つめている。さぐるような目つきに居心地の悪さを感じ、顔をしかめた。
「なんだよ、どうでもいいだろ」
「どんなひと? 男? 女?」
「いねえよ、そんなん」
「今否定せえへんかったやん。なんで誤魔化すの?」
 抑揚を欠いた声に感情を見つけるのは難しかった。
「最近、ふらっといなくなって何日も帰らんのはそのひとんとこ行ってるからやろ?」
 頭がいいだけあって、朋大は敏い。はぐらかせそうになかった。
「だったら?」
 ため息とともに言葉を返す。
「おまえに関係ないじゃん」
 朋大は無言でおれをにらんでいる。後ろめたさから、思わず視線を逸らした。
「外泊くらいべつになんもいってなかっただろ。いきなりそういうこといわれんのわけわからん」
「今までのは遊びとか枕とかやん。全然ちゃうやんか、今度のとは」
「仮にそうだったとして、だったらなにって」
 うんざりしているのを隠さずにいった。
「おれたちの関係ってそういうんじゃないじゃん」
 互いの生活に過剰な関心を持たないことでうまくやってきた。朋大が嫉妬しているとすれば、関係に歪みが生じる。卑屈な笑みを浮かべて、重ねた。
「お互い干渉すんのやめようって話したよな。おまえだって適当にほかの男とやってんだろうし、変に詮索すんなよ」
「……それもそうやね」
 しばらく黙ってから、朋大はふっと顔を背けた。
「お風呂入ってくるわ」
 おれの説明に納得したようには見えなかったが、それ以上はなにもいわず、踵を返してバスルームに向かった。
 相変わらずその態度が示すものの正体は判然としないものの、おれは安堵していた。同居しているとはいえ、マンションの持ち主は朋大で、おれはただの居候だ。朋大との関係がこじれれば住処を失う。この生活が長く続くとは考えていないが、今追い出されるのは困る。他に行き場のあてはないし、ホテルやネットカフェを利用するにしてもそれなりに金がかかる。韓国に通う渡航費もかかるなかで、よけいな出費は抑えたかった。
 帰宅は遅くなるだろうが、朋大が起きていればすこしていねいに抱いてやろうと思った。週に1、2度はしていたが、契斗のことに気を取られて朋大への態度が雑になっていたかもしれない。
 ジャケットのポケットにしまおうとしたスマホが震えた。契斗からの着信だった。心臓の鼓動が跳ねる。バスルームからシャワーの音が聞こえてくるのを確認してから、バルコニーに出た。
「もしもし」
 声が上擦ってしまう。春先とはいえ夜風はまだ冷たかったが、会話の内容を朋大に聞かれたくなかった。
「庸介くん?」
 契斗の声が聞こえてくる。
「今平気?」
「ああ。ちょうど仕事に……」
 仕事に行くところだと答えかけ、まともな会社員の出勤時間でないことに気づく。
「仕事でトラブルあって、対処してるとこだった」
「だいじょうぶ? かけなおしたほうがいい?」
「いや、いいよ」
 窓ごしに室内の様子を確認しながらいった。
「なに? なんかあった?」
「うん……」
 なんとなく歯切れが悪い。胸騒ぎがした。
「週末予定入ったとかいうなよ」
 日曜にはまたソウルで会う予定だった。
「それはだいじょうぶなんやけど……」
 すこしの沈黙の後、契斗はいった。
「この前、なんかちょっと変な感じになったやろ」
「ああ……」
 整形手術の話題で険悪な空気になったが、それほど気にとめていなかった。
「べつに気にしてねえよ」
 軽い口調でいったが、契斗の声は沈んでいた。
「あのね、庸介くん」
 深い息とともに、契斗はいった。
「しばらく会うのやめへん?」
 思いがけない申し出に、絶句した。
「うちの事務所で新しいグループつくること決まって、最終候補に選ばれたんやけど、8月に最終試験あって。それまで練習に集中したいから……」
 契斗にとっては最大のチャンスだろう。もしかしたら最後のチャンスになるかもしれない。選ばれたことをともに喜び、励ますべきだった。しかし、おれの口から出てきたのはべつの言葉だった。
「練習で忙しくなるから会うのやめるってのはちがくない?」
 咄嗟に抗った。不機嫌に聞こえないよう自制しながら、いった。
「今だって月に2、3回じゃん。そんな多いと思わないけど」
「そうかもやけど……」
 契斗が口籠もる。
「庸介くんと会うと、その日は1日練習できなくなるし」
「時間減らせばいいだろ」
「体的にもきついねんて。庸介くん、ゴムしてくれへんし……」
「妊娠しないんだからべつにいいだろ」
「翌日おなか痛くなるもん」
「わかったよ。ゴムするから」
 おれは十代の子どものように狼狽え、必死になっていた。わずかな沈黙を措いて、抑えた声でいった。
「……練習っていうけどさあ、それって口実なんじゃねえ?」
「え?」
 考えるよりも先に言葉が漏れた。
「ほんとはおれと会うのが嫌なんじゃねえの?」
 すぐには反応がなかった。顔を見て表情を確認できないことをもどかしく感じた。
「なんでそんな……」
「だってこないだ態度おかしかったじゃん」
「あれは……庸介くんがいきなり怒るから……」
「おれべつに怒ってなかっただろ。おまえが……」
 電話の向こうで韓国語の声が聞こえた。向こうも同居人がもどったらしい。こちらでも朋大がシャワーを終えて出てくるかもしれなかったし客との約束もある。
「とにかく、日曜会ったとき直接話そう」
「うん……」
 電話を切ると、バルコニーの手すりをつかみ、うなだれた。
 即答は避けたものの、契斗の提案を受け容れるつもりはなかった。契斗も頑固な性格ではあるが、受けた印象ではまだ話し合う余地が残っているように思えた。
 再びスマホが震えた。客からのLINEが複数届いていた。すぐに返信する必要があったが、開く気になれなかった。猛烈に契斗に会いたかった。遠くにかすかに聞こえたハジュンの声に心を乱され、烈しい嫉妬で目眩がした。ふたりの関係を疑うわけではないが、ハジュンが練習スタジオでも部屋でも常に契斗のそばにいることを考えると、簡単に会えないもどかしさが募る。
 手すりの上で組んだ腕に頭を乗せ、おれはしばらくの間動かずに、動揺を鎮めようとしていた。当然、うまくはいかなかった。