ふだんは和やかな雰囲気のロッカールームだったが、この日ばかりは不穏な空気に満ち、ざわめいていた。
監督の吹田が直々に訪れ、練習と試合をチェックしていったことももちろんあったが、会話の多くを占めていたのは、昨朝発表された我妻の登録抹消のニュースだった。
「お疲れさん」
ベンチに深く座り、かいてもいない汗を拭っていた奥に、田所が声をかけた。
「我妻のこと、残念だな」
同期の奥が胸を痛めているものと思ったらしい。田所は固い表情で首を振った。
「復帰まで3か月はかかるって。リーグ優勝したとしても、間に合わないな」
奥は頷きもせずに、黙っていた。田所は無言で奥の背中を叩き、その場を離れた。大きな掌には言葉以上の熱がこもっていたが、奥の心は慰められなかった。
我妻の骨折は、彼の不注意によって車のドアに挟んだためのものと報道された。しかし、それが事実でないということは、奥にはよくわかっている。
あのとき、すぐに我妻を病院に連れていけば、残りのシーズンを棒に振ることはなかったかもしれない。いや、そもそも、奥がもっと気をつけていれば。
津波のように押し寄せてくる後悔よりもさらに恐ろしいのは、自分でも意識していない深層心理だった。
満足のいく結果を残すこともできずにチームを追い出される自分とは反対に、めきめきと実力を上げていく我妻を、心のどこかで羨んではいなかったか。その醜い嫉妬心が、無意識にあのような行動をとらせたのではないか。本当に事故だったといいきれるのか。そう考えると、奥の背すじを冷たいものが走りぬけるのだった。
練習には身が入らなかった。試合の成績も、4打数無安打と、最低に終わった。とうぶん出番はないだろう。当然の報いだ。
ロッカールームからひと気がなくなっても、奥はベンチから立ち上がることができなかった。
肩を揺さぶられ、国分は呻いた。起こそうとする手から逃げるように体を引っ繰り返して、ブランケットをかき集める。
「なあ、起きてくれよ、頼むから」
「うるせえな……」
緩慢な動きで枕の周辺をまさぐり、携帯電話をつかむ。手を伸ばしたまま、ディスプレイを見て、国分は舌打ちした。
「勘弁してよ。まだ6時じゃん。おれ、寝たの5時だぜ」
「そんな時間まで飲んでたのか」
「あんたも飲んでたでしょ」
奥は居心地悪そうに掌で顔を覆った。顎にはだらしなく髭が浮いて、プロの野球選手にはとても見えない。もっとも、昨晩公園で会ってから今朝まで、国分の目に奥が現役選手らしく見えたことは、ただの一度もなかった。
しかし、それがかえってほかの連中にも好意的に思われたらしい。はじめのうち、興味を持ちながらも、やはり多少は嫉ましい目で見ていた悪友たちも、思ったより早いうちに奥を受け容れ、ほかの友人と同じように接していた。
生活のリズムや習慣が正反対とはいっても、同世代である。いっしょに呑めば、ある程度は理解しあえるというものだ。
遊び人ばかりが集まる店に奥を連れていくのは、さすがに躊躇われたが、酔って気が大きくなったせいか、もの珍しげに見回ったり、客たちとはしゃいだりして、案外楽しそうにしていた。ひと眠りして酔いが醒めた今は、さすがに表情を曇らせていたが。
「けっこうテンション上がってたけど、ちゃんとおぼえてる?」
仕方なく半身を起こして、国分は欠伸を噛みころした。
「あんた、公園でぼけっとしてて、おれらは呑みに行くとこで」
「ナンパされた」
「ナンパかよ」
フローリングに直接胡坐をかいて、奥が苦笑いする。見た目ほど酩酊していたわけではなさそうだった。少量のアルコールで無理矢理ハイになってしまう気持ちは、国分にもよくわかる。それも、そうとうに忘れたいことがあるときはなおさらだ。
しかし、だとしても、どう見ても怪しげな若者の集団に、のこのこついてくるものだろうか。
「ファンにはやさしいんだよ、おれは」
おどけたような言葉には、自虐的な色が見え隠れしていた。野球選手という人種にはもっと溌溂としているようなイメージを持っていたが、そうではないらしい。
「おれも、まさか、奥幸成がうちに泊まりにくるとは、思ってなかった」
自尊心をくすぐるためにいったわけではなかったが、口に出すと、よけいに不思議な感じがした。
いつものように公園で暇をつぶして、踊って、軽く缶ビールの数本も空けていた。場所をあらためて呑もうと腰を上げかけたとき、喜多嶋がこの間の野球選手がいるといい出したのだ。
公園の裏の小さな自動販売機で買いものなどしている奥に、国分は即座に声をかけた。
ファンだとは多少大仰ないいかたではあったが、そのへんの社交辞令は奥も承知しているようだったし、奥が地元のスターだったことには間違いない。
「でもさ、あんまりおれらみたいのと遊んでちゃ、よくないんじゃない。プロ野球選手ってイメージが大事だろ?」
「べつにいいよ」
「投げ遣り。だめだよ、そういうの」
国分はそっけなくいった。よけいなお世話だと怒鳴られるかもしれないと思ったが、奥は案外素直に頷いた。
「だけど、朝早いのはさすが、アスリートだね。今日、休みだっていってたのに」
皮肉めいた言葉に、奥が思い出したように顔を上げる。
「ちがうって、携帯。携帯がないんだよ」
「携帯?」
国分は不承不承ベッドを出て、床に落ちたブランケットを捲った。
「たしか、この辺に……あったあった」
奥が頻繁に落としてしまうので、預かっておいたのだった。了承は得たはずだが、忘れているらしい。
「超いっぱい着信あるよ」
奥は予想済みだというように曖昧に頷いた。着信表示を見ただけで、もちろん履歴まで開こうとはせずに、国分は奥に携帯電話を渡した。
「ちょっといいか、電話」
どうぞと肩を竦めて、国分は再びブランケットにくるまった。こっちはプロのアスリートというわけでもなければ、健康おたくでもない。できることなら、いつものように昼まで寝ていたかった。
「あ、奥だけど。ごめん、着信、気づかなかった」
おくだけど、という言葉のニュアンスが、苗字だとわかっていてもなんだか滑稽で、国分はこっそり笑った。ブランケットから腕を伸ばして、煙草を捜し求める。
「なにいってんだよ。帰れっていったのはそっちだろ」
低くしてはいるが、奥の声に苛立ちが混じっているのはすぐにわかった。もしかすると、女かもしれない。我妻洋司と杉内奈々のゴシップ記事を思い出して、国分は唇の端を歪めた。本人がきっぱり否定したということを奥から聞いて、喜多嶋は歓喜していた。記事がガセネタだったからといって、喜多嶋にチャンスが巡ってくるとも思えないが。そんなことよりも、煙草が見当たらない。
「ねえ、おっくん。おれの煙草、取ってないよね」
「ちょっと待てよ」
携帯電話に向かってことわってから、奥が首を捻る。
「取るわけないだろ。おれ、煙草吸わないもん」
「だよねえ。ごめん、ごめん」
奥の耳から離れた受話口から、男の声が漏れ出た。どうやら、スキャンダルではなかったようだ。
「え? ……友達だよ。いいだろ、べつに」
回線の向こうへ届けられる奥の声は疎ましげで、国分は息をひそめた。ベッドの下に落ちていた煙草とライターを拾い上げ、そっと部屋を出る。
早朝の住宅街はひっそりとしたものだ。冷たくなりはじめた風が、まだ少しアルコールの残った頭を冷ましていく。
数週間前に見かけたものの、言葉を交わしたのは、昨日がはじめてだった。地元が同じで、年齢も近いが、住む世界があまりにもちがう。
しかし、順風満帆とはいえずとも、野心と夢に満ち溢れているはずだと思っていたプロ野球選手は、実際には、国分たちとそれほど変わらないように思えた。なにがあったのかは知らないし、いちいち質す気もないが、おそらくは奥も、自分の居場所を探しあぐねているのだろう。今はどこでなにをしているとも知れない実の父親が、息子の将来にプロ野球選手の夢を抱いていたらしいことを思い出しながら、国分は短くなった煙草を階下に放り投げた。
「悪い。もういいぞ」
ドアが開いて、奥が顔を出す。国分は両腕をさすりながら、部屋に戻った。
「心配されてんじゃないの。やだよ、おれ、誘拐犯にされんの」
「そんなんじゃねえよ」
奥は笑ったが、表情はぎこちなかった。
「奥さん」
「やめろってば、それ」
「じゃ、奥選手」
「奥でいいよ」
「おっくん」
半分以上床に落ちたブランケットを爪先にひっかけながら、国分はいった。
「おっくんはさ、野球が好きで、プロになったのよね」
「まあ、嫌いじゃやらないよな」
「それにしちゃ、あんまり楽しそうじゃないね」
奥ははっとしたように国分を見つめた。深い意図があったわけではない。国分は慌てて手をかざした。
「よけいなお世話か」
7畳のワンルームを奇妙な沈黙が漂った。国分は軽く首を捻って、いった。
「今日、練習休みなら、もうちょっと遊ばない」
「なにして」
国分は肘を浮かせ、上半身を揺らしてリズムをとった。さすがに断るだろうと思ったが、奥は苦笑いを浮かべた。
「メシ食って、ジョギングしてからだな」
まさかおれもやらせようというのではないだろうなというようににらみつけたが、奥は涼しい顔だった。国分は大仰にため息をついて、着替えを取り出すためにクローゼットを開けた。
監督の吹田が直々に訪れ、練習と試合をチェックしていったことももちろんあったが、会話の多くを占めていたのは、昨朝発表された我妻の登録抹消のニュースだった。
「お疲れさん」
ベンチに深く座り、かいてもいない汗を拭っていた奥に、田所が声をかけた。
「我妻のこと、残念だな」
同期の奥が胸を痛めているものと思ったらしい。田所は固い表情で首を振った。
「復帰まで3か月はかかるって。リーグ優勝したとしても、間に合わないな」
奥は頷きもせずに、黙っていた。田所は無言で奥の背中を叩き、その場を離れた。大きな掌には言葉以上の熱がこもっていたが、奥の心は慰められなかった。
我妻の骨折は、彼の不注意によって車のドアに挟んだためのものと報道された。しかし、それが事実でないということは、奥にはよくわかっている。
あのとき、すぐに我妻を病院に連れていけば、残りのシーズンを棒に振ることはなかったかもしれない。いや、そもそも、奥がもっと気をつけていれば。
津波のように押し寄せてくる後悔よりもさらに恐ろしいのは、自分でも意識していない深層心理だった。
満足のいく結果を残すこともできずにチームを追い出される自分とは反対に、めきめきと実力を上げていく我妻を、心のどこかで羨んではいなかったか。その醜い嫉妬心が、無意識にあのような行動をとらせたのではないか。本当に事故だったといいきれるのか。そう考えると、奥の背すじを冷たいものが走りぬけるのだった。
練習には身が入らなかった。試合の成績も、4打数無安打と、最低に終わった。とうぶん出番はないだろう。当然の報いだ。
ロッカールームからひと気がなくなっても、奥はベンチから立ち上がることができなかった。
肩を揺さぶられ、国分は呻いた。起こそうとする手から逃げるように体を引っ繰り返して、ブランケットをかき集める。
「なあ、起きてくれよ、頼むから」
「うるせえな……」
緩慢な動きで枕の周辺をまさぐり、携帯電話をつかむ。手を伸ばしたまま、ディスプレイを見て、国分は舌打ちした。
「勘弁してよ。まだ6時じゃん。おれ、寝たの5時だぜ」
「そんな時間まで飲んでたのか」
「あんたも飲んでたでしょ」
奥は居心地悪そうに掌で顔を覆った。顎にはだらしなく髭が浮いて、プロの野球選手にはとても見えない。もっとも、昨晩公園で会ってから今朝まで、国分の目に奥が現役選手らしく見えたことは、ただの一度もなかった。
しかし、それがかえってほかの連中にも好意的に思われたらしい。はじめのうち、興味を持ちながらも、やはり多少は嫉ましい目で見ていた悪友たちも、思ったより早いうちに奥を受け容れ、ほかの友人と同じように接していた。
生活のリズムや習慣が正反対とはいっても、同世代である。いっしょに呑めば、ある程度は理解しあえるというものだ。
遊び人ばかりが集まる店に奥を連れていくのは、さすがに躊躇われたが、酔って気が大きくなったせいか、もの珍しげに見回ったり、客たちとはしゃいだりして、案外楽しそうにしていた。ひと眠りして酔いが醒めた今は、さすがに表情を曇らせていたが。
「けっこうテンション上がってたけど、ちゃんとおぼえてる?」
仕方なく半身を起こして、国分は欠伸を噛みころした。
「あんた、公園でぼけっとしてて、おれらは呑みに行くとこで」
「ナンパされた」
「ナンパかよ」
フローリングに直接胡坐をかいて、奥が苦笑いする。見た目ほど酩酊していたわけではなさそうだった。少量のアルコールで無理矢理ハイになってしまう気持ちは、国分にもよくわかる。それも、そうとうに忘れたいことがあるときはなおさらだ。
しかし、だとしても、どう見ても怪しげな若者の集団に、のこのこついてくるものだろうか。
「ファンにはやさしいんだよ、おれは」
おどけたような言葉には、自虐的な色が見え隠れしていた。野球選手という人種にはもっと溌溂としているようなイメージを持っていたが、そうではないらしい。
「おれも、まさか、奥幸成がうちに泊まりにくるとは、思ってなかった」
自尊心をくすぐるためにいったわけではなかったが、口に出すと、よけいに不思議な感じがした。
いつものように公園で暇をつぶして、踊って、軽く缶ビールの数本も空けていた。場所をあらためて呑もうと腰を上げかけたとき、喜多嶋がこの間の野球選手がいるといい出したのだ。
公園の裏の小さな自動販売機で買いものなどしている奥に、国分は即座に声をかけた。
ファンだとは多少大仰ないいかたではあったが、そのへんの社交辞令は奥も承知しているようだったし、奥が地元のスターだったことには間違いない。
「でもさ、あんまりおれらみたいのと遊んでちゃ、よくないんじゃない。プロ野球選手ってイメージが大事だろ?」
「べつにいいよ」
「投げ遣り。だめだよ、そういうの」
国分はそっけなくいった。よけいなお世話だと怒鳴られるかもしれないと思ったが、奥は案外素直に頷いた。
「だけど、朝早いのはさすが、アスリートだね。今日、休みだっていってたのに」
皮肉めいた言葉に、奥が思い出したように顔を上げる。
「ちがうって、携帯。携帯がないんだよ」
「携帯?」
国分は不承不承ベッドを出て、床に落ちたブランケットを捲った。
「たしか、この辺に……あったあった」
奥が頻繁に落としてしまうので、預かっておいたのだった。了承は得たはずだが、忘れているらしい。
「超いっぱい着信あるよ」
奥は予想済みだというように曖昧に頷いた。着信表示を見ただけで、もちろん履歴まで開こうとはせずに、国分は奥に携帯電話を渡した。
「ちょっといいか、電話」
どうぞと肩を竦めて、国分は再びブランケットにくるまった。こっちはプロのアスリートというわけでもなければ、健康おたくでもない。できることなら、いつものように昼まで寝ていたかった。
「あ、奥だけど。ごめん、着信、気づかなかった」
おくだけど、という言葉のニュアンスが、苗字だとわかっていてもなんだか滑稽で、国分はこっそり笑った。ブランケットから腕を伸ばして、煙草を捜し求める。
「なにいってんだよ。帰れっていったのはそっちだろ」
低くしてはいるが、奥の声に苛立ちが混じっているのはすぐにわかった。もしかすると、女かもしれない。我妻洋司と杉内奈々のゴシップ記事を思い出して、国分は唇の端を歪めた。本人がきっぱり否定したということを奥から聞いて、喜多嶋は歓喜していた。記事がガセネタだったからといって、喜多嶋にチャンスが巡ってくるとも思えないが。そんなことよりも、煙草が見当たらない。
「ねえ、おっくん。おれの煙草、取ってないよね」
「ちょっと待てよ」
携帯電話に向かってことわってから、奥が首を捻る。
「取るわけないだろ。おれ、煙草吸わないもん」
「だよねえ。ごめん、ごめん」
奥の耳から離れた受話口から、男の声が漏れ出た。どうやら、スキャンダルではなかったようだ。
「え? ……友達だよ。いいだろ、べつに」
回線の向こうへ届けられる奥の声は疎ましげで、国分は息をひそめた。ベッドの下に落ちていた煙草とライターを拾い上げ、そっと部屋を出る。
早朝の住宅街はひっそりとしたものだ。冷たくなりはじめた風が、まだ少しアルコールの残った頭を冷ましていく。
数週間前に見かけたものの、言葉を交わしたのは、昨日がはじめてだった。地元が同じで、年齢も近いが、住む世界があまりにもちがう。
しかし、順風満帆とはいえずとも、野心と夢に満ち溢れているはずだと思っていたプロ野球選手は、実際には、国分たちとそれほど変わらないように思えた。なにがあったのかは知らないし、いちいち質す気もないが、おそらくは奥も、自分の居場所を探しあぐねているのだろう。今はどこでなにをしているとも知れない実の父親が、息子の将来にプロ野球選手の夢を抱いていたらしいことを思い出しながら、国分は短くなった煙草を階下に放り投げた。
「悪い。もういいぞ」
ドアが開いて、奥が顔を出す。国分は両腕をさすりながら、部屋に戻った。
「心配されてんじゃないの。やだよ、おれ、誘拐犯にされんの」
「そんなんじゃねえよ」
奥は笑ったが、表情はぎこちなかった。
「奥さん」
「やめろってば、それ」
「じゃ、奥選手」
「奥でいいよ」
「おっくん」
半分以上床に落ちたブランケットを爪先にひっかけながら、国分はいった。
「おっくんはさ、野球が好きで、プロになったのよね」
「まあ、嫌いじゃやらないよな」
「それにしちゃ、あんまり楽しそうじゃないね」
奥ははっとしたように国分を見つめた。深い意図があったわけではない。国分は慌てて手をかざした。
「よけいなお世話か」
7畳のワンルームを奇妙な沈黙が漂った。国分は軽く首を捻って、いった。
「今日、練習休みなら、もうちょっと遊ばない」
「なにして」
国分は肘を浮かせ、上半身を揺らしてリズムをとった。さすがに断るだろうと思ったが、奥は苦笑いを浮かべた。
「メシ食って、ジョギングしてからだな」
まさかおれもやらせようというのではないだろうなというようににらみつけたが、奥は涼しい顔だった。国分は大仰にため息をついて、着替えを取り出すためにクローゼットを開けた。



