Momo Said

 下北沢の喫茶店で会って以来、純真から連絡はなかった。こちらからコンタクトを取るにも、適当な話題が見つからない。おれは両手でスマホを握りしめ、最後に送られてきたスタンプを凝視した。バイト中に何度もスマホに気を取られて、マネージャーから小言をいわれてしまった。仕事を終え、帰宅する途中、駅で電車を待ちながら、手持ち無沙汰にスマホを弄ぶ。平日とはいえ、終電を待つ客は多く、ほとんどの顔に疲労の色が滲んでいる。遠くで学生サークルらしき若者の団体が騒いでいる声も聞こえる。
 冷静になって思い返してみると、喫茶店での態度はまずかった。純真は友人として付き合いを再開したいと申し出ていたのに、あの場の空気は友人関係のそれとはあきらかにちがっていた。
 思い出話や以前のような趣味の話などして楽しく時間を過ごし、笑顔で別れることもできたはずなのに、過度な緊張で取り乱し、ろくに話もせず逃げるように帰ってしまった。純真はどう思っただろうか。驚いた表情が脳裏に焼きついて離れなかった。
 自己嫌悪と自己憐憫。あれからずっと、頭のなかが純真で埋め尽くされ、ほかのことが考えられない。
 あのときとおなじだ。おれは純真に依存し、彼に疎まれ、嫌われることに怯え、やさしい笑顔を向けられるたびに胸がくるしくてたまらなくなる。純真の気持ちが変化し、彼が去ったとしたら、その後自分がどうなってしまうのか。想像しただけで耐えられなくなる。そんな未来がくるのを恐れ、自ら離れたのに、またこうしてくるしむことになるとは。
 画面をスクロールさせようとして親指を圧しあてた。指先を滑らせようとして、誤って発信ボタンを圧してしまった。
「やば……」
 思わず声が出た。慌てて発信を取り消したが、履歴が残ってしまった。舌打ちを堪える。スマホを投げ出したい衝動に駆られたが、そんなことをしても意味がない。
 すぐに着信があり、スマホが震えはじめた。体を起こし、画面に映し出された名前を見つめる。硬直しているうちに、電話は切れた。
 おれはすこしの間スマホを手に悩んでいたが、やがてもう一度発信を圧した。
「モモ?」
 すぐに回線がつながり、純真のすこし低く掠れた声が聞こえてきた。
「電話した?」
「あー……いや、間違えた」
「なんだそれ」
 純真の声には屈託がなく、ふだんと変わらない口調にほっとする。すくなくとも怒ってはいないらしい。
「この前……」
「え、なに?」
 回線の向こう側は騒がしい。居酒屋かバーだろうか、賑やかな店にいるようで、周囲のひとの声や音楽が純真の声をかき消す。
「ちょっと待って」
 店の外に出たのか、トイレにでも入ったのか、喧噪が遠ざかり、音質がクリアになる。
「ごめん。なんだっけ」
「べつに……この前、すぐ帰っちゃったから怒ってないかなと思って」
「ああ、全然」
 純真の声はどことなく落ち着かない音で、友人を待たせているのかもしれなかった。おれは早口にいった。
「来週あたりまたどっか行かない? 服とか買いたくて」
 なにげない誘いだったが、口に出すのには勇気が必要だった。おれのほうから誘ったのははじめてだった。電話でよかったと思った。顔を合わせた状態では難しかっただろう。
「あー……そうだな」
 純真の反応は曖昧なものだった。
「仕事忙しい?」
「でもないけど……」
 歯切れが悪い。いつも明快な純真らしくなかった。すこし間を空けて、純真はいった。
「実は今付き合ってるひといて」
 床が揺れた。予期していない言葉に、頭が重くなった。
「こないだふたりで出かけたこと話したら喧嘩になっちゃったんだよ。だから今はまずいっていうか」
 純真の声が遠ざかる。物理的に離れたわけでも回線の不調でもなく、ショックを受けたことで、耳に入ってこないのだ。
 あれから1年だ。純真に相手がいても不自然ではない。むしろ純真の交友関係の広さや人当たりのよさを考えれば当然だ。それなのに、おれは勝手に純真がまだ独りだと思い込み、決めつけていた。あまりに都合がよく、身勝手な考えだった。
「……いつから?」
「え?」
「いつから付き合ってんの?」
「ああ……えっと、3か月くらい前かな」
 沈黙。純真の背後の喧噪がやけに大きく聞こえた。
「どんなひと?」
「どんな……もともと知り合いで、しんどいときにいろいろ相談乗ってくれて、それでまあ……」
 しんどいときというのがいつか、そしてその原因についてはあえて質問するまでもなかった。そもそも、おれに相手のことをあれこれ聞く資格はない。
「わかった。そういうことだったら、しょうがないね」
 それだけにとどめて、また沈黙の音を聞いた。
「ごめんな」
「気にしないで。彼氏を大事に」
 彼氏。自分の口から出た言葉に傷つけられた。
 傷……たしかに、おれは傷ついていた。純真の声だけでなく、自分の声すら頭の脇を通り過ぎて抜けていくようだ。
「あー……そうだ、それとさ」
 純真がいいづらそうに話した。
「おれの部屋に置いてった服あるじゃん。あれも返しといたほうがいいかなって」
 最後に部屋に行った日に置いたままになっていたニットシャツ。純真のものとはあきらかにサイズがちがう。見つけられたら、当然揉めるだろう。
「いいよ、棄てて」
「そういうわけにいかないよ。LINEで住所送って。郵送するから」
「……わかった」
 事務的なやりとりが終わると、ほかに話すことがなくなった。
「じゃあ……」
「うん……」
 頷いて通話を切ろうとしたとき、純真の息づかいが聞こえた。
「モモ」
 名前を呼ばれてどきっとした。スマホを握る手が熱くなっていた。
「なに」
 相手は答えない。かすかな喧噪と息づかいが聞こえるだけだ。
「純……」
「なんであのときいなくなったの?」
 さっきまでとはちがう口調だった。静かだが、つよく、重い。
 喉が詰まって、言葉が出てこない。おれがなにかいう前に、純真のほうが先に口をひらいた。
「ごめん。なんでもない。忘れて」
「あ……」
「おやすみ」
 通話が切れた。純真の息づかいが消え、無機質な機械音が断続的に流れている。黒く染まった画面を見つめながら、おれは掌を胸にあてて今のやりとりを反芻しようとした。鼓動が烈しすぎてうまくいかなかった。
 なんであのときいなくなったの?
 純真の言葉が何度も繰り返し頭を巡っていた。車輪が線路を擦る音。電車が近づいてくる。車両が駅構内に滑り込んで、一定の間隔を空けてできていた乗客の列がすこしずつ前進した。
 スマホを握りしめたまましばらく立ち竦んでいた。後ろに並んでいたスーツの男が怪訝そうな顔でおれを追い越し、先に車内に乗り込んでいく。その後ろにいた年嵩の紳士もおなじように割り込んでいった。
 ドアが閉まり、終電が去るのを見送った。ついさっきまで騒がしかったホームにはおれひとりが残され、周辺は静まりかえっていた。ジャケットのポケットにスマホを圧し込み、肩に提げていたリュックを背負いなおして、おれはホームの反対側に向かって歩きはじめた。どこに向かおうとしているのかもわからず。