「幸成……」
我妻の声と息が耳の裏を吹き抜けていく。どちらもぎくりとするほど熱かった。想像もしていなかった展開に、奥は完全に混乱して、動くことができずにいた。
我妻は無言で奥の肩に手をかけ、体を反転させて自分のほうを向かせた。抵抗がないのを確かめたからか、つよい意思を感じさせる動作だった。
至近距離での視線を感じたが、真っ直ぐに見返すことができなかった。目眩がするほどの動悸を意識しながら、奥は何度も目を瞬いた。
「幸成」
もう一度名前を呼ばれた。返事をすべきなのか、それともただ呼ばれているだけで無意味なのか、判然としない。咄嗟に目を上げた。すぐに後悔した。視線がぶつかり、これまでに一度も見たことのない我妻の高熱を孕んだ眼差しに捕まれた。
日焼けした顔が近づいてきて、奥は思わず身を竦めた。ぎゅっと目を閉じ、拳を握りしめた。距離が詰まる気配がしたが、それ以上はなにも起きなかった。
おそるおそる目を開けると、さっきとおなじ場所におなじ表情の我妻の顔があった。またどきっとする。心臓に負荷がかかりすぎている。
「あのさ……」
「え?」
声が裏返り、噎せ返った。体を折り曲げて咳き込む奥の背中を掌で擦りながら、我妻は心配そうに眉を顰めた。
「平気か?」
「うん……」
かろうじて頷き、深呼吸する。
「なに?」
「あ、いや、なんかくるしそうだし、後でも……」
「いいから早くいえ!」
奥が怒鳴ると、我妻は萎縮したように肩を竦めた。おずおずといった。
「頼みがあって」
唐突な申し出に、奥は眉を上げた。我妻の声には切実さが混じっていた。
「なんだよ」
緊張を隠すようにあえて乱暴にいった。
「……これに」
我妻は頭に被っていた帽子を脱いで、奥に差し出した。裏返し、つばの部分を示してみせる。
「帽子のここんとこ、なにか書いてくれないかな」
「なにかってなに」
「なんでもいいから」
中学生のように顔を赤らめて、我妻は目を伏せる。ちゃっかり油性ペンも用意されていた。奥は呆れて帽子を受け取った。
「ファンかよ」
「ファンだよ」
我妻は照れもせず真顔で即答した。
「おれはずっと奥幸成のファンだよ」
柄にもなく、涙ぐみそうになった。我妻の態度は一貫していた。立場が変わっても、どれほどの実績を上げても、我妻はまったく変わることがなかった。いつも奥だけを見ていた。
泣きそうだと知られないように、奥は俯き、ペンのキャップを乱暴にはずした。
「頼みってそんだけ?」
「うん」
ため息が漏れた。奥はベンチに座りなおし、うなだれて、帽子を持った手で顔を覆った。我妻のシャンプーの匂いが鼻腔を刺激した。
顔が熱いのは羞恥のためだった。いきなり抱きしめられて、これまでにないほど距離が近づいて、次の言葉が帽子に文字を書けなど、そんなこと、想像できるはずがない。奥が想像していたのはもっとべつの……
「あの……幸成……」
「うるせえ。名前で呼ぶな、馬鹿」
「また馬鹿っていう……」
我妻は突っ立ったまま、教師に叱責される子どものように大きな体を縮こまらせている。
「なんで怒ってんだよ」
「怒ってねえよ。勘違いすんな、この馬鹿!」
わけがわからないといった表情で口を噤む我妻をにらんでから、視線をはずす。怒っているわけではなかった。ただ、戸惑っていた。勘違いしたのは奥のほうだったからだ。勝手に勘違いをして、そのうえ、受け容れるような体勢を取ってしまった。実際に、奥が想像していたとおりのことが起こったとしたらどうなっていたか……
「ゆ……奥?」
気づくと、我妻が目の前で膝を折っていた。主に傅く従者のように片膝をつき、奥の顔を覗き込んでいる。
「な、なんだよ」
手が伸びてきて、咄嗟に身を跳ねさせる。
「いや、顔赤いから」
「赤くねえよ! 馬鹿か!」
「何回いうんだよ……」
「うるせんだよ! おまえのそういうとこがおれは……」
壁に衝突したかのように、動きを止めた。それ以上の言葉が出てこなかった。我妻の戸惑ったような顔が近づく。
「え、なに?」
我妻の匂いがまた濃くなって、奥はいっそう肌の表面を燃やした。
「なんでもねえよ!」
手にしていた帽子を我妻の胸に圧しつけ、立ち上がる。
「もうおれ帰る!」
「え、メシは?」
我妻も慌てて立ち上がる。
「さっき行かないつっただろ!」
「行かないとは行ってないよ。行きたい」
「もう遅い! 気が変わった!」
我妻の体を圧し退けてドアを開け、ロッカールームを出る。当然のように我妻が後を追ってきた。
「ちょっと待って。これ、書いてくんないの?」
帽子を持って、大股に歩く奥に並ぼうとする。
「書かない。よく考えたらおまえ敵チームだし」
「え、なんでなんで。いいじゃん、そんなのべつにルール違反じゃないだろ」
「なんでじゃねえ。おれが書きたくないからだよ」
「そんなケチいわないでさ、頼むよ、幸成……」
「だれがケチだ! 名前で呼ぶなっつってんだろ!」
学生のように騒ぎながら、我妻と奥は球場の廊下を歩いていった。廊下は無人だったが、だれかがふたりを見たときに、その関係をどう名付けるか、どうでもいいと思っていた。どちらもがおなじことを考えていた。
我妻の声と息が耳の裏を吹き抜けていく。どちらもぎくりとするほど熱かった。想像もしていなかった展開に、奥は完全に混乱して、動くことができずにいた。
我妻は無言で奥の肩に手をかけ、体を反転させて自分のほうを向かせた。抵抗がないのを確かめたからか、つよい意思を感じさせる動作だった。
至近距離での視線を感じたが、真っ直ぐに見返すことができなかった。目眩がするほどの動悸を意識しながら、奥は何度も目を瞬いた。
「幸成」
もう一度名前を呼ばれた。返事をすべきなのか、それともただ呼ばれているだけで無意味なのか、判然としない。咄嗟に目を上げた。すぐに後悔した。視線がぶつかり、これまでに一度も見たことのない我妻の高熱を孕んだ眼差しに捕まれた。
日焼けした顔が近づいてきて、奥は思わず身を竦めた。ぎゅっと目を閉じ、拳を握りしめた。距離が詰まる気配がしたが、それ以上はなにも起きなかった。
おそるおそる目を開けると、さっきとおなじ場所におなじ表情の我妻の顔があった。またどきっとする。心臓に負荷がかかりすぎている。
「あのさ……」
「え?」
声が裏返り、噎せ返った。体を折り曲げて咳き込む奥の背中を掌で擦りながら、我妻は心配そうに眉を顰めた。
「平気か?」
「うん……」
かろうじて頷き、深呼吸する。
「なに?」
「あ、いや、なんかくるしそうだし、後でも……」
「いいから早くいえ!」
奥が怒鳴ると、我妻は萎縮したように肩を竦めた。おずおずといった。
「頼みがあって」
唐突な申し出に、奥は眉を上げた。我妻の声には切実さが混じっていた。
「なんだよ」
緊張を隠すようにあえて乱暴にいった。
「……これに」
我妻は頭に被っていた帽子を脱いで、奥に差し出した。裏返し、つばの部分を示してみせる。
「帽子のここんとこ、なにか書いてくれないかな」
「なにかってなに」
「なんでもいいから」
中学生のように顔を赤らめて、我妻は目を伏せる。ちゃっかり油性ペンも用意されていた。奥は呆れて帽子を受け取った。
「ファンかよ」
「ファンだよ」
我妻は照れもせず真顔で即答した。
「おれはずっと奥幸成のファンだよ」
柄にもなく、涙ぐみそうになった。我妻の態度は一貫していた。立場が変わっても、どれほどの実績を上げても、我妻はまったく変わることがなかった。いつも奥だけを見ていた。
泣きそうだと知られないように、奥は俯き、ペンのキャップを乱暴にはずした。
「頼みってそんだけ?」
「うん」
ため息が漏れた。奥はベンチに座りなおし、うなだれて、帽子を持った手で顔を覆った。我妻のシャンプーの匂いが鼻腔を刺激した。
顔が熱いのは羞恥のためだった。いきなり抱きしめられて、これまでにないほど距離が近づいて、次の言葉が帽子に文字を書けなど、そんなこと、想像できるはずがない。奥が想像していたのはもっとべつの……
「あの……幸成……」
「うるせえ。名前で呼ぶな、馬鹿」
「また馬鹿っていう……」
我妻は突っ立ったまま、教師に叱責される子どものように大きな体を縮こまらせている。
「なんで怒ってんだよ」
「怒ってねえよ。勘違いすんな、この馬鹿!」
わけがわからないといった表情で口を噤む我妻をにらんでから、視線をはずす。怒っているわけではなかった。ただ、戸惑っていた。勘違いしたのは奥のほうだったからだ。勝手に勘違いをして、そのうえ、受け容れるような体勢を取ってしまった。実際に、奥が想像していたとおりのことが起こったとしたらどうなっていたか……
「ゆ……奥?」
気づくと、我妻が目の前で膝を折っていた。主に傅く従者のように片膝をつき、奥の顔を覗き込んでいる。
「な、なんだよ」
手が伸びてきて、咄嗟に身を跳ねさせる。
「いや、顔赤いから」
「赤くねえよ! 馬鹿か!」
「何回いうんだよ……」
「うるせんだよ! おまえのそういうとこがおれは……」
壁に衝突したかのように、動きを止めた。それ以上の言葉が出てこなかった。我妻の戸惑ったような顔が近づく。
「え、なに?」
我妻の匂いがまた濃くなって、奥はいっそう肌の表面を燃やした。
「なんでもねえよ!」
手にしていた帽子を我妻の胸に圧しつけ、立ち上がる。
「もうおれ帰る!」
「え、メシは?」
我妻も慌てて立ち上がる。
「さっき行かないつっただろ!」
「行かないとは行ってないよ。行きたい」
「もう遅い! 気が変わった!」
我妻の体を圧し退けてドアを開け、ロッカールームを出る。当然のように我妻が後を追ってきた。
「ちょっと待って。これ、書いてくんないの?」
帽子を持って、大股に歩く奥に並ぼうとする。
「書かない。よく考えたらおまえ敵チームだし」
「え、なんでなんで。いいじゃん、そんなのべつにルール違反じゃないだろ」
「なんでじゃねえ。おれが書きたくないからだよ」
「そんなケチいわないでさ、頼むよ、幸成……」
「だれがケチだ! 名前で呼ぶなっつってんだろ!」
学生のように騒ぎながら、我妻と奥は球場の廊下を歩いていった。廊下は無人だったが、だれかがふたりを見たときに、その関係をどう名付けるか、どうでもいいと思っていた。どちらもがおなじことを考えていた。



