ワンアウトで奥が塁に出たのにもかかわらず、その後は我妻と交代で登板した抑え投手にあっけなく抑えられ、けっきょく、9対0のまま、試合は終了した。
客がすべて退き、夕暮れが迫るグラウンドでは、担当者が整備をはじめていた。選手もスタッフもすでに引き上げ、ロッカールームは無人だった。
「よう」
廊下に出ると、私服に着替えてスポーツバッグを提げた我妻が、日焼けした顔を擦りながら近づいてきた。選手に支給されているチームの公式トレーナーを着ている。帽子にもチームのロゴがプリントされている。奥も持っていたが、私服としてつかったことはなかった。
「おう」
奥もユニフォームを脱ぎ、とうに帰り支度を整えていた。だれもいない廊下で向き合うふたりの間をぎこちない空気が漂った。
「ちょっといい?」
「あ、うん」
ロッカールームのドアを開け、体を脇に寄せて我妻を招き入れた。シャワーを浴びたのか、シャンプーとボディソープの香りが通り過ぎていった。
「ナイスピッチングだったな」
「皮肉かよ」
スポーツバッグをベンチに置いて、我妻は唇の端を歪めた。
「おまえに打たれたんじゃ、意味ない。完投もできなかったし」
「完全に打ち取られてた」
正直にいった。結果的にヒットがつきはしたものの、ライトのエラーがなければ、どう考えてもアウトだった。我妻の投球は完璧で、非の打ちどころがなかった。奥への最後の球は、162キロの自己新記録だった。
「ヒットになったら、いっしょだよ」
投げ遣りにいう我妻の表情は、悔しそうだった。
「抑えられたらいうつもりだったことって、あれ、なんだよ」
「いえねえよ、こうなったら」
「いいじゃん。いえよ。ラッキーなヒットだったんだから」
「でも、ヒットはヒットだ」
「おれがヒット打ったら聞くっていっただろ」
「ヒットじゃないんだろ」
「めんどくせえな。いいたいのかいいたくないのかどっちだよ」
奥は苦笑いした。こんなふうに我妻と素直に向き合えたのは、どのぐらいぶりだろう。勝負に勝ったからではない。試合には負けているのだ。勝ち負けを越えたなにかが、奥の心を穏やかにしていた。
「あのさ……」
「ん?」
「えっと……」
狭いロッカールームを所在なさげにうろつきながら、我妻が口籠もる。マウンド上で吼えていた姿が嘘のように自信なさげで優柔不断な態度に、奥は半ば呆れていた。ベンチに座って、籠のなかのモルモットのようにせわしなく右往左往する我妻を眺める。
「なんなんだよ。早くいえって」
「うん、あの……」
周囲が気になるのか、視線を彷徨わせる。もともと気が短い奥は苛立ちはじめた。
「だれもいないだろ。さっさといえって。いわないなら帰るぞ」
「わかった……」
促されて、ようやく口をひらく。顔を伏せ、10センチ以上身長が低い奥を覗き込むようにして、いった。
「おれ、アメリカ行くかも」
「アメリカ? なにしに?」
反射的に返してから、間の抜けた反応だったことに気づいた。
「……メジャー行くの?」
我妻の成績と評価を考えれば、不思議なことではない。しかし、いずれはと思っていても、勝手にもっと先の話だと信じ込んでいた。思いがけない話に、奥は自分でも驚くほど狼狽していた。
「ポスティングの話、ちょっと前から進んでて。だれにもいっちゃいけないことになってるから、おまえにもいえてなかったんだけど……」
「今いっちゃってんじゃん」
「だからおまえだけ……」
ポスティングの守秘義務がどれほど厳重なものか、メジャーなど夢を見ることさえ叶わない奥にも想像できた。奥と我妻は友人というわけではない。今では同僚ですらない。大きなリスクを背負ってまで打ち明ける理由を問い質したかったが、同時に、知るのが怖いと思った。
「そっか……」
躊躇していたのは、奥の劣等感を刺激することを危惧したのかもしれないが、もしそうでも、もはや腹は立たなかった。かつて同期のライバルだったふたりの差は埋めようがないほど広がっていて、メジャー球団から声がかかっているという事実にも、ショックを受けることはなかった。しかし、まったく心が乱れなかったかというと、そうではなかった。
「あんま会えなくなるんだな」
無意識に呟いていた。我妻が顔を上げる。
「え?」
「え?」
ほぼ同時に発声していた。見つめあう。ほぼ同時に、赤面した。
「いや、ちがう、今のはよくないな。ごめん、間違えた。えっと、おめでとう? いや、まだ決まったわけではないのか、あの、頑張れ、かな。頑張れよ、な」
慌てて弁解しようとしたが、舌が縺れてうまくいかなかった。なんといっていいのかわからずに戸惑ったが、いくつもあるはずのパターンに絶対に嵌まらないであろう選択をしてしまった。自分でもどういうつもりで発言したのか判然としない。ますます焦り、当惑して、奥は視線を泳がせた。
「いや」
我妻は小さな低い声で呟いた。
「今のでよかった」
安堵したような、感激したような、深い声だった。
「ていうか、今のがよかった」
「あ、そう……」
再び沈黙が流れた。我妻の視線を避けるように、奥は顔を逸らした。
「……いいたかったことって、それ?」
「いや、ちがう」
「まだあんのかよ。いついうんだよ。完全試合達成したらとか?」
「いや、それはなんか、今の調子考えたらわりとすぐできそうな感じするから……」
「厭味かこの野郎。この前まで『打たれちゃうよお』って泣いてたくせに」
「泣いてない」
「うそうそ、泣いてただろ。恥ずかしがんなって」
「……おまえのほうが泣いてた」
言葉に詰まった。我妻の顔は真剣だった。息ぐるしさを払拭するように、奥はぎこちなく笑った。過剰なほど勢いをつけて立ち上がった。
「そうだ。時間あるんだったらさ、これからメシ行く? お互い頑張ろうぜってことでさ」
不自然なのはわかっていたが、止められなかった。ベンチに置いていたバッグを取り上げ、ストラップを肩にかける。
「考えてみたら、おれとおまえ、ふたりでメシとかなかっただろ。たまには……」
言葉が消えた。スポーツバッグが床に落ちて音を立てた。我妻が背後から奥の体に腕を回していた。きつく抱きしめ、胸と背を接着させる。
「え、ちょっ……」
息が止まりそうになって、奥は口を開閉させた。眼球が左右に揺れ、心臓が大きく跳ねる。
「なっ、な、なに、なにしてんの、おまえ」
声が上擦る。身を捩って逃げようとしたが、我妻の腕の力に勝てなかった。必死に暴れて抵抗すれば、振り払うことはできただろう。しかし、奥はそうしなかった。だれかに感づかれるのを恐れたのか、怪我をさせることを恐れたのか、それともなにかべつのものを恐れていたのか、自分でもわからなかった。
客がすべて退き、夕暮れが迫るグラウンドでは、担当者が整備をはじめていた。選手もスタッフもすでに引き上げ、ロッカールームは無人だった。
「よう」
廊下に出ると、私服に着替えてスポーツバッグを提げた我妻が、日焼けした顔を擦りながら近づいてきた。選手に支給されているチームの公式トレーナーを着ている。帽子にもチームのロゴがプリントされている。奥も持っていたが、私服としてつかったことはなかった。
「おう」
奥もユニフォームを脱ぎ、とうに帰り支度を整えていた。だれもいない廊下で向き合うふたりの間をぎこちない空気が漂った。
「ちょっといい?」
「あ、うん」
ロッカールームのドアを開け、体を脇に寄せて我妻を招き入れた。シャワーを浴びたのか、シャンプーとボディソープの香りが通り過ぎていった。
「ナイスピッチングだったな」
「皮肉かよ」
スポーツバッグをベンチに置いて、我妻は唇の端を歪めた。
「おまえに打たれたんじゃ、意味ない。完投もできなかったし」
「完全に打ち取られてた」
正直にいった。結果的にヒットがつきはしたものの、ライトのエラーがなければ、どう考えてもアウトだった。我妻の投球は完璧で、非の打ちどころがなかった。奥への最後の球は、162キロの自己新記録だった。
「ヒットになったら、いっしょだよ」
投げ遣りにいう我妻の表情は、悔しそうだった。
「抑えられたらいうつもりだったことって、あれ、なんだよ」
「いえねえよ、こうなったら」
「いいじゃん。いえよ。ラッキーなヒットだったんだから」
「でも、ヒットはヒットだ」
「おれがヒット打ったら聞くっていっただろ」
「ヒットじゃないんだろ」
「めんどくせえな。いいたいのかいいたくないのかどっちだよ」
奥は苦笑いした。こんなふうに我妻と素直に向き合えたのは、どのぐらいぶりだろう。勝負に勝ったからではない。試合には負けているのだ。勝ち負けを越えたなにかが、奥の心を穏やかにしていた。
「あのさ……」
「ん?」
「えっと……」
狭いロッカールームを所在なさげにうろつきながら、我妻が口籠もる。マウンド上で吼えていた姿が嘘のように自信なさげで優柔不断な態度に、奥は半ば呆れていた。ベンチに座って、籠のなかのモルモットのようにせわしなく右往左往する我妻を眺める。
「なんなんだよ。早くいえって」
「うん、あの……」
周囲が気になるのか、視線を彷徨わせる。もともと気が短い奥は苛立ちはじめた。
「だれもいないだろ。さっさといえって。いわないなら帰るぞ」
「わかった……」
促されて、ようやく口をひらく。顔を伏せ、10センチ以上身長が低い奥を覗き込むようにして、いった。
「おれ、アメリカ行くかも」
「アメリカ? なにしに?」
反射的に返してから、間の抜けた反応だったことに気づいた。
「……メジャー行くの?」
我妻の成績と評価を考えれば、不思議なことではない。しかし、いずれはと思っていても、勝手にもっと先の話だと信じ込んでいた。思いがけない話に、奥は自分でも驚くほど狼狽していた。
「ポスティングの話、ちょっと前から進んでて。だれにもいっちゃいけないことになってるから、おまえにもいえてなかったんだけど……」
「今いっちゃってんじゃん」
「だからおまえだけ……」
ポスティングの守秘義務がどれほど厳重なものか、メジャーなど夢を見ることさえ叶わない奥にも想像できた。奥と我妻は友人というわけではない。今では同僚ですらない。大きなリスクを背負ってまで打ち明ける理由を問い質したかったが、同時に、知るのが怖いと思った。
「そっか……」
躊躇していたのは、奥の劣等感を刺激することを危惧したのかもしれないが、もしそうでも、もはや腹は立たなかった。かつて同期のライバルだったふたりの差は埋めようがないほど広がっていて、メジャー球団から声がかかっているという事実にも、ショックを受けることはなかった。しかし、まったく心が乱れなかったかというと、そうではなかった。
「あんま会えなくなるんだな」
無意識に呟いていた。我妻が顔を上げる。
「え?」
「え?」
ほぼ同時に発声していた。見つめあう。ほぼ同時に、赤面した。
「いや、ちがう、今のはよくないな。ごめん、間違えた。えっと、おめでとう? いや、まだ決まったわけではないのか、あの、頑張れ、かな。頑張れよ、な」
慌てて弁解しようとしたが、舌が縺れてうまくいかなかった。なんといっていいのかわからずに戸惑ったが、いくつもあるはずのパターンに絶対に嵌まらないであろう選択をしてしまった。自分でもどういうつもりで発言したのか判然としない。ますます焦り、当惑して、奥は視線を泳がせた。
「いや」
我妻は小さな低い声で呟いた。
「今のでよかった」
安堵したような、感激したような、深い声だった。
「ていうか、今のがよかった」
「あ、そう……」
再び沈黙が流れた。我妻の視線を避けるように、奥は顔を逸らした。
「……いいたかったことって、それ?」
「いや、ちがう」
「まだあんのかよ。いついうんだよ。完全試合達成したらとか?」
「いや、それはなんか、今の調子考えたらわりとすぐできそうな感じするから……」
「厭味かこの野郎。この前まで『打たれちゃうよお』って泣いてたくせに」
「泣いてない」
「うそうそ、泣いてただろ。恥ずかしがんなって」
「……おまえのほうが泣いてた」
言葉に詰まった。我妻の顔は真剣だった。息ぐるしさを払拭するように、奥はぎこちなく笑った。過剰なほど勢いをつけて立ち上がった。
「そうだ。時間あるんだったらさ、これからメシ行く? お互い頑張ろうぜってことでさ」
不自然なのはわかっていたが、止められなかった。ベンチに置いていたバッグを取り上げ、ストラップを肩にかける。
「考えてみたら、おれとおまえ、ふたりでメシとかなかっただろ。たまには……」
言葉が消えた。スポーツバッグが床に落ちて音を立てた。我妻が背後から奥の体に腕を回していた。きつく抱きしめ、胸と背を接着させる。
「え、ちょっ……」
息が止まりそうになって、奥は口を開閉させた。眼球が左右に揺れ、心臓が大きく跳ねる。
「なっ、な、なに、なにしてんの、おまえ」
声が上擦る。身を捩って逃げようとしたが、我妻の腕の力に勝てなかった。必死に暴れて抵抗すれば、振り払うことはできただろう。しかし、奥はそうしなかった。だれかに感づかれるのを恐れたのか、怪我をさせることを恐れたのか、それともなにかべつのものを恐れていたのか、自分でもわからなかった。



