CHEEERR!!

 体が大きく揺れて、奥は目を覚ました。伸ばした脚が車体にぶつかり、眉を寄せる。
「蹴るなよ。新車なんだぞ」
「いい車じゃん」
 返事があるとは思っていなかったらしい。運転席の我妻が驚いて隣の奥を見た。
「起きてたのか」
「今起きた」
 倒れていたリクライニングを戻して、奥は首を鳴らした。
「気持ち悪い」
「プロならちゃんと体調管理しろよ。明日も試合だろ」
「どうせ出番ないもん」
 車が急停車して、奥はつんのめりかけた。シートベルトに胸を締めつけられ、吐き気が増した。
「わかった、悪かったよ。マジで吐くぞ」
「あれが返事なの」
「なにが」
 胸元を掌で擦りながら、奥はため息をつく。我妻のほうを見ずにいると、いきなり腕をつかまれた。
「なんだよ」
「あれが返事だったのか」
「だから、なにが」
 深夜の筋道は、車どおりもほとんどなかった。沈黙の車内に、ウインカーの規則的な音が響いた。
「狭山さんと、どうやって知り合った」
「だからいっただろ。この前、球場の……」
「すごい仲よさそうだったじゃん」
「いいだろ、べつに。だいたい、おまえだって」
「おれのは誤解なんだって、昨日いっただろ」
 やぶへびを悟って、奥は舌打ちした。
 雑誌やテレビで知るよりも先に、我妻から電話がかかってきた。奥にとっては、多少は羨ましく思ったとしても、そこまで気にすることではない。しかし、我妻は必死になって弁解した。
 杉内奈々との写真が載ると思うけど、嘘だから。ほかの友達もいっしょだったのを、ふたりだけ撮られただけで、全然なんにも関係ないから。絶対信じるなよ。
 そういって、我妻は切迫した口調で、今夜の約束を半ば無理矢理取り付けたのだった。
「それはもういいよ。なんでいちいちおれにいいわけすんだよ」
「もうわかってんだろ」
「なにを」
「わかってて、わざと狭山さんを連れてきたんだろ」
「はあ?」
「おれにいわせないように、牽制したんだよな」
「ちょっと待てよ。おれはただ、おまえとふたりでいるのが嫌だったから真由子さんにきてもらっただけで、べつに……」
「おれといるの、嫌なんだ」
「……」
「おれのこと、嫌い?」
「嫌いとか……そういうんじゃないだろ」
 我妻が片手でシートベルトをはずす。軽い金属音がいやに大きく響いて、奥はぎくりとした。なんだ、これは。つまらない酒になるだろうとは思っていたが、こんな雰囲気は想像もしていなかった。
 我妻が左手を助手席のシートに引っ掛けて、上半身を乗り出す。奥は目を逸らしていたが、視界に入らずとも、我妻の視線を感じていた。居心地の悪さに、思わずシートの上で尻をずらす。
「奥……」
 低く名前を呼ばれ、背すじが粟だった。様子がおかしい。酔いが一気に醒め、笑いがぎこちなく歪んだ。
「なんだよ、おまえ……ちょっと気持ち悪いぞ」
 冗談めかした言葉でごまかしたつもりだったが、我妻の顔は薄暗い車内でもはっきりとわかるほど青褪めた。
「気持ち悪いか」
「我妻」
「おれのこと、気持ち悪い?」
「いい加減にしろよ。酔ってんじゃねえの」
「酔ってない」
 我妻の手に肩をつかまれ、奥は全身を強張らせた。並みの若者とは握力がちがう。脇に指先が食い込み、思わず顔をしかめる。
「ひとりで帰るわ、おれ」
 尋常でない我妻の勢いに気圧され、奥はロックを解除して助手席のドアを開けた。夏の終わりのぬるい夜風が頬を叩くが、冷静にさせるには力不足だった。
「待てよ。まだ話終わってない」
「離せ」
 渾身の力をこめて腕を振り払うと、奥は逃げるように体を車外に出した。
「奥!」
 我妻が追いすがってくるとは思ってもみなかった。外に体を向けたまま、奥は咄嗟に力いっぱいドアを閉めた。
 背後でいやな音がして、奥は硬直した。弾かれたように振り向くと、ドアは開いたまま、大きくバウンドして左右に揺れていた。
「我妻……」
 上半身を屈めて車内を覗き込む。我妻は運転席から助手席に身を乗り出した体勢でうずくまっていた。
「今の音、なんだよ……」
 震える声で叫ぶ。我妻は返事にならない呻き声を漏らし、起き上がろうとしていた。落ちた右肩を庇うように、体を捻っている。形容しがたい寒気が、奥の脊椎を痺れさせていた。
「見せてみろ。腕、見せろ」
「なんでもない」
「なんでもないことないだろ!」
「なんでもないんだよ!」
 青褪めた顔を背け、我妻は勢いよくドアを閉めた。
「悪いけど、タクシーで帰ってくれ」
 圧しころした声とともに、我妻はエンジンに火を入れた。奥の制止を聞かず、急発進させる。
 去っていくテールランプを見つめながら、奥は茫然自失だった。
 身間違えようがない。我妻は左手でイグニッションを回したのだ。