電話番号とLINEを交換したのは、プロに入ってすぐの頃だったが、奥のほうから電話をかけたのははじめてだった。
30分もしないうちに、インタホンが鳴った。我妻は緊張の面持ちで、部屋に上がった。ヴェルヴェッツから戦力外を受けてすぐに都心のタワーマンションの一室を引き払って郊外の1LDKに引っ越していた。
「部屋、汚くしてて悪いけど」
「いや……感激だ」
「はあ?」
言葉どおり、感極まっている様子の我妻を見て、奥は眉を顰めた。
「ま、いいや。とりあえず、こっちこい」
「えっ」
バスルームに導くと、我妻は異様なほどうろたえた。
「な、なにするの」
「断髪式」
「髪切るのか」
「だれが髪切るつった」
「だって、断髪式って」
「ああ、断髪つったら、髪か。じゃあ、断毛式」
「だんもうしき?」
いよいよわけがわからないといった顔つきの我妻を無理矢理バスルームに引っ張り込む。
「はい、これ」
コンビニエンスストアで買ってきたT字剃刀を押しつける。
「なに」
「剃るんだよ」
「剃るって」
困惑している我妻に背中を向けて、奥は手早くジーンズを脱いだ。
「お、奥っ!」
「おまえもさっさとこい」
Tシャツとトランクスだけの姿になって、奥は我妻を手招いた。洗面器に湯を張って、ボディソープを含ませたスポンジを泡立てる。
タイルの上に立ちすくんでその光景を眺めていた我妻が我に返る。
「だめだ、奥、おれは」
「なにがだめだ。そのためにおまえを呼んだんだぞ」
「でも……おれは、おまえとは、そういうのは嫌なんだ。ちゃんと順序を踏まえてから……」
「こんなんに順序もくそもあるか。いいから、こい」
「嫌だって!」
「手、切るぞ。いいのか」
我妻の動きが止まる。趣味がいいとはいえない冗談に気づいた奥も口を噤んだ。
「……なんなんだよ、いきなり」
「前日とかにするより、少しずつやったほうがいいって、真由子さんがいうから」
「そうじゃなくて」
苛立たしげにこめかみを揉んで、我妻がため息をつく。
「おまえ、ロークスに入るんじゃなかったのか」
「まだ契約はしてない」
「でも、するんだろ」
「いや……」
真由子たちに宣言したように、うまくはいかなかった。軽く唇を舐めてから、いった。
「契約はしない」
「奥」
「国分たちとはずっといっしょにやってきて、今更裏切れないし、おれも、いつまでもプロにしがみついて、何年も控え選手でいるより、いっそのことすぱっと引退して、第二の人生っつうか、そういうのを考えたほうがいいんじゃないかって」
しゃべりすぎている。自分でも気づいていたが、止めるわけにいかなかった。我妻に口を開かせるわけにいかなかった。せっかく固めた気持ちを乱されたくない。
「衣装決めて、せっかくだから、無駄毛処理までしちゃおうって話になったんだよ。喜多なんか、その場でガムテープでばりばりやりだしてさ。気合入ってるよな。みんながやってんのに、おれだけやらないわけにもいかないだろ。でも、いざとなると緊張しちゃって」
「それで呼んだの、おれのこと」
唐突に、我妻がいう。思わず詰まるほど、沈鬱な声だった。
「おまえがチアダンスなんかやってんのは、おれのせいだと思ってた。おれの怪我のことで、罪悪感っていうか、自分を追い込もうとしているんじゃないかって。それかおれへの嫌がらせか……」
それで毎日しつこくつきまとったのか。ストーカー扱いしていたのは悪かったかもしれない。しかし、罪悪感というのも心外だが、嫌がらせのほうは意味不明だ。なぜダンスをすることが我妻への嫌がらせになるというのか。論理破綻もいいところだ。
「自意識過剰だったな。おまえ、昔から、おれのことになんか、全然興味なかった」
「大袈裟なこというなよ」
「でも、本当だろ」
「そんなことねえよ」
我妻につられるように、奥の言葉も沈んだ。
「おまえのことは、いいライバルだって思ってたし、もう一回、おまえの球、打ちたかった」
そういっている間にも、忘れかけていた感覚が背すじをはしり抜ける。我妻と対峙した甲子園の夏の日差しが、瞼の裏に甦った。
「おれは、ライバルだとは思ってないよ」
「そりゃそうだよな」
自嘲気味な言葉で、無理矢理会話を切り上げる。奥は我妻に背を向け、洗面器のなかの冷めた湯を入れ替えた。
「どうしてもやるのか」
「しつこいぞ」
「おれが反対しても無理か」
質問ではなかった。諦めよりも深い、徒労の色があった。
「どうしておれにさせるんだ」
最後の抵抗のつもりか、我妻は苦痛の表情で手のなかの剃刀と奥を見比べる。暗い視線を、奥はやりすごした。
「べつに、嫌だったらいいよ。他の奴に頼むから。真由子さんか、それか国分……」
「それは駄目。それなら、おれがやる」
我妻が身を乗り出す。奥は怪訝な顔をつくり、湯を揺らせて洗面器を床に置いた。バスタブの縁に浅く腰を引っ掛けたが落ち着かず、縁を跨ぐようにして、壁に背中を圧しつける。体を安定させたところで、どうなるものでもなかったが。
我妻は不承不承ジャージの裾を捲った。試合に出られず、右手を酷使するわけにもいかないぶん、下半身のトレーニングを強化したのだろう。筋肉が膨張し、脹脛の幅がひとまわり大きくなっている。
つい目を奪われ、慌てて顔を上げる。我妻は奥以上に熱心に奥の脚を観察していた。むず痒さをおぼえるほどの、強い視線だった。
「ちょっと濃いだろ」
居心地の悪さに耐えかね、冗談めかしていう。我妻は一拍置いて、顔を上げた。
「九州男児だからな」
「ああ……」
ようやく奥の話が耳に入ったらしく、何度も頷いた。
「でも、毛が濃いのは、愛情が濃い証拠だっていうじゃん」
「聞いたことないけど」
実のない会話でも、多少は気分を軽くしてくれる。奥が微笑むのを見て、我妻は露骨に咳込んだ。
30分もしないうちに、インタホンが鳴った。我妻は緊張の面持ちで、部屋に上がった。ヴェルヴェッツから戦力外を受けてすぐに都心のタワーマンションの一室を引き払って郊外の1LDKに引っ越していた。
「部屋、汚くしてて悪いけど」
「いや……感激だ」
「はあ?」
言葉どおり、感極まっている様子の我妻を見て、奥は眉を顰めた。
「ま、いいや。とりあえず、こっちこい」
「えっ」
バスルームに導くと、我妻は異様なほどうろたえた。
「な、なにするの」
「断髪式」
「髪切るのか」
「だれが髪切るつった」
「だって、断髪式って」
「ああ、断髪つったら、髪か。じゃあ、断毛式」
「だんもうしき?」
いよいよわけがわからないといった顔つきの我妻を無理矢理バスルームに引っ張り込む。
「はい、これ」
コンビニエンスストアで買ってきたT字剃刀を押しつける。
「なに」
「剃るんだよ」
「剃るって」
困惑している我妻に背中を向けて、奥は手早くジーンズを脱いだ。
「お、奥っ!」
「おまえもさっさとこい」
Tシャツとトランクスだけの姿になって、奥は我妻を手招いた。洗面器に湯を張って、ボディソープを含ませたスポンジを泡立てる。
タイルの上に立ちすくんでその光景を眺めていた我妻が我に返る。
「だめだ、奥、おれは」
「なにがだめだ。そのためにおまえを呼んだんだぞ」
「でも……おれは、おまえとは、そういうのは嫌なんだ。ちゃんと順序を踏まえてから……」
「こんなんに順序もくそもあるか。いいから、こい」
「嫌だって!」
「手、切るぞ。いいのか」
我妻の動きが止まる。趣味がいいとはいえない冗談に気づいた奥も口を噤んだ。
「……なんなんだよ、いきなり」
「前日とかにするより、少しずつやったほうがいいって、真由子さんがいうから」
「そうじゃなくて」
苛立たしげにこめかみを揉んで、我妻がため息をつく。
「おまえ、ロークスに入るんじゃなかったのか」
「まだ契約はしてない」
「でも、するんだろ」
「いや……」
真由子たちに宣言したように、うまくはいかなかった。軽く唇を舐めてから、いった。
「契約はしない」
「奥」
「国分たちとはずっといっしょにやってきて、今更裏切れないし、おれも、いつまでもプロにしがみついて、何年も控え選手でいるより、いっそのことすぱっと引退して、第二の人生っつうか、そういうのを考えたほうがいいんじゃないかって」
しゃべりすぎている。自分でも気づいていたが、止めるわけにいかなかった。我妻に口を開かせるわけにいかなかった。せっかく固めた気持ちを乱されたくない。
「衣装決めて、せっかくだから、無駄毛処理までしちゃおうって話になったんだよ。喜多なんか、その場でガムテープでばりばりやりだしてさ。気合入ってるよな。みんながやってんのに、おれだけやらないわけにもいかないだろ。でも、いざとなると緊張しちゃって」
「それで呼んだの、おれのこと」
唐突に、我妻がいう。思わず詰まるほど、沈鬱な声だった。
「おまえがチアダンスなんかやってんのは、おれのせいだと思ってた。おれの怪我のことで、罪悪感っていうか、自分を追い込もうとしているんじゃないかって。それかおれへの嫌がらせか……」
それで毎日しつこくつきまとったのか。ストーカー扱いしていたのは悪かったかもしれない。しかし、罪悪感というのも心外だが、嫌がらせのほうは意味不明だ。なぜダンスをすることが我妻への嫌がらせになるというのか。論理破綻もいいところだ。
「自意識過剰だったな。おまえ、昔から、おれのことになんか、全然興味なかった」
「大袈裟なこというなよ」
「でも、本当だろ」
「そんなことねえよ」
我妻につられるように、奥の言葉も沈んだ。
「おまえのことは、いいライバルだって思ってたし、もう一回、おまえの球、打ちたかった」
そういっている間にも、忘れかけていた感覚が背すじをはしり抜ける。我妻と対峙した甲子園の夏の日差しが、瞼の裏に甦った。
「おれは、ライバルだとは思ってないよ」
「そりゃそうだよな」
自嘲気味な言葉で、無理矢理会話を切り上げる。奥は我妻に背を向け、洗面器のなかの冷めた湯を入れ替えた。
「どうしてもやるのか」
「しつこいぞ」
「おれが反対しても無理か」
質問ではなかった。諦めよりも深い、徒労の色があった。
「どうしておれにさせるんだ」
最後の抵抗のつもりか、我妻は苦痛の表情で手のなかの剃刀と奥を見比べる。暗い視線を、奥はやりすごした。
「べつに、嫌だったらいいよ。他の奴に頼むから。真由子さんか、それか国分……」
「それは駄目。それなら、おれがやる」
我妻が身を乗り出す。奥は怪訝な顔をつくり、湯を揺らせて洗面器を床に置いた。バスタブの縁に浅く腰を引っ掛けたが落ち着かず、縁を跨ぐようにして、壁に背中を圧しつける。体を安定させたところで、どうなるものでもなかったが。
我妻は不承不承ジャージの裾を捲った。試合に出られず、右手を酷使するわけにもいかないぶん、下半身のトレーニングを強化したのだろう。筋肉が膨張し、脹脛の幅がひとまわり大きくなっている。
つい目を奪われ、慌てて顔を上げる。我妻は奥以上に熱心に奥の脚を観察していた。むず痒さをおぼえるほどの、強い視線だった。
「ちょっと濃いだろ」
居心地の悪さに耐えかね、冗談めかしていう。我妻は一拍置いて、顔を上げた。
「九州男児だからな」
「ああ……」
ようやく奥の話が耳に入ったらしく、何度も頷いた。
「でも、毛が濃いのは、愛情が濃い証拠だっていうじゃん」
「聞いたことないけど」
実のない会話でも、多少は気分を軽くしてくれる。奥が微笑むのを見て、我妻は露骨に咳込んだ。



