足元の芝が崩れ落ちるような感覚をおぼえ、真由子は咄嗟にフェンスに指をかけた。
顔面蒼白で硬直しているうち、拍手が起こった。聞きちがえたかと思った。外野席は見渡す限り総立ちで、内野席の家族連れも顔を近づけあって、笑顔だった。
フィニッシュのミスにはだれもが気づいているだろうが、そんなことは関係ない。国分たちが本気で踊っている。その気持ちが、客席にも伝わったのだ。
田所と国分がグラウンド上で抱き合い、肩を組んで客席に挨拶するのを見つめながら、真由子はつい涙ぐんでしまった。
背後から声をかけられ、慌てて涙を呑み込む。視線を感じた先に顔を向けると、メディア関係者の輪のなかに杉内奈々がいた。真由子と目があうと、あからさまに視線をはずす。気にはならなかった。それに、声はあきらかに男性のものだった。もう一度、反対方向から呼ばれた。ユニフォーム姿の恰幅のいい中年が立っていた。真由子は記憶のページを素早く捲った。打ち合わせで一度会ったヴェルヴェッツの打撃コーチ。たしか、大滝といったはずだ。
「いや、びっくりしましたよ」
「お騒がせしまして」
「田所も絡むらしいとは聞いていたんですけどね。まさかあそこまでやるとはねえ」
やはり、元同僚の田所のことは気にかかったらしい。しかし、想像していたよりも、表情はやわらかかった。真由子は適当な返事を見つけられず、迎合の笑みを浮かべるにとどめた。
「久し振りに見ましたよ、あいつのあんなに楽しそうな顔は。若者に混じって、けっこう頑張ってるじゃないか」
帽子の隙間から白髪を覗かせながら、大滝は嬉しそうだった。ただのサークル活動でしかないダンス遊びに元選手を引き込んだことで、文句をつけられてもしかたがないところだったが、グラウンドを引き上げる女装の一団を、目を細めて眺めている。
参加を申し出たのは田所のほうからだった。ロークスへの入団の話は、あらかじめ聞いていたのだろう。奥の離脱の可能性を知ってすぐに、代わりを買って出た。真由子たちにとっても、難しい選択だった。田所が登場すれば、もちろんインパクトはあるだろうが、気難しいファンの怒りを買うことになるかもしれない。危険な賭けであることは、田所にもわかっていただろう。もともと無職の国分たちや、地方アナウンサーの真由子に較べ、今後野球解説者としての仕事も控えている田所には、まさに死活問題である。しかも、彼には妻子まであり、彼女たちのことを考えれば、迂闊な行動は取れないはずだった。それでも、田所はどうしてもやるといって聞かなかった。
野球を喪うことによってできた心の空洞を埋めてくれるなにかを、もしかしたら田所も求めていたのかもしれない。そう考えるのは、都合がよすぎるだろうか。
「ところで、狭山さん」
チアガールたちを伴って田所たちが建物内に引き上げていくと、大滝がようやく真由子に視線を戻した。
「田所から聞きましたが、野球にお詳しいそうで。若い女性には珍しいですね」
「とんでもない」
真由子は慌てて否定した。
「付け焼き刃の浅い知識だけです。もちろん、興味はありますけど」
「しかし、熱心に勉強されていると聞きましたよ」
「いちおう、コーチをやっているわけですし、せっかくの機会ですから」
恐縮して真由子が苦笑いすると、大滝は細くなった目尻に皺を刻んだ。
「いや、そういうひとは最近珍しいんでね」
「そうでしょうか」
「ええ、まあね。チアリーダーの扱いもちゃんとしてますしね」
話の核心をつかめず、真由子は焦れた。ふだんなら態度に出すことはないが、今は一刻も早く国分たちのもとにはしりたかった。
「すみません。わたしはそろそろ……」
「ああ、こりゃどうも。肝心の話を忘れてましたね」
さりげなく匙を向けると、大滝がようやく頷く。
「来季からはじまる球団公式ネット中継でナビゲーターを探しているんですが、どうですかね」
「わたしですか」
「本来なら、わたしに権限はないんですが、狭山さんさえよろしければ、推薦だけでもさせていただけないかと」
思いがけない話に、真由子は唖然とした。
「無理です」
「いや、ナビゲーターといっても、アナウンサーの仕事とそれほど変わらないですよ」
「そういう問題ではないんです」
真由子は背すじを伸ばし、微笑した。
「わたしはそんなつもりで野球のルールをおぼえたわけじゃありません。主役は彼らなのに、ただくっついてきただけのわたしが、ひとりだけいい思いをするわけにはいきません」
はっきりというと、大滝はあんがいあっさりと引き下がった。
「そうですか」
「申し訳ないです」
大滝の肩越しに、まだメイクを落としてもいない国分たちが、真由子を探して歩き回っているのが見える。
真由子の視線の先に気づいた大滝も微笑んでみせる。
「そう答えるはずだといわれてましたよ」
「田所さんにですか」
「いや、その横にいた男の子にね」
とりあえず保留にしておくからといって、大滝は言葉を失っている真由子に手を振り、ベンチに戻っていった。
「真由子さん!」
首からパスをぶら提げて、国分たちが犬のように駆け寄ってくる。全員が、興奮さめやらぬといった表情で顔を輝かせていた。
「どうだった?」
挨拶もなしにいきなり訊かれて、真由子は苦笑いした。
「国分くん、きみねえ」
「わかってるって、フィニッシュでしょ。あれはおれじゃない、こいつだよ」
「ひとのせいにするんじゃねえよ」
じゃれあう国分と喜多嶋、そばを通るカメラマンが不躾な視線を向ける。真由子は慌ててふたりを止めた。
「みんな、すごかったよ。感激しちゃった」
ひとりひとりの表情を見ながら、素直にいった。褒められることに慣れていない若者たちは、一様に顔を紅潮させた。
輪のなかに田所の姿が見られないのに気づき、真由子は眉を寄せた。
「田所さんは?」
「子供さんとこ」
真由子は複雑な気持ちだった。妻子がきているとは知らなかった。道化じみた元スターの姿を、彼女たちはどう見たのだろうか。
「次はおっくんの番だね」
喜多嶋がいって、真由子は体を捻った。グラウンドでは、アイドルによる始球式がおこなわれようとしていた。
顔面蒼白で硬直しているうち、拍手が起こった。聞きちがえたかと思った。外野席は見渡す限り総立ちで、内野席の家族連れも顔を近づけあって、笑顔だった。
フィニッシュのミスにはだれもが気づいているだろうが、そんなことは関係ない。国分たちが本気で踊っている。その気持ちが、客席にも伝わったのだ。
田所と国分がグラウンド上で抱き合い、肩を組んで客席に挨拶するのを見つめながら、真由子はつい涙ぐんでしまった。
背後から声をかけられ、慌てて涙を呑み込む。視線を感じた先に顔を向けると、メディア関係者の輪のなかに杉内奈々がいた。真由子と目があうと、あからさまに視線をはずす。気にはならなかった。それに、声はあきらかに男性のものだった。もう一度、反対方向から呼ばれた。ユニフォーム姿の恰幅のいい中年が立っていた。真由子は記憶のページを素早く捲った。打ち合わせで一度会ったヴェルヴェッツの打撃コーチ。たしか、大滝といったはずだ。
「いや、びっくりしましたよ」
「お騒がせしまして」
「田所も絡むらしいとは聞いていたんですけどね。まさかあそこまでやるとはねえ」
やはり、元同僚の田所のことは気にかかったらしい。しかし、想像していたよりも、表情はやわらかかった。真由子は適当な返事を見つけられず、迎合の笑みを浮かべるにとどめた。
「久し振りに見ましたよ、あいつのあんなに楽しそうな顔は。若者に混じって、けっこう頑張ってるじゃないか」
帽子の隙間から白髪を覗かせながら、大滝は嬉しそうだった。ただのサークル活動でしかないダンス遊びに元選手を引き込んだことで、文句をつけられてもしかたがないところだったが、グラウンドを引き上げる女装の一団を、目を細めて眺めている。
参加を申し出たのは田所のほうからだった。ロークスへの入団の話は、あらかじめ聞いていたのだろう。奥の離脱の可能性を知ってすぐに、代わりを買って出た。真由子たちにとっても、難しい選択だった。田所が登場すれば、もちろんインパクトはあるだろうが、気難しいファンの怒りを買うことになるかもしれない。危険な賭けであることは、田所にもわかっていただろう。もともと無職の国分たちや、地方アナウンサーの真由子に較べ、今後野球解説者としての仕事も控えている田所には、まさに死活問題である。しかも、彼には妻子まであり、彼女たちのことを考えれば、迂闊な行動は取れないはずだった。それでも、田所はどうしてもやるといって聞かなかった。
野球を喪うことによってできた心の空洞を埋めてくれるなにかを、もしかしたら田所も求めていたのかもしれない。そう考えるのは、都合がよすぎるだろうか。
「ところで、狭山さん」
チアガールたちを伴って田所たちが建物内に引き上げていくと、大滝がようやく真由子に視線を戻した。
「田所から聞きましたが、野球にお詳しいそうで。若い女性には珍しいですね」
「とんでもない」
真由子は慌てて否定した。
「付け焼き刃の浅い知識だけです。もちろん、興味はありますけど」
「しかし、熱心に勉強されていると聞きましたよ」
「いちおう、コーチをやっているわけですし、せっかくの機会ですから」
恐縮して真由子が苦笑いすると、大滝は細くなった目尻に皺を刻んだ。
「いや、そういうひとは最近珍しいんでね」
「そうでしょうか」
「ええ、まあね。チアリーダーの扱いもちゃんとしてますしね」
話の核心をつかめず、真由子は焦れた。ふだんなら態度に出すことはないが、今は一刻も早く国分たちのもとにはしりたかった。
「すみません。わたしはそろそろ……」
「ああ、こりゃどうも。肝心の話を忘れてましたね」
さりげなく匙を向けると、大滝がようやく頷く。
「来季からはじまる球団公式ネット中継でナビゲーターを探しているんですが、どうですかね」
「わたしですか」
「本来なら、わたしに権限はないんですが、狭山さんさえよろしければ、推薦だけでもさせていただけないかと」
思いがけない話に、真由子は唖然とした。
「無理です」
「いや、ナビゲーターといっても、アナウンサーの仕事とそれほど変わらないですよ」
「そういう問題ではないんです」
真由子は背すじを伸ばし、微笑した。
「わたしはそんなつもりで野球のルールをおぼえたわけじゃありません。主役は彼らなのに、ただくっついてきただけのわたしが、ひとりだけいい思いをするわけにはいきません」
はっきりというと、大滝はあんがいあっさりと引き下がった。
「そうですか」
「申し訳ないです」
大滝の肩越しに、まだメイクを落としてもいない国分たちが、真由子を探して歩き回っているのが見える。
真由子の視線の先に気づいた大滝も微笑んでみせる。
「そう答えるはずだといわれてましたよ」
「田所さんにですか」
「いや、その横にいた男の子にね」
とりあえず保留にしておくからといって、大滝は言葉を失っている真由子に手を振り、ベンチに戻っていった。
「真由子さん!」
首からパスをぶら提げて、国分たちが犬のように駆け寄ってくる。全員が、興奮さめやらぬといった表情で顔を輝かせていた。
「どうだった?」
挨拶もなしにいきなり訊かれて、真由子は苦笑いした。
「国分くん、きみねえ」
「わかってるって、フィニッシュでしょ。あれはおれじゃない、こいつだよ」
「ひとのせいにするんじゃねえよ」
じゃれあう国分と喜多嶋、そばを通るカメラマンが不躾な視線を向ける。真由子は慌ててふたりを止めた。
「みんな、すごかったよ。感激しちゃった」
ひとりひとりの表情を見ながら、素直にいった。褒められることに慣れていない若者たちは、一様に顔を紅潮させた。
輪のなかに田所の姿が見られないのに気づき、真由子は眉を寄せた。
「田所さんは?」
「子供さんとこ」
真由子は複雑な気持ちだった。妻子がきているとは知らなかった。道化じみた元スターの姿を、彼女たちはどう見たのだろうか。
「次はおっくんの番だね」
喜多嶋がいって、真由子は体を捻った。グラウンドでは、アイドルによる始球式がおこなわれようとしていた。



