球団広報に渡されたパスを提げて、関係者以外は入れない廊下を歩く。化粧を落とし、Tシャツとジーンズといったふだんの格好に戻った国分を、だれもが訝しげに見たが、声をかけてくる者はなかった。
廊下の端に田所の姿を見つけ、国分は安堵した。近寄ろうとした足が止まる。
田所はひとりではなかった。小学生ぐらいの女の子の手を握り、泣きじゃくる女の子を必死に宥めていた。
少し離れた位置で、小柄な女性が苦笑いで観察している。国分に気づいたのは彼女が先だった。目で促され、田所が振り返る。
「おお、ブーちゃん。お疲れ」
「お疲れっす」
そのまま通り過ぎるわけにもいかず、国分は3人に向かって歩いていった。
「国分くんだよ」
「あなたの隣で踊っていたひとね」
化粧をし、なおかつ遠目だったはずだが、女性はすぐに頷いた。
「田所の妻です。よろしく」
「どうも……」
帽子を脱がずに、国分は頷くように会釈した。こういった雰囲気は得意ではない。
「あゆみ。お兄ちゃんに、挨拶しなさい」
まだ泣いている女の子に向かって田所がいったが、あゆみという女の子は母親のスカートの裾に取りすがって、顔も覗かせなかった。
「あゆみちゃんっていうの。何歳?」
膝を折り曲げてしゃがみこむと、国分は帽子の唾を上げて微笑んだ。自信を持っている笑顔だったが、あゆみはさっと母親の影に隠れてしまう。
「泣かしちゃだめじゃないっすか、コロさん」
照れ隠しに田所に矛先を向ける。田所は参ったと頭を掻いた。
「パパみたいに踊るっていって、聞かなくて」
照れている田所の代わりに、妻が答えた。家族としては、当然反対しているものだと思っていたが、田所の妻はいたって嬉しそうだった。
「よく奥さんに怒られませんでしたね」
「奥?」
「いや、奥様です」
ああとまた頭を掻いて、田所は妻を見た。
「失敗したことは、ちょっといわれたけどね」
「足を引っ張っちゃって」
田所の妻が頭を下げようとするのを、国分は慌てて制した。
「おれらこそ、助かりましたよ。コロさんがいなかったら、ただのサムい集団で終わってましたから」
「そんなことない。感動しましたよ」
田所の妻は笑顔でいった。
「はじめは、わたしも反対したんです。このひとにとっても、大事な時期ですし。でも、どうしてもやりたいんだっていわれて、しかたなく。強情なのは、血筋ですね、きっと」
そういって我が子を見下ろす目は、穏やかであたたかかった。
「びっくりしませんでしたか」
「そりゃ驚きましたけど、その程度でうるさく口を出しては、野球選手の妻なんてつとまりませんから」
当然というような口ぶりだった。初対面の妻に、国分は心底尊敬の念を抱いた。それは同時に、完全な失恋を告げていたが、不思議と心は乱れなかった。
ジーンズのポケットに手を突っ込み、田所のサインが入ったボールを取り出す。
「キャッチボールしませんか」
田所は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「そうだな。やるか」
国分はボールを弄びながら、しゃくりあげているあゆみに向かってもう一度腰を屈めた。
「あゆみちゃん。お父さんと、キャッチボールしてもいいかな」
あゆみはぐちゃぐちゃの顔で国分を見上げ、鼻を啜った。
「あゆみのパパだよ」
「ちょっとだけ。お願い!」
「しょうがないなあ」
「いい?」
「うん」
あゆみがこくりと頷く。
「だって、男の子とキャッチボールするのは、野球人の夢でしょ」
小学生の女の子とは思えない大人びた口調に、国分はつい噴き出してしまった。田所と妻も、顔を見合わせて笑っている。それは家族の笑いだった。まるでそのなかに溶け込んでしまったようで、国分は何年も経験したことのない安寧を噛みしめていた。
廊下の端に田所の姿を見つけ、国分は安堵した。近寄ろうとした足が止まる。
田所はひとりではなかった。小学生ぐらいの女の子の手を握り、泣きじゃくる女の子を必死に宥めていた。
少し離れた位置で、小柄な女性が苦笑いで観察している。国分に気づいたのは彼女が先だった。目で促され、田所が振り返る。
「おお、ブーちゃん。お疲れ」
「お疲れっす」
そのまま通り過ぎるわけにもいかず、国分は3人に向かって歩いていった。
「国分くんだよ」
「あなたの隣で踊っていたひとね」
化粧をし、なおかつ遠目だったはずだが、女性はすぐに頷いた。
「田所の妻です。よろしく」
「どうも……」
帽子を脱がずに、国分は頷くように会釈した。こういった雰囲気は得意ではない。
「あゆみ。お兄ちゃんに、挨拶しなさい」
まだ泣いている女の子に向かって田所がいったが、あゆみという女の子は母親のスカートの裾に取りすがって、顔も覗かせなかった。
「あゆみちゃんっていうの。何歳?」
膝を折り曲げてしゃがみこむと、国分は帽子の唾を上げて微笑んだ。自信を持っている笑顔だったが、あゆみはさっと母親の影に隠れてしまう。
「泣かしちゃだめじゃないっすか、コロさん」
照れ隠しに田所に矛先を向ける。田所は参ったと頭を掻いた。
「パパみたいに踊るっていって、聞かなくて」
照れている田所の代わりに、妻が答えた。家族としては、当然反対しているものだと思っていたが、田所の妻はいたって嬉しそうだった。
「よく奥さんに怒られませんでしたね」
「奥?」
「いや、奥様です」
ああとまた頭を掻いて、田所は妻を見た。
「失敗したことは、ちょっといわれたけどね」
「足を引っ張っちゃって」
田所の妻が頭を下げようとするのを、国分は慌てて制した。
「おれらこそ、助かりましたよ。コロさんがいなかったら、ただのサムい集団で終わってましたから」
「そんなことない。感動しましたよ」
田所の妻は笑顔でいった。
「はじめは、わたしも反対したんです。このひとにとっても、大事な時期ですし。でも、どうしてもやりたいんだっていわれて、しかたなく。強情なのは、血筋ですね、きっと」
そういって我が子を見下ろす目は、穏やかであたたかかった。
「びっくりしませんでしたか」
「そりゃ驚きましたけど、その程度でうるさく口を出しては、野球選手の妻なんてつとまりませんから」
当然というような口ぶりだった。初対面の妻に、国分は心底尊敬の念を抱いた。それは同時に、完全な失恋を告げていたが、不思議と心は乱れなかった。
ジーンズのポケットに手を突っ込み、田所のサインが入ったボールを取り出す。
「キャッチボールしませんか」
田所は驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「そうだな。やるか」
国分はボールを弄びながら、しゃくりあげているあゆみに向かってもう一度腰を屈めた。
「あゆみちゃん。お父さんと、キャッチボールしてもいいかな」
あゆみはぐちゃぐちゃの顔で国分を見上げ、鼻を啜った。
「あゆみのパパだよ」
「ちょっとだけ。お願い!」
「しょうがないなあ」
「いい?」
「うん」
あゆみがこくりと頷く。
「だって、男の子とキャッチボールするのは、野球人の夢でしょ」
小学生の女の子とは思えない大人びた口調に、国分はつい噴き出してしまった。田所と妻も、顔を見合わせて笑っている。それは家族の笑いだった。まるでそのなかに溶け込んでしまったようで、国分は何年も経験したことのない安寧を噛みしめていた。



