CHEEERR!!

 マウンドの上で膝にグラブをあて、我妻がキャッチャーのサインを確認する。初回以降、奥に視線を向けることはなかった。こうして対峙していても、同じだった。我妻は完全に投球に集中していて、その表情からは一片の雑念も感じられなかった。真剣勝負を挑もうとする我妻の気持ちが、奥には嬉しかった。負けられないと思った。
 我妻が大きく振りかぶり、1球目を投げた。真ん中、直球。呼吸を止め、強振した。バットが風を切り裂く音がした。奥は勢いあまって砂上に膝をついた。
 ボードに球速が表示され、喚声が上がる。161。球場がどよめいた。
 唇を噛みしめる。焦りで目が眩んだ。バットを握りなおし、構える。
 2球目。もう一度真ん中にボールがきた。舐めるなよ。腰を捻り、バットを振る。ミートする直前で、ボールが落ち、角度が変わった。縦回転のスライダー。突然の変化に対応しきれず、1球目と同じように空振りしてしまった。
「しっかりしろよ、奥!」
 ロークスの応援団から無遠慮な声が上がる。二軍にいた頃の屈辱感を思い出し、奥は顔を熱くした。
 くそっ。
 またお荷物に終わってしまうのか。子供の頃から生活のすべてを捧げてきた野球を、ここでも終わらせてしまうのか。
 嫌だ。よれたヘルメットをなおして、奥は背すじを伸ばした。まだ、すべてやりつくしていない。ここで終わるわけにはいかなかった。
 試合開始前の国分たちのチアダンスが瞼の裏に甦った。彼らにできたことが、自分にできないはずはない。
 ツーストライクと追い込まれての3球目。スライダーは斜め下に落ち、ストライクゾーンを大きくはずれた。様子見だろう。奥は俯き、土を蹴って、はやりそうになる気持ちをなんとか落ち着けた。
 負け試合とはいえ、監督は奥に期待してチャンスをくれたのだ。チームだけではない。客席のどこかで、国分や喜多嶋、真由子、田所も、信じて見ていてくれているにちがいなかった。チアダンスはホームのヴェルヴェッツを応援するためのものだったが、彼らの気持ちを理解できないほど鈍感ではないつもりだった。
 ツーストライク、ワンアウトの4球目。もう1球様子を見るか、それとも勝負を決めにくるか。奥は慎重にバットを構えた。
 我妻がサインに頷き、モーションをはじめる。速球の軌道が大きく逸れた。ほぼ本能的に、奥は体を捻った。重心が崩れ、しりもちをつく。眼前を掠めたボールがフェンスに激突し、乾いた音を立てた。避けていなければ、頭を直撃する危険球になりかねなかった。
 起き上がるのも忘れ、奥は鋭く我妻をにらんだ。点差を考えても、内角のギリギリを攻める必要があるとは思えない。我妻はかたちばかり頭を下げたが、目には弱みはなかった。とことん勝負する気だ。奥の全身を闘志が突き上げた。
「だいじょうぶか」
 奥もよく知るヴェルヴェッツの捕手が声をかけてくる。大きく頷き、立ち上がった。ユニフォームを汚す泥を払いもせずに、差し出されたバットを受け取る。
 深呼吸。以前までなら、この局面で頭に血が昇って、ボール球にも手を出してしまった。じゅうぶんに時間をかけ、ベースを見つめる。
 同じことが、確か前にもあった。9回表、カウントは2―2。高校最後の夏の甲子園だ。奥は我妻からタイムリーを打ち、全国制覇した。
 あのとき、我妻はまだ今ほど変化球のヴァリエーションを持たず、直球で勝負してきたのだった。真ん中高めに浮いたボールを、奥はレフトに引っ張った。
 死球になりかねない暴投のあとである。ふつうに考えれば、外角のボールになるか、甘い球がくるだろう。しかし、我妻は勝負してくる。
 フォークだ。奥は確信を持ってバットを構えた。フォークを投げてくる。
 長いキャッチャーとの視線の遣り取りのあと、我妻がようやく脚を上げる。右腕を持ち上げる。
 ちがう……
 漠然とした予感が、背中を駆け上ってきた。フォークじゃない……ストレートだ。直球を投げる!
 ボールが風を切り裂いて襲ってくる。奥は顎に痛みを感じるほど強く歯を食いしばって、バットを振った。
 ほんのわずかの振り遅れ。ストレートの威力は想像以上だった。芯を捕らえた感覚はあったが、力負けした。ボールは大きく浮き上がった。我妻が振り向く。場所によっては長打になるような当たりだったが、ライトがじゅうぶんに追いつくポジションを取っていた。ライトフライになる。内心悔しさに叫びながら、それでも奥は全力で1塁を蹴った。
 やはりだめだった。そう思った瞬間。客席がざわめき、目の前でショートの選手が慌てはじめた。ボールの行方を追う。信じがたい光景が目に飛び込んできた。完全に落下地点にはいっていたライトが落球したのだ。即座にボールを拾って送球したが、間に合うはずがなかった。奥は悠々と2塁ベースに到着した。
 息を弾ませ、手袋を脱ぐ。マウンド上では、まるで逆転サヨナラタイムリーを打たれたかのように我妻がうなだれていた。