ソウル・ステーション/ディセンバー

「出張はいつまで?」
 サンチュの葉で器用に肉を巻きながら、契斗が尋ねてくる。一瞬、なんのことかわからなかった。
「仕事できてるって」
 深夜の電話で咄嗟に仕事の都合で韓国入りすると説明していたことをすっかり忘れていた。
「明後日」
 2泊3日の短い滞在。日曜の夜には朋大がもどり、月曜には店に出なければならない。韓国にきてからずっと現実感が稀薄で、いまいちぴんとこない。
「庸介さん、仕事、なんですか?」
 十代らしい旺盛な食欲を発揮して肉を頬張りながら、ハジュンが割り込んでくる。
「ふつうの会社員だよ」
 日本語の単語が理解できないのか、ハジュンが眉間に皺を寄せる。隣の契斗がさりげなく訳してやると、納得したように頷く。言葉が通じないだけでひどく無駄な時間を浪費しているように思えた。肉も付け合わせの野菜も旨かったが、途中から味気なく感じていた。扱いにくい銀色の箸をかちゃかちゃいわせながら皿の上の肉を突いた。焦げた肉の切れ端をビールといっしょに流し込む。
「どんな仕事なん?」
 今度は契斗が聞いてくる。関西訛りのすこし掠れた声を懐かしく感じた。
「どんなって……」
 思わず口籠もった。契斗の横でハジュンもおれを見ている。
「あー、なんていうか……薬関係かな」
 思わず口をついて出た。適当な答えを用意していなかった。
「薬?」
「薬の研究とかしてる」
「製薬会社? すごい」
 契斗が目を見開く。自尊心が満たされたのはほんの一瞬で、すぐに卑屈な気分になった。夢を追いつづけている元恋人と才能あふれる若者の前で、水商売だと正直にいえず、その場しのぎの嘘で自らを飾り立てようとする自分の浅はかさが呪わしい。変わっていないのはおれもおなじだ。努力もせず、悪態ばかりついて、そのくせ自尊心だけは人一倍強い。
 契斗はおれのでまかせをていねいに韓国語に訳してハジュンに説明している。日本語さえそう多く知らないおれにも、契斗の韓国語が滑らかで自然であることはわかる。5年も住んでいればだれでもそれなりに上達するだろうが、現地出身の後輩や店員と交わす言葉のひとつひとつに努力のかけらが覗けた。おれが拗ねて勝手に自暴自棄になり荒れた生活を送っている間にも、契斗は目標に向かって一歩ずつ歩みを進めてきたのだろう。
「おまえのほうはどうなんだよ」
 これ以上突っ込まれる前に話題を変えた。
「オーディション、次、決勝だろ」
「ああ……収録はもう全部終わってて」
 間抜けな質問だった。生放送でなく収録であることはわかっていた。たいていの場合、放送のかなり前にすべての収録を終え、時間をかけて編集する。
「デビューできたのか?」
「収録の中身は秘密ってことになってるから……」
 当然だろう。すでに収録済みの番組の内容を放送前に出演者が漏らしていいはずがない。話題の主導権を握ろうと焦るあまりに素人丸出しの問いを重ねてしまった。羞恥を隠すために一気にビールを煽った。
 日本語が不得手なハジュンも気まずそうな契斗の様子に気づいていただろう。会話は弾まなかった。どうでもいい世間話と近況報告の隙間に、頻繁に沈黙がはしった。網の上で肉が焼ける音と周囲の喧噪がいやに大きく響いた。
 ハジュンがトイレに立ち、ふたりになると、契斗が新しいビールを注文した。空になったジョッキに伸ばされた手に触れた。契斗は一瞬身を竦ませ、すぐに手を引っ込めた。
「……付き合ってんのか」
「え?」
 おれの目線がトイレの方向を示していることに気づくと、契斗は呆気にとられたような顔で笑った。
「ハジュンと? まさか」
 自然な返答。偽りとは思えなかった。
「そんなことあるわけないやん」
「なんでだよ。イケメンだからか」
「そういう意味では……」
「イケメンだろ?」
「たしかにかっこいいけど……」
 自ら煽っておきながら、契斗がおなじことを口にすると妙に苛立った。
「どうせ整形だろ」
 嘲笑とともにいうと、契斗は眉を顰めた。
「ちがうと思うけど……」
「あきらかにつくりもんだろ。見りゃわかる」
「もしそやったとしても、そのひとが幸せで満足してるんやったら、周りがとやかくいうことやないと思う」
 控えめな口調ながら、明確な主張のこもった言葉。契斗はいつもそうだった。おとなしく目立たない存在だと思われがちだが、実際には意思が強く、頑固で、一度決めたことは最後まで貫き通す。そういう性格だった。
「おまえはしねえの」
「なに?」
「整形」
 おれの言葉に、契斗の表情が曇った。今度は反駁することなく、無言で視線を落とした。
「なあ……」
 テーブルの上で手を伸ばし、契斗の手に触れた。
「あいつもう帰らせろよ」
 逃げようとする手を強く握った。
「おれとふたりになりたくねえの?」
「こんなとこでそういう話は……」
 契斗は俯き、ハジュンがいるトイレの方角や周囲の目を気にして視線を泳がせている。
「日本語わかるひともいるかもしれへんし」
「だれも気にしないだろ」
「ハジュンがもどってくる」
「べつにいいだろ。てかなんであんな奴連れてきたんだよ」
「なんでって……」
 トイレのドアが開いてハジュンの長身が見えた。おれは素早くポケットから宿泊しているホテルのカードキーを取り出し、契斗の手に握らせた。
「ここに泊まってるから」
 身を乗り出し、契斗の耳元に顔を近づけて、囁いた。
「あとでこいよ」
 契斗はなにかいおうとしたが、ハジュンがもどってきて、口を噤んだ。素早く手を引っ込め、テーブルの上のメニューを引き寄せる。
「冷麺食べるやろ? みんなでシェアしよか」
 ことさらに明るい声を上げたが、動揺しているのはあきらかだった。おれの視線を避けるようにオレンジジュースを飲んでいる。細いストローを咥える唇を眺めながら、その感触や味を思い出そうとしていた。記憶は朧になりかけていたが、手を伸ばせばその尾をつかめる自信があった。