駅を出たとたん、冷たい風に煽られた。トレンチコートをかき合わせるようにして、奥は足を早めた。また遅刻だ。目を吊り上げて怒る真由子の表情が目に浮かんだが、憂鬱な気持ちさえ湧かなかった。
けっきょく、我妻は1時間ちかくもバスルームにぐずぐずと居座り、夜まで帰らなかった。ひとりになってからもなかなか寝つけず、体が重い。
なんとか準備を整えて出てはきたものの、これまでのような高揚は生まれなかった。貴重な時間を割いてまで、こんなことをしている意味が、果たしてあるのだろうか。
我妻の腕の強い感触が、まだ腰の周辺に残っている。馬鹿げた踊りなど、はじめから求められていないことはわかっていた。半年の長い時間をかけて練習したチアリーディングは、薄い密着が与える気休めにすら劣る。自己憐憫が、急がせなければならないはずの足を重くした。
いつもどおりに練習場のドアを押す。ふだんならわずかな隙間から漏れ出てくる音楽が聞こえてこない。広い練習場の隅、真由子がひとりで本を読んでいた。奥に気づき、大ぶりのバッグのなかに本をしまいこむ。
「おはよう」
「おはよ……みんなは?」
「こないよ。わたしだけ」
スポーツバッグを肩から下ろしかけていた奥の手が止まる。
「どういうこと?」
「わかるでしょ」
夕陽を背にした真由子の表情は見えにくかったが、声はいたって冷静だった。
「みんなの意見だけど、最終的にはわたしが決めたよ」
「なんのこと……」
「あなたをクビにする」
奥の言葉を遮って、真由子ははっきりといった。
「あなたはいらないの……うちにもね」
奥はその場に立ち竦んだ。
「ごめんなさい」
真由子は謝ったが、苦しげな様子は、決断を変えるつもりがないということをかえって如実にあらわしていた。
奥はなんとか笑おうとした。予測できていないはずはなかったのだ。かろうじて、口を開いた。
「でも、おれがいないと、フォーメーションが」
「だいじょうぶ。もう代わりのメンバーを見つけてあるから」
随分と手回しがいい。ようやく、苦笑いを浮かべる余裕ができた。
「今から振りをおぼえるんじゃ、間に合わないよ」
「平気だよ。心配しないで」
真由子の言葉は、すでに奥が部外者であることを指し示していた。奥は顔に左手を持っていき、目頭を揉んでいるふりをした。
チアをはじめて、だれもが変わった。真由子の過剰なまでのストイックさは影を潜め、国分や喜多嶋といった無気力な若者たちも、それぞれに張りのある顔つきをするようになった。奥だけが、泥沼から抜け出せずにいる。ただひとり、すべてにおいて中途半端であるという自覚があった。チームのためを思うなら、身を引くべきだろう。しかし……
「踊りたかったよ、最後まで、おれは」
奥の小さな独白に、真由子が唇を噛む。
「奥くんには、野球があるでしょ」
真由子は軽い調子でいった。ふだん以上に明るくふるまってはいるが、真由子も恐いのだ。奥のサポートなしに不良たちを纏め上げるだけの自信はないだろう。本心は、奥にいなくなってほしくはないはずだが、奥のために、無理をしている。おそらく、国分たちも同じのはずだった。全員で説得しようとせず、真由子ひとりに任せたのは、多少なりとも年長ものであり、自尊心の高い奥に対する、彼らなりの気遣いだったのかもしれない。感謝すると同時に、奥は自分がとことん小さな男であることを実感して、たまらなくなった。
「おれになにかできることはある?」
奥の質問に、真由子は眉間の皺を解いた。
「いったでしょ。野球だよ」
「いうと思った」
「奥くんがロークスに入らないってんなら、わたしたちも、こんどの話は断るからね」
「それって、脅迫?」
「そう」
ふたりはにらみあい、同時に笑った。
けっきょく、我妻は1時間ちかくもバスルームにぐずぐずと居座り、夜まで帰らなかった。ひとりになってからもなかなか寝つけず、体が重い。
なんとか準備を整えて出てはきたものの、これまでのような高揚は生まれなかった。貴重な時間を割いてまで、こんなことをしている意味が、果たしてあるのだろうか。
我妻の腕の強い感触が、まだ腰の周辺に残っている。馬鹿げた踊りなど、はじめから求められていないことはわかっていた。半年の長い時間をかけて練習したチアリーディングは、薄い密着が与える気休めにすら劣る。自己憐憫が、急がせなければならないはずの足を重くした。
いつもどおりに練習場のドアを押す。ふだんならわずかな隙間から漏れ出てくる音楽が聞こえてこない。広い練習場の隅、真由子がひとりで本を読んでいた。奥に気づき、大ぶりのバッグのなかに本をしまいこむ。
「おはよう」
「おはよ……みんなは?」
「こないよ。わたしだけ」
スポーツバッグを肩から下ろしかけていた奥の手が止まる。
「どういうこと?」
「わかるでしょ」
夕陽を背にした真由子の表情は見えにくかったが、声はいたって冷静だった。
「みんなの意見だけど、最終的にはわたしが決めたよ」
「なんのこと……」
「あなたをクビにする」
奥の言葉を遮って、真由子ははっきりといった。
「あなたはいらないの……うちにもね」
奥はその場に立ち竦んだ。
「ごめんなさい」
真由子は謝ったが、苦しげな様子は、決断を変えるつもりがないということをかえって如実にあらわしていた。
奥はなんとか笑おうとした。予測できていないはずはなかったのだ。かろうじて、口を開いた。
「でも、おれがいないと、フォーメーションが」
「だいじょうぶ。もう代わりのメンバーを見つけてあるから」
随分と手回しがいい。ようやく、苦笑いを浮かべる余裕ができた。
「今から振りをおぼえるんじゃ、間に合わないよ」
「平気だよ。心配しないで」
真由子の言葉は、すでに奥が部外者であることを指し示していた。奥は顔に左手を持っていき、目頭を揉んでいるふりをした。
チアをはじめて、だれもが変わった。真由子の過剰なまでのストイックさは影を潜め、国分や喜多嶋といった無気力な若者たちも、それぞれに張りのある顔つきをするようになった。奥だけが、泥沼から抜け出せずにいる。ただひとり、すべてにおいて中途半端であるという自覚があった。チームのためを思うなら、身を引くべきだろう。しかし……
「踊りたかったよ、最後まで、おれは」
奥の小さな独白に、真由子が唇を噛む。
「奥くんには、野球があるでしょ」
真由子は軽い調子でいった。ふだん以上に明るくふるまってはいるが、真由子も恐いのだ。奥のサポートなしに不良たちを纏め上げるだけの自信はないだろう。本心は、奥にいなくなってほしくはないはずだが、奥のために、無理をしている。おそらく、国分たちも同じのはずだった。全員で説得しようとせず、真由子ひとりに任せたのは、多少なりとも年長ものであり、自尊心の高い奥に対する、彼らなりの気遣いだったのかもしれない。感謝すると同時に、奥は自分がとことん小さな男であることを実感して、たまらなくなった。
「おれになにかできることはある?」
奥の質問に、真由子は眉間の皺を解いた。
「いったでしょ。野球だよ」
「いうと思った」
「奥くんがロークスに入らないってんなら、わたしたちも、こんどの話は断るからね」
「それって、脅迫?」
「そう」
ふたりはにらみあい、同時に笑った。



