「じゃ……いいか」
「うん、頼む」
素っ気ない確認の後、我妻は剃刀を洗面器の湯にくぐらせた。奥の膝頭から足首にかけて、ボディソープの泡を丹念に塗りこむ。
脚を持ち上げられ、踵を我妻の膝に預けるような体勢を取らされる。
「濡れる」
「いいよ」
そういった我妻の口調は、落ち着いたものだった。覚悟を決めてしまうと、さすがに冷静である。奥も今ではすっかり我妻に任せるつもりになっていた。
体毛の処理など、もちろん生まれてはじめてだった。一度刃を滑らせるごとに、剃刀を湯にさらして、刃に絡んだ毛を排除しなければならなかった。それでも、我妻は面倒がる様子も見せず、職人のように慎重な手つきで、作業に集中している。毛流れに沿って剃刀をつかってから、あらためてボディソープをなすりつけたうえで、反対の向きに剃る。体毛を失い、剥き出しになった脚は日に焼け、練習でできた擦り傷が目立っていたが、若々しく、しなやかに光っていた。
「女の子みたいだな」
他人のもののような自分の脚を見下ろしながら、奥は笑った。我妻も肩を竦めるが、手は休めない。
「どの辺まで?」
「太腿ぐらい」
「ミニスカだ」
「そう。セクシーだろ」
冗談のつもりでいったが、我妻は笑わなかった。いたって真剣な表情で頷く。
「めちゃくちゃ見たいけど、他の奴にも見せんのは嫌だな」
「おまえなあ」
奥は呆れて苦笑いした。
「そういうこというから、誤解されるんだぞ」
「ガキになんていわれようが、べつにいい」
奥は我妻の手元を眺めながら、数日前のやりとりに思いを馳せた。国分が我妻をゲイ呼ばわりしたことは、冗談として口にした。あくまでも世間話のつもりで、告白ごっこの話をすると、我妻の顔色は変わった。
「ただの冗談だぞ」
「わかってるよ」
「ちゃんと、否定しといたし」
「おれのこと、信用してくれてんだ」
「ていうか、ホモってのは、デザイナーとかモデルとか、そういう職業の奴がなるもんだろ。野球選手にホモはいない」
断言すると、我妻は目を見開き、すぐに細めた。ため息とともに呟く。
「本気でいってんだからな」
「あたりまえだよ。おまえだってそう思うだろ」
「……まあ、どっちにしろ、これじゃなんもできないよな」
微妙に噛みあっていない会話。あらためて尋ねるのも面倒で、奥は話を変えた。
「ガキだと思うんなら、国分につっかかるなよ」
「向こうがつっかかってくるんだよ」
「相手にしなきゃいいだろ。おとなげないぞ」
「おまえはおれとあのガキのどっちの味方なんだよ」
「はあ?」
不貞腐れた表情の我妻を見下ろして、奥は苦笑いした。解説者が目を丸くするほどの速球を放る我妻は、反面、マウンドを降りると、驚くほど子供じみた顔を見せることがある。以前までは気にならなかった。彼自身気づかないうちに、奥もおとなになっているらしい。根無し草のようだったこの半年のせいだとしたら、なんとも皮肉だ。
「右手、どう?」
剃刀を操る指の動きにぎこちなさは見られなかったが、念のため、尋ねた。
「完治したのか?」
「ああ」
我妻の表情もかすかに和らぐ。
「悪かったな」
「もういい」
「でも、まだちゃんと謝ってなかった」
「いいって」
「わざとじゃなかった」
我妻に向けられたものというより、自分自身に確認をとるための言葉だった。我妻が顔を上げる。
「信じるか?」
数秒の間視線が絡んで、我妻が細かく頷く。
「信じるよ」
我妻にとっても、つらい半年になったはずだが、奥を怨むような様子は微塵も見せなかった。
素直に謝ることができるまでに、長い時間がかかってしまった。重い呪縛からようやく解き放たれ、奥は深く息をついた。
「変な声出すなよ」
「変な声なんか出してない」
沈黙。我妻は剃刀を持ったまま、奥の脚を見つめていた。
「なんだよ」
答える代わりに、奥の踵の下に掌を滑り込ませる。王に傅く従者のように恭しい仕草でていねいに持ち上げると、自分の膝の上に乗せた。
「やめろって、馬鹿。足の裏くすぐったい……」
無毛の脹脛に指を這わせ、膝頭を掌で包み込む。あきらかに不必要な動きだった。怪我を防ぐため鑢のかけられた爪の先が膝の裏を擦ると、奥は思わず目を瞑った。喉が詰まり、鼻から息が抜ける。
我妻も深く呼吸する。熱い息が膝の表面を掠め、奥は我に返って目を開けた。
「なにしてんだよ、この馬鹿!」
慌てて脚を下ろそうとしたが、我妻に膝を抱え込まれた。
「馬鹿馬鹿いうなよ」
我妻が剃刀をバスルームの床に叩きつけた。面食らっている奥の腰にしがみつく。
「おい……」
一瞬、殺されるのではないかと思った。そんな馬鹿げた妄想が通り過ぎるほど、突然で、強烈で、切実な動作だった。あまりに唐突で、抵抗すら頭に浮かばなかった。身動きできずにいる奥の下腹部に額を擦らせて、我妻はいった。
「開幕戦」
圧しころした声で呟く。
「マウンドに上がれると思う」
声は震えていた。少しも嬉しそうではなかった。おめでとうといいかけた口を閉じて、奥は我妻の湿った頭頂部を見下ろした。
「だけど、恐い。自信がない」
「またまたあ……」
軽い口調でいったが、我妻は笑わなかった。表情を強張らせ、奥の皮膚に指先を食い込ませた。痛みを感じるほどだ。
「我妻……」
奥も笑顔を消し、行き場のない手を空中で彷徨わせた。常にエースとして大きな期待を背負ってマウンドに立ってきた我妻だ。半年ものブランクは簡単に割り切れるものではないはずだった。緊張しているのは間違いないはずだが、それでもあきらかに様子がおかしかった。
「怖いんだよ、奥……」
渾身の力で奥の体にしがみつき、我妻は絞り出すような声を出した。
「打ち込まれて野次を受ける夢ばかり見る。グラブに手を入れただけで汗が出る。練習場に入ったとたん、気分が悪くなる。こんなのはじめてなんだ。こんなんじゃ、打たれるに決まってる。開幕投手なんて絶対無理だ。絶対ボコボコにされる」
振動する語尾には、奥の謝罪をはるかに凌ぐ、真剣さと正直さがあった。笑うことはおろか、慰めることもできずに、奥は圧し黙った。励ますべきか、突き放すべきなのか。迷いながらもおずおずと我妻の髪に触れると、我妻は思いがけない力で体をぶつけてきた。
我妻の額が擦れる下腹が痛み、バスルームの湿気を含んだジャージの感触も不快だったが、振り払うことはできなかった。常に注目され、結果を残し、自信に溢れて、挫折などとは無縁のようだった我妻が初めて見せる脆く弱い姿。目が離せなかった。
我妻の気持ちはくるしいほどに理解できた。奥もおなじように感じることがあった。それも頻繁に。まったく打てず、唇を噛んでベンチにもどる。同僚たちの冷ややかな視線。客からの心ない罵声。明日にも肩を叩かれるかもしれないという恐怖。順風満帆に見えた我妻も同じ恐怖を味わっているのかもしれないとは考えたことがなかった。
奥の腰を抱きながら、我妻は子供が眠るようにじっと動きを止めている。短く刈った我妻の髪に指を滑らせながら、奥の全身の力も抜けた。
我妻のいったことは、ほぼ事実だった。奥が純粋な気持ちでチアをやっているわけでないということは、真由子をはじめだれもが知っていることだ。
奥の名前を一言も出さず、恨みごとのひとついうこともなく、怪我の責任をひとり背負い込んだ我妻の偽善を、奥は蔑視していた。国分たちと踊りながら、自分を罰し、また我妻に重圧を与えていた。
我妻に剃刀を持たせたのも、子供じみた嫌がらせにすぎない。我妻にいらぬ重責を負わせることでなにかが変わるとは思えないが、少しでも気が楽になるのではないかといういかにも自分勝手な打算が働いた。
自分だけがつらいのだと思い込んでいた。理不尽な目に遭い、絶望の淵でくるしんでいるのは自分だけだと。我妻も奥と同じように不安に圧しつぶされそうになりながら必死で闘っていた。重圧や孤独は、むしろ奥以上かもしれない。
奥の捩れた胸の裡を知っているのかいないのか、我妻は完全に脱力して、奥の腰に全体重をかけている。他のだれかにも、こんなふうに弱い部分を曝け出し、身を預けるのだろうか。それとも……
奥にはわからなかった。これで我妻は本当に満足なのだろうか。形容しがたい無力感に包まれ、冷たい壁に頭をもたせかけた。
おれだって恐いのだと、実際、口にしたかどうかはわからない。
「うん、頼む」
素っ気ない確認の後、我妻は剃刀を洗面器の湯にくぐらせた。奥の膝頭から足首にかけて、ボディソープの泡を丹念に塗りこむ。
脚を持ち上げられ、踵を我妻の膝に預けるような体勢を取らされる。
「濡れる」
「いいよ」
そういった我妻の口調は、落ち着いたものだった。覚悟を決めてしまうと、さすがに冷静である。奥も今ではすっかり我妻に任せるつもりになっていた。
体毛の処理など、もちろん生まれてはじめてだった。一度刃を滑らせるごとに、剃刀を湯にさらして、刃に絡んだ毛を排除しなければならなかった。それでも、我妻は面倒がる様子も見せず、職人のように慎重な手つきで、作業に集中している。毛流れに沿って剃刀をつかってから、あらためてボディソープをなすりつけたうえで、反対の向きに剃る。体毛を失い、剥き出しになった脚は日に焼け、練習でできた擦り傷が目立っていたが、若々しく、しなやかに光っていた。
「女の子みたいだな」
他人のもののような自分の脚を見下ろしながら、奥は笑った。我妻も肩を竦めるが、手は休めない。
「どの辺まで?」
「太腿ぐらい」
「ミニスカだ」
「そう。セクシーだろ」
冗談のつもりでいったが、我妻は笑わなかった。いたって真剣な表情で頷く。
「めちゃくちゃ見たいけど、他の奴にも見せんのは嫌だな」
「おまえなあ」
奥は呆れて苦笑いした。
「そういうこというから、誤解されるんだぞ」
「ガキになんていわれようが、べつにいい」
奥は我妻の手元を眺めながら、数日前のやりとりに思いを馳せた。国分が我妻をゲイ呼ばわりしたことは、冗談として口にした。あくまでも世間話のつもりで、告白ごっこの話をすると、我妻の顔色は変わった。
「ただの冗談だぞ」
「わかってるよ」
「ちゃんと、否定しといたし」
「おれのこと、信用してくれてんだ」
「ていうか、ホモってのは、デザイナーとかモデルとか、そういう職業の奴がなるもんだろ。野球選手にホモはいない」
断言すると、我妻は目を見開き、すぐに細めた。ため息とともに呟く。
「本気でいってんだからな」
「あたりまえだよ。おまえだってそう思うだろ」
「……まあ、どっちにしろ、これじゃなんもできないよな」
微妙に噛みあっていない会話。あらためて尋ねるのも面倒で、奥は話を変えた。
「ガキだと思うんなら、国分につっかかるなよ」
「向こうがつっかかってくるんだよ」
「相手にしなきゃいいだろ。おとなげないぞ」
「おまえはおれとあのガキのどっちの味方なんだよ」
「はあ?」
不貞腐れた表情の我妻を見下ろして、奥は苦笑いした。解説者が目を丸くするほどの速球を放る我妻は、反面、マウンドを降りると、驚くほど子供じみた顔を見せることがある。以前までは気にならなかった。彼自身気づかないうちに、奥もおとなになっているらしい。根無し草のようだったこの半年のせいだとしたら、なんとも皮肉だ。
「右手、どう?」
剃刀を操る指の動きにぎこちなさは見られなかったが、念のため、尋ねた。
「完治したのか?」
「ああ」
我妻の表情もかすかに和らぐ。
「悪かったな」
「もういい」
「でも、まだちゃんと謝ってなかった」
「いいって」
「わざとじゃなかった」
我妻に向けられたものというより、自分自身に確認をとるための言葉だった。我妻が顔を上げる。
「信じるか?」
数秒の間視線が絡んで、我妻が細かく頷く。
「信じるよ」
我妻にとっても、つらい半年になったはずだが、奥を怨むような様子は微塵も見せなかった。
素直に謝ることができるまでに、長い時間がかかってしまった。重い呪縛からようやく解き放たれ、奥は深く息をついた。
「変な声出すなよ」
「変な声なんか出してない」
沈黙。我妻は剃刀を持ったまま、奥の脚を見つめていた。
「なんだよ」
答える代わりに、奥の踵の下に掌を滑り込ませる。王に傅く従者のように恭しい仕草でていねいに持ち上げると、自分の膝の上に乗せた。
「やめろって、馬鹿。足の裏くすぐったい……」
無毛の脹脛に指を這わせ、膝頭を掌で包み込む。あきらかに不必要な動きだった。怪我を防ぐため鑢のかけられた爪の先が膝の裏を擦ると、奥は思わず目を瞑った。喉が詰まり、鼻から息が抜ける。
我妻も深く呼吸する。熱い息が膝の表面を掠め、奥は我に返って目を開けた。
「なにしてんだよ、この馬鹿!」
慌てて脚を下ろそうとしたが、我妻に膝を抱え込まれた。
「馬鹿馬鹿いうなよ」
我妻が剃刀をバスルームの床に叩きつけた。面食らっている奥の腰にしがみつく。
「おい……」
一瞬、殺されるのではないかと思った。そんな馬鹿げた妄想が通り過ぎるほど、突然で、強烈で、切実な動作だった。あまりに唐突で、抵抗すら頭に浮かばなかった。身動きできずにいる奥の下腹部に額を擦らせて、我妻はいった。
「開幕戦」
圧しころした声で呟く。
「マウンドに上がれると思う」
声は震えていた。少しも嬉しそうではなかった。おめでとうといいかけた口を閉じて、奥は我妻の湿った頭頂部を見下ろした。
「だけど、恐い。自信がない」
「またまたあ……」
軽い口調でいったが、我妻は笑わなかった。表情を強張らせ、奥の皮膚に指先を食い込ませた。痛みを感じるほどだ。
「我妻……」
奥も笑顔を消し、行き場のない手を空中で彷徨わせた。常にエースとして大きな期待を背負ってマウンドに立ってきた我妻だ。半年ものブランクは簡単に割り切れるものではないはずだった。緊張しているのは間違いないはずだが、それでもあきらかに様子がおかしかった。
「怖いんだよ、奥……」
渾身の力で奥の体にしがみつき、我妻は絞り出すような声を出した。
「打ち込まれて野次を受ける夢ばかり見る。グラブに手を入れただけで汗が出る。練習場に入ったとたん、気分が悪くなる。こんなのはじめてなんだ。こんなんじゃ、打たれるに決まってる。開幕投手なんて絶対無理だ。絶対ボコボコにされる」
振動する語尾には、奥の謝罪をはるかに凌ぐ、真剣さと正直さがあった。笑うことはおろか、慰めることもできずに、奥は圧し黙った。励ますべきか、突き放すべきなのか。迷いながらもおずおずと我妻の髪に触れると、我妻は思いがけない力で体をぶつけてきた。
我妻の額が擦れる下腹が痛み、バスルームの湿気を含んだジャージの感触も不快だったが、振り払うことはできなかった。常に注目され、結果を残し、自信に溢れて、挫折などとは無縁のようだった我妻が初めて見せる脆く弱い姿。目が離せなかった。
我妻の気持ちはくるしいほどに理解できた。奥もおなじように感じることがあった。それも頻繁に。まったく打てず、唇を噛んでベンチにもどる。同僚たちの冷ややかな視線。客からの心ない罵声。明日にも肩を叩かれるかもしれないという恐怖。順風満帆に見えた我妻も同じ恐怖を味わっているのかもしれないとは考えたことがなかった。
奥の腰を抱きながら、我妻は子供が眠るようにじっと動きを止めている。短く刈った我妻の髪に指を滑らせながら、奥の全身の力も抜けた。
我妻のいったことは、ほぼ事実だった。奥が純粋な気持ちでチアをやっているわけでないということは、真由子をはじめだれもが知っていることだ。
奥の名前を一言も出さず、恨みごとのひとついうこともなく、怪我の責任をひとり背負い込んだ我妻の偽善を、奥は蔑視していた。国分たちと踊りながら、自分を罰し、また我妻に重圧を与えていた。
我妻に剃刀を持たせたのも、子供じみた嫌がらせにすぎない。我妻にいらぬ重責を負わせることでなにかが変わるとは思えないが、少しでも気が楽になるのではないかといういかにも自分勝手な打算が働いた。
自分だけがつらいのだと思い込んでいた。理不尽な目に遭い、絶望の淵でくるしんでいるのは自分だけだと。我妻も奥と同じように不安に圧しつぶされそうになりながら必死で闘っていた。重圧や孤独は、むしろ奥以上かもしれない。
奥の捩れた胸の裡を知っているのかいないのか、我妻は完全に脱力して、奥の腰に全体重をかけている。他のだれかにも、こんなふうに弱い部分を曝け出し、身を預けるのだろうか。それとも……
奥にはわからなかった。これで我妻は本当に満足なのだろうか。形容しがたい無力感に包まれ、冷たい壁に頭をもたせかけた。
おれだって恐いのだと、実際、口にしたかどうかはわからない。



