CHEEERR!!

 奥と国分のために用意された席は、一塁側フィールドシートだった。マウンド上の我妻をもっとも間近に見ることができる特等席だ。国分のにやついた笑いを、奥は無視した。外国式の冗談にはついていけない。
 試合がはじまり、ビールを飲みながらの会話は、自然と仲間の噂話になる。周囲に日本人の姿はほとんどなく、我妻の話題にも花が咲いた。
「それで?」
 口元に纏わりつく泡を舌先で舐め取って、国分はいった。
「さすがにもう告白された?」
「いや」
「まだ? どんだけヘタレなんだよ、あいつ」
「今日、10三振獲れたら、いうってさ」
「先発でもないくせに」
 国分は顔をしかめた。
「日本にいた頃も、そんなんばっかだろ。ノーノーしたらつったら9回裏にホームラン打たれるし、20勝したらつったら、19勝あげた直後に怪我するし」
 奥は笑いを噛み殺した。日本でのできごとに関心がないといいながら、詳しいものだ。おおよその情報は田所をとおして仕入れているにしても、わざわざ数字まで挙げて我妻をこき下ろす国分を横目に見ながら、彼の本質がまったく変わっていないことに安堵する。
 6回に入り、1点差、一死満塁の場面で、投手交代が告げられた。リリーフカーに乗って我妻が登場すると、国分は即座に立ち上がった。
 周囲の観客たちの激励を受けながら、国分は口元を両手で挟むようにして声を張り上げている。我妻を嫌っているように振舞う国分の必死の応援が、我妻に届いていればいいと奥は思った。
「それにしても、まさかほんとにメジャーまで行くとは思わなかった」
 奥の視線に気づいた国分が、慌てて醒めた表情をつくる。
 我妻は神奈川ヴェルヴェッツのエースとしてチームを二度優勝へ導く大活躍を見せた。昨年、日本のプロ・リーグを飛び出し、米ナショナル・リーグの名門ニューヨーク・ジェッツと契約。期待の新人として迎えられたものの、ボールやプレイスタイルの変化にうまく対応できず、思ったような成績を残せずにいた。
 球場に入る直前、空港まで奥を迎えにきた冴えない表情を思い出す。しかし、マウンドに上がる我妻の顔には、迷いがなかった。
 球場に向かう途中で、また帽子を渡された。洗濯で掠れてしまっただとかでこれまでに二度ほど真新しい帽子が送られてきて、そのたびに油性ペンでおなじメッセージを書いて送り返してやった。目の前で書いたのは最初の1回目以来だった。我妻は子どものように喜んで大切そうに受け取った。
 初球は伝家の宝刀であるフォーク。まったくタイミングがあわずに、派手な空振りでストライクになる。肩の筋肉を消耗させるフォークを投げる投手は大リーグでは珍しく、慣れるまでに時間がかかる。切れのいい変化球にストレートをうまく織り込んで、我妻は相手チームの4番を三振に切って取った。
 ポーカーフェイスの我妻が、脇腹の辺りで拳をつくる。アウトのコールを聞いて、国分は腕を振り上げた。
 二死とはいえ、いまだ満塁で、クリーンナップの危機が続く。我妻は集中力を切らさずに、土を蹴った。
 初球を叩かれた。客席から悲鳴と喚声が上がり、大柄な打者に思い切りミートされたボールはぐんぐんスピードを増し、レフトに向かって突き抜けていく。
 外野手がボールを追いかけ、打者が一塁に走る。我妻も振り向いて、ボールの行方に目を凝らした。
 切れろ。奥は膝の上で指を組んだ。切れろ、切れろ、切れろ……
 ポールをわずかに逸れて、ボールが客席に消えた。塁審の判定はファール。安堵と落胆の声がスタジアムを包んだ。
「心臓に悪い」
 国分が椅子に座りなおす。奥も苦笑いを返した。完全にホームラン性の当たりだった。ただでさえ成績が思わしくない。満塁ホームランなど打たれたら、我妻が責任を問われるのは明白だった。
 この試合の重要さは、我妻もよく理解しているだろう。それが重圧になった。3球連続ボール球を投げ、一気に不利なカウントに追い詰められた。押し出しでも点が入る厳しい状況のなか、バッテリーが選んだボールはフォークだった。しかし、見破られていた。待ち構えていたバットがボールを強打したが、わずかに芯を捕らえられず、ファールになった。
 強烈な打球がフィールドシートに飛び込む。危うくぶつかりそうになり、奥や国分をはじめとする観客は慌てて頭を下げた。
 我妻がはっとする顔が目に入った。フィールドシートだけでも数百人を越える客がいるのに、視線が絡みあったような気がした。
 馬鹿……
 心のなかだけで呟く。おれの心配なんかしなくていいんだよ。自分の心配しろよ。
 口に出さない思い……というか、悪態が伝わったのか、我妻が小さく頷いた。そう見えた。
 新しいボールを受け取り、マウンド上の我妻が唇を尖らせて薄く静かに息をつく。呼吸を整え、軽く腕を回すと、さっきまでの緊張は消え、憎らしさを感じさせるほどに冷静でリラックスした投手に変身した。
 フルカウント。奥は無意識のうちに膝の上で拳を握りしめていた。

 フルカウント。いうまでもなく、両チームにとって最大の勝負どころだ。我妻の真剣な表情がスクリーンに映し出された。
 やっぱり、気に入らねえ。スター選手として輝き続ける我妻の日に焼けた顔を見ながら、国分はあらためて思った。厭味な野郎だ。厭味な野郎だが、野球をしているときだけは。
「かっこいいじゃん」
 奥が振り向く。国分は唇を曲げて笑ってみせた。
 頑張れよ、ガッツ。
 浅く席に座ったまま、国分の心は我妻のために踊っていた。我妻を応援し、勝利を呼び込むチアダンス。それが国分の原点だった。
 我妻が腕で乱暴に汗を拭う。脱いだ帽子を胸の前で構え、じっと見つめる。ここぞという場面でのルーティーン。待ち構えていたかのように、カメラが手元に寄った。
 後ろの席にいたサングラスの客に、肩を叩かれた。
「あれは日本語か?」
 球場のスクリーンにアップになった帽子。つばに書かれた文字を指差して、尋ねてくる。
「なんて書いてあるんだ?」
 国分はため息をついた。どうやら、俄ファンらしい。日本での選手時代から続く“クレイジー・ガッツ”というニックネームの由来は、ジェッツのファンならだれもが知っていることだ。
「馬鹿」
 短い日本語。サングラスの奥の目が丸くなる。
「バ……?」
「この鈍感野郎って意味だよ」
 早口の英語でいって、国分は男のレプリカユニフォームの肩を叩いた。
 我妻が深呼吸し、脚を振り上げる。腕が撓り、ボールがリリースされた。
 渾身の直球は、低めぎりぎりの位置を掠めてキャッチャーのミットに吸い込まれた。打者は一歩も動けなかった。隣にいる奥の喉が鳴る音が聞こえてくるようだった。
 ストライク、バッターアウト。
 グラウンドが大きく揺れた。国分は体をぶつけるように奥と抱きあった。
 マウンド上で我妻がガッツポーズをつくる。日本にいた頃にも、滅多に見られない姿だった。
 マウンドを降りる寸前、我妻はこちらに向けて帽子を振った。汗だくの顔を見ながら、奥がなにか呟いた。小さな声は、周囲の喚声にかき消された。でもたぶん、こういったのだと思う。
 馬鹿。



おわり