CHEEERR!!

「ここのスタッフと仲よくてさ」
 清涼飲料水のペットボトルを弄びながら、田所は長閑にいった。
「やめてくださいよ、そういう嘘は」
 即座に切り返す。奥も俯き、田所と視線をあわせずにいた。
「我妻に頼まれたんでしょ」
 田所は参ったとでもいうように頭を掻いた。形容しがたい怒りがこみ上げてきて、奥は唇を噛んだ。
 いったいなんの権利があって、つきまとうのだろう。確かに、奥には我妻に怪我をさせた負い目があるが、だからといって、チームを去った今も、私生活にまでうるさく口を出されるのはたまらなかった。
「心配してるんだよ、おまえのこと」
「大きなお世話です」
 奥は吐き棄てるようにいった。田所に罪があるわけでないことはわかっていたが、まるで共犯者ででもあるかのように冷ややかな態度をとってしまう。
「コロさんも、またずいぶん暇なんですね。せっかく引退して自由の身になったんだから、なにか趣味でも見つけたらどうですか」
 田所は相変わらず長閑な微笑を浮かべたまま、曖昧に頷いている。その横顔をちらりと見て、奥はため息をついた。
「すんません。八つ当たりでした」
「いや、いいよ。暇なのは本当だしな」
 奥の口から出れば、卑屈にしか聞こえない言葉も、田所がいうと、不思議と穏やかに響く。ヴェテランとして若手選手のいい相談役を買って出ていた田所の現役時代を思い出すと、強烈な自己嫌悪に襲われた。
「ほんと申し訳ないです」
「いいから、気にすんなって」
 眼鏡を持ち上げながら、田所がいう。黒い縁を押し上げる指先には、いかにも固そうな肉刺がまだくっきりと残っていた。
「おれは、べつにさ、いいと思うんだよ。我妻から聞いたときは、まさかって思ったけどさ。ダンスなんてイメージないしな。でも、もともとおまえ、野球以外に趣味らしきもんがなかっただろう。他のやつみたく、賭けごとやら株やらに手出してるわけじゃあるまいし、女もいないし。周囲がどうのこうのいうようなことじゃないと思うんだな」
 独特のゆったりとした語りくち。思いがけず胸が熱くなり、そのことを気づかれないために顔を背けなければならないほどだった。
 国分たちの誘いに乗るかたちで、気晴らしにでもなればと軽い気持ちではじめたダンスだったが、だれよりもうしろめたさや羞恥心を感じていたのは、奥だった。我ながら単純だと思いながらも、田所の言葉に、奥は救われたような気持ちになった。
「でもな、我妻の気持ちもわかってやれ。あいつにとっては、もどかしいんだよ。同期でずっといっしょにやってきた仲間だし、ライバルだったんだからさ」
「それは、わかりますけど……」
 言葉を濁しながらも、奥は素直に頷いた。
「まあ、あいつもひとのこと気にしてる場合じゃないんだけどな。おまえだって、野球やめるつもりはないんだろ?」
「そりゃ、もちろん、おれだって、できればつづけたいですけど」
 チームを去った今も、野球は奥にとってすべてだった。国分たちと踊っているのは楽しかったが、やはり野球には換えられない。
「でも、今更どうにもならないんじゃないかって」
「なにいってんだ」
 田所はあきれ果てたように眉を上げて、奥の背を突いた。
「まだ若いじゃねえか。これからだろ」
 田所の掌は相変わらず手加減を知らず、奥は思わずつんのめったが、不快ではなかった。
「とにかく、我妻にはおれがうまいこといっとくからさ。ダンスもいいけど、野球のことも、ちゃんと考えろよ」
「わかってますよ」
 無意識に語尾が伸び、甘えるような口調になってしまった。立ち上がったときには、これまでにないほど体が軽くなっていた。
「じゃ、おれはこれから娘と映画見に行く約束あるから」
「もうそんなに大きくなったんですか」
「9歳。マセガキなんだわ」
 苦笑いを浮かべているが、田所は幸福そうだった。
「また見にきていいか」
「勘弁してくださいよ」
 奥は照れ笑いを浮かべたが、だめとはいわなかった。

 真由子は畳まれた卓球台にもたれて窓から外を眺めていた。奥が戻ってきたことにもすぐには気づかず、声をかけられて、慌てて姿勢を正した。
「みんなは?」
「帰った」
 短く答える。奥はふうんと息を漏らしただけで、それ以上はなにもいわなかった。
「ごめんなさい」
 再び外の景色に視線を移して、真由子はため息混じりにいった。
「わたしが悪かったわ。あんないいかたしたら、怒らせちゃうのはあたりまえだよね」
「気にしなくていいよ」
 思いがけず、奥は穏やかに頷いた。
「おれも、真由子さんにばっかり悪役を押しつけるみたいにしちゃってたし。やめた奴らも、たぶん、放っといても、長続きはしなかったと思う」
 首を振りながら、真由子は自分でも驚くほど安堵していた。てっきり、奥にも愛想をつかされたと思っていたのだった。
「奥くん」
 奥が顔を上げる。視線を動かさないまま、真由子は独白のようにいった。
「チアはね、ほんとはもっと楽しいし、やりがいもあるの」
 奥の視線をこめかみに感じながら、真由子は目を細めた。
「だから、やめないでね」
 奥は無言だった。もともと返事を求めていたわけではない。
「お願い」
 落ちかけていた太陽が、真由子の頬を焼いていった。