CHEEERR!!

 ドアに設置されたカウベルを鳴らしながら真由子が現れると、安堵と後悔が混在した妙な気持ちになった。
 ボックス席から手を振って合図すると、真由子はすぐに気づいて、大股に歩いてきた。長い体を奥の向かいの席に滑らせて、息をつく。
「すみません、急に」
「いいの、どうせ暇してたから」
 真由子が脚を組むと、小ぶりのテーブルの下からシューズの爪先が覗けた。きっちりとまとまったパンツスーツにはあっていない。仕事を終え、帰宅してすぐに出てきたのだろう。奥は申し訳なくなり、真由子のほうにメニューを押し出した。
「ありがとう」
 真由子は少し迷ってから、シャンディーガフを注文した。メニューを閉じ、ようやく奥を見る。
「お友達は?」
「今からきます」
 真由子はそれ以上聞かずに、カウンター席のほうを眺めはじめた。彼女を呼んだことを後悔しかけていた。真由子がくるまでの1時間弱を、携帯電話をいじくりまわして過ごしていたのだ。
 チアダンスがどうしたというような話をあらためて持ち出してくるような子供じみた女ではないが、心配なのはむしろ、真由子よりも友人のほうだった。
 乾杯をしてすぐにタンブラーを口に持っていく真由子の伏せた顔を、奥はそれとなく見つめた。
 切れ長の目と真っ直ぐにとおった鼻梁が涼やかだ。美人ではあるが、テレビで愛想を振り撒くにはすこし無機質な顔立ちだった。「連れ」として他人の目に触れさせるには、じゅうぶんすぎる相手。しかし、この店にきてすぐに真由子のことを思い出したのは、彼女の顔でもスタイルでもなく、職業のせいだった。
 カウベルの軽やかな音。振り返った真由子が目を見開いたが、我妻はもっと驚いていた。
「よう、久し振り」
 雑に手招きする。我妻は真由子から視線を離すことなく、奥の隣にかけた。Vネックの黒いシャツにデニムといったラフなスタイル。どこにでもいるふつうの若者といった服装ではあるが、盛り上がった胸筋がシャツの生地を圧し上げ、鍛えられた腕がシャツの袖から伸びている。
「こちら、狭山真由子さん」
「知ってる」
 真由子を見た一瞬は表情を強張らせたものの、奥の紹介を聞く頃には、我妻はとっくに如才ない笑みを取り戻していた。
「“ミュージック・ジャンゴ”、見てました」
「ありがとうございます」
 真由子も穏やかに微笑した。
「わたしも、テレビでよくお見かけしてます。奥くんと同じチームの……」
 奥の顔に視線をはしらせ、真由子が不自然に言葉を切る。奥は聞こえていないふりをした。
「知り合いだったなんて、聞いてないぞ」
 我妻が奥の腕を突く。おどけた声や表情ではあったが、痛かった。
「この間知り合ったんだよ。球場の前で、偶然」
 奥と真由子が頷きあうのを、我妻は顎を逸らして眺めている。
 ひととおりの自己紹介と近況報告が済むと、案の定、会話は途切れがちになった。野球の話も異性の話も控えざるをえないとなると、共通の話題はほとんど皆無にちかい。やはり真由子を同席させたのは間違いだったかとも思うが、我妻とふたりよりはましだ。いつからだろうか。彼といると、心底気詰まりでならない。
 たぶんそれは、我妻のせいではなく、奥のせいだろう。変わったのは我妻ではなく、奥のほうだった。真由子も今では、なぜ電話が鳴ったのかに気づいているだろう。
 我妻と真由子の世間話を、奥は捻れた思いで見守っていた。氷の融けかかった水割りを一気に飲み下す。酒の味をおぼえたのは、プロに入ってからだった。そのプロの世界にも、今季限りしかいられなくなりそうだ。
 明後日には一軍監督がファームを見にくることになっている。練習をしなければならない。練習を……
 舟を漕ぎはじめた奥を見て、真由子は笑いを噛み殺した。視線に気づいた我妻も、肩を竦めてみせる。
 夜更かしに慣れていないのは我妻も同じだろうが、奥の目を盗んでさっきからウーロン茶ばかりを飲んでいる。全身から若々しさを漲らせているが、分別も弁えている。男選びに関してはシビアな杉内奈々が合格点を出したのにも、じゅうぶん頷けた。
 こんなことなら、もうちょっと気を遣ってくるべきだったと、シューズの爪先を見下ろして、真由子は冗談半分に思った。しかし、我妻は奥以上に真由子に興味を示さない。気さくに話はするが、最低限の距離は守るつもりらしく、真由子にはそれがかえって気楽に思えた。
「我妻、酒」
「もうないよ」
「新しいの入れりゃいいじゃん。儲かってんだろ」
 我妻の表情が曇る。酔いがすすむにつれ、奥の口は滑らかになり、多すぎる禁句にまで気を配っていられなくなったらしい。とくに我妻に対しては、あからさまに尖った言葉を投げつけ、そのたびに真由子も居心地の悪さをおぼえた。
「明日も練習じゃないのか」
「うるせえ、馬鹿」
 壁によりかかりながら、奥が暴言を吐く。子供じみた口調だった。我妻が同意を求めるように向けてくる苦笑いを、真由子はやわらかく受け止めた。
「おい、ガッツ。真由子さんを口説くなよ」
 我妻の笑みが強張る。真由子も視線を逸らすしかなかった。
「真由子さんは、おれとチアダンスするんだから。ね、真由子さん」
「ああ……そうだよね」
 曖昧に頷いてみせ、真由子は内心ため息をついた。我妻が眉を寄せる。
「チアダンス?」
「あ、いえいえ、なんでもないんです」
 奥はテーブルに突っ伏して、すでに眠りに落ちかけているようだった。真由子は首を傾げて、奥の寝顔を見つめた。無邪気なものだ。プロ野球選手とはいっても、まだ20歳やそこらの子供である。いや、プロの選手だからこそ、世慣れしていないのかもしれない。
 人気アナウンサーとの熱愛が報じられた我妻に対抗するつもりで真由子を呼んだのなら、それはあまりに浅はかな行為だ。実際に、我妻も、真由子を見た一瞬こそ驚いた顔を見せたものの、とくに気にしている様子はない。そのことには、奥だって気づいているだろう。うしろめたさが、奥に深酒をさせているのだった。
 自己嫌悪に陥るぐらいなら、はじめからしなければいいのにとは思うが、不思議と真由子は嫌悪感をおぼえなかった。奥に悪意があったわけでないことはわかっていたし、稚拙な計略には不潔感がなかった。
「寝ちゃいましたね。飲みすぎかな」
「あ、おれ、送って帰りますよ」
「だいじょうぶですか」
「酒は飲んでません」
「でも、明日、早いんでしょ」
「ホームのナイトゲームですから。狭山さんこそ、お仕事があるんじゃないですか」
「ええ、まあ……」
 正直、これ以上睡眠時間を削ると、翌朝の仕事に差し障りが出る。眠りこけている奥にそっと視線を向けた。奥が身動きするのに合わせてテーブルのグラスを退けたり、冷えたおしぼりを首の後ろにあてがったり、我妻は甲斐甲斐しい手つきで気を遣っている。仲のいいチームメイト同士ということだし、心配することはないだろう。
「じゃ、お先に失礼します」
 バッグを取り上げ、真由子は席を立った。
「またね、奥くん」
 眠っている奥の頭に軽く触れ、我妻に一礼してその場を辞去した。
 奥の作戦に気づいたときには、さすがに自尊心を傷つけられたが、我妻は思ったよりも好青年だった。あの杉内奈々と付き合っているというから、たいした男ではないだろうと思っていたが、甲斐性もあるようだ。さすがに面と向かって質すことはできなかったが、あの報道も、案外あてにならないかもしれない。
 自分の知らない野球の話にもそれなりに興味が持てたし、若い男に囲まれて、心なしか肌の艶もよくなったようだ。心のなかの独白に、真由子はタクシーのなかでつい笑ってしまった。