CHEEERR!!

 キューがかかる瞬間の緊張感。背すじがぴんと伸びる感覚は、忘れようと思っても忘れられるものではなかった。
「神奈川ヴェルヴェッツネットスポーツニュースナビゲーターの狭山真由子です」
 カメラに向かって挨拶し、原稿に目を落とすことなく喋る。
「本日の福岡スタジアムでのベガーズ戦では、今季初登板千倉投手の7回被安打6無失点の力好投に、打っては6回に鏑木選手がタイムリーツーベースヒットを放ち、ヴェルヴェッツが勝利しました。ヴェルヴェッツは貯金を6に増やし、リーグ2位に浮上。1位のロークスを3・5ゲーム差で追いかけます」
 カメラが大きく引き、全体を映し出す。
「本日のゲスト解説は、ヴェルヴェッツ黄金時代を築いたかつてのエース、田所悟史さんです」
「よろしくお願いします」
 スーツを着た田所が、律儀に頭を下げる。
「序盤こそいまいち調子が上がりませんでしたが、シーズンも折り返しに差し掛かって、徐々にヴェルヴェッツらしい試合展開ができるようになってきたんじゃないでしょうか」
「そうですね。主力選手を失って、どうなるかと思いましたが、チームが一丸となって頑張っていますよね」
「ロークス戦では、微妙な判定もあって、負け越してしまいましたが」
「まあ、主審の判定ですから、しかたがないでしょう。監督が抗議するのもわかりますけど、あの場合は……」
「わたしには、あの打球は完全にノーバウンドに見えました。ベガーズとの5回戦でも、3塁ベースの踏み忘れが問題になりましたね。昨今の審判員の技術に関しては、率直にいって、疑問を感じざるをえないのですが、その点はどう思われますでしょうか」
 田所がにやりと笑い、視線が絡み合う。
「審判のスキルには、たしかに、今後改善する余地は多いにあるでしょうね」
「しかし、カメラによる判定には、個人的には躊躇をおぼえますね。より確実性を求めるには、そのほうがいいのかもしれませんが、ベースボールファンも、戸惑いを隠しきれていないようです」
「それに関しては、わたしも同意見です。やはり、審判も含めての野球ですから。機械に任せてしまうことには、抵抗があります」
「審判、選手ともに、実力の向上に力を尽くしてくれることを願います。では、ここでいったんCMをご覧いただきます」
 撮影が終わり、真由子は首を捻って息をついた。
「やるねえ、相変わらず」
 田所が囁いてきて、真由子は苦笑いしてみせる。
「やりすぎという評価もいただきますけど」
「そのぐらいでいいんだよ。当たり障りないニュースがよけりゃ、民放を見るさ」
 長閑な顔で、露骨なことをいう。真由子は迎合の笑みを浮かべたが、田所の指摘はもっともだった。現実に、真由子が担当しはじめてからの番組には、苦情も多いが、それを上回る賛辞のコメントが多く、視聴率も安定していた。
 球団にも視聴者にも媚びることなく、アナウンサーとしての権限を逸してまでも厳しい意見を述べる真由子の姿勢が、コアな野球ファンの心をつかんでいるのだった。そのぶん、ぼろが出ないように、必死の勉強が必要だったが、真由子は努力を惜しまなかった。暇があれば球場に出向き、試合を観戦して、知識を増やしていった。選手の信頼も厚く、ネット放送には珍しい独占インタビューを勝ち取ることも少なくなかった。きわどい質問も無遠慮に投げかけてくるので、ゲストに敬遠されることもあったが、一部の解説者は、真由子の誠意と勤勉さを買ってか、民間放送では口にしないことも惜しまず、熱心に語ってくれた。はじめた頃は弱小のネット番組に過ぎなかった放送も、開始から5年がたった今では、玄人向けのスポーツ番組として、重宝されるようになっていた。
 一度は断ろうとした契約に踏み込んだのは、国分たちの説得のおかげだった。奥を説き伏せたのと同じように、情にほだされるかたちになってしまったが、本心では彼らに感謝していた。
 スタジオを出ようとした真由子を、だれかが呼び止めた。女の声。しかも、知っている声だ。周囲を見渡す。階段の下で、杉内奈々が手を振っていた。
「久し振りじゃない」
 階段を降りながら、真由子は微笑を浮かべた。
「ニュース見たよ。おめでとう」
「ありがとうございます」
 奈々が照れ笑いを見せる。ヴェルヴェッツの若手投手千倉との結婚、妊娠が報道されたばかりである。奈々は結婚を機にあっさり仕事を辞め、専業主婦になることを宣言していた。しかし、いまだにメディアには追い回されているはずで、わざわざ挨拶にくるとは思っていなかった。
「予定よりは小物に終わっちゃいましたけど」
「相変わらずだね」
 呆れるよりも笑ってしまった。
「体調、どう」
「順調です。おかげさまで」
 悪態をついたわりに、幸せそうだった。どこか演技じみた奈々の笑顔を、真由子ははじめて可愛らしいと思った。
「わたし、やっぱり、女の幸せは結婚だと思うんです」
 奈々が唐突にいう。勝ち誇りにきたのかと思ったが、そうでもないらしかった。珍しく躊躇いがちに俯きながら、奈々は言葉を紡いだ。
「でも、狭山さんみたいに、結婚を諦めてまで自分の夢を追いかけるのも、かっこいいと思います。それだけ、どうしてもいいたくて」
 はじめて耳にする奈々の正直な言葉に、真由子は微笑んだ。しかし、最後にちゃんとこう付け加えておくのも忘れなかった。
「わたしはまだ結婚を諦めたわけじゃないからね!」