Momo Said

「モモ」
 名前を呼ばれ、振り向くと、純真がスマホを構えていた。背面のレンズがこちらを向いている。慌てて腕を掲げ、顔を背けて避ける。
「やめろよ。写真苦手なんだって」
「動画だよ、これ」
「もっとやだ」
 スマホを奪い取ろうと手を伸ばしたが、やすやすと逃げられてしまう。純真は撮影した映像を確認しているようで、スマホの画面に指先を滑らせながらにやついている。
「純真」
「わかってる。インスタにはあげないから」
 1桁のフォロワーしかいないおれの地味なアカウントとちがい、純真のインスタグラムには飲み仲間や学生時代の友人らがフォロワーとして並び、写真や動画をアップするたびに「いいね!」やコメントがつく。
「モモはSNSやんないの」
 作成したもののまったくといいほど触っていないアカウントを教える気になれず、SNSはいっさいやっていないことにしていた。純真には内緒でインスタを覗いていることに背徳感をおぼえたが、おれとのことをネットに書かれたら困る。信用していないわけではないが、見ずにはいられなかった。
「おれの日常なんてだれも興味ないだろ」
「おれが興味ある」
 純真が手を伸ばし、おれの肩に腕を回す。頬同士を密着させ、スマホを構える。いつの間にか内側を撮影するモードに切り替わっており、画面上にふたりの顔が並んだ。
「だれにも見せないから」
 おれの文句より純真のいいわけのほうが早かった。根負けしてスマホの画面に視線を向ける。純真が顔の角度を変え、おれの頬に唇を圧しつけた。同時にシャッター音が鳴る。ごていねいに、連写モードになっている。
 抗議の意志を主張するために無言でにらみつけたが、純真は意にも介しなかった。涼しい顔でスマホをテーブルの上に置き、立ち上がる。
「コーヒー飲む?」
「うん」
 視線が泳ぐ。緊張しているのは、ここが純真の部屋だからだ。何度か誘われ、そのたびに理由をつけて逃げてきたが、終電を逃したせいで、この日はじめて訪れることになった。
 純真はひとり暮らしでアパートは中野にあった。1ルームの狭い部屋だが、意外にもものがすくなく、それなりに整頓されている。ファッション好きの純真らしく、必要最低限ながらセンスのいい家具ですっきりとまとめられていた。
「インスタントだけど」
 大きめのカップを受け取る。コーヒーの香ばしい香りが部屋に充満している。
「ありがとう」
 一口啜ったが、味はよくわからなかった。カーペットの上で抱えた膝を両腕で包み、掌でカップを包む。
 純真が隣に座った。さっきよりも距離が近い。つい体に力が入って、そのことを気取られまいとして飲みもしないコーヒーに口をつけて表情を隠した。
「あ、あのさ」
「ん?」
 純真の息が頬を掠める。なにかいおうとしたわけではなかった。なにかいわなくてはならないと感じただけだった。
「ごめん、なんでもない」
「なーんだよ、気になるじゃん」
 純真は自分のカップをテーブルに置き、片膝を立てて顔を近づけてきた。
「なに」
「べつに……」
 顔を背けて逃げようとしたが、純真の視線は揺れない。あきらめて、いった。
「……純真はおれのどこが好きなのかと思って」
 壁に目を向けながらいった。こめかみのあたりに純真の視線を感じて、顔が熱くなる。
「えー、かわいいから」
「真面目に聞いたんだけど」
「真面目に答えてんのにな」
 からかわれていると感じ、おれは眉を顰めた。
「もういい」
「あ、ごめん。怒った?」
「怒ってはない。ただ……」
 うまく言葉を紡ぐことができず、おれは不自然に単語を切りながら、話した。
「純真はおしゃれだし背高いしかっこいいのに、なんでおれなんだろうって」
「え、モモ、おれのことかっこいいって思ってくれてたの?」
 つい口をついて出てしまった言葉にようやく気づき、おれは慌てた。
「ほんとにもういい!」
「ごめんごめん。嘘だって」
 楽しげに笑うと、純真はテーブルに肘をつき、目を細めておれを眺めた。
「かなり前だから、モモはおぼえてるかわかんないけど」
 カーペットのわずかな綻びを指先で弄びながら、純真が独白のように話す。
「店が暇で、バイトみんなでしゃべってたとき、近藤さんが2股かけてるって話になってさ」
 近藤というのはすこし前までいっしょに働いていたバイト先の先輩だ。フリーターのバンドマンだったが、音楽活動が忙しくなるとかで辞めていった。悪人ではなかったが、女癖が悪く、客にもしょっちゅう手を出していた。会話は下世話な話題が多く、苦手な部類の人種だった。そのときも、彼女だか浮気空いてだかとの性生活の話をあけすけにしていたような気がする。
「いつもの下ネタでみんな笑ってたら、モモがいきなり怒り出して」
 おぼえていた。近藤の女性たちに対するものいいがあからさまに差別的で、腹が立った。どちらの女性とも面識があるわけではなかったが、おれにはすこし潔癖なところがあって、自制が効かなくなった。
「先輩とか関係なくブチ切れてさ、なんでそんな失礼なことすんだとか最低だとか、すげー勢いで」
「思い出したくないんだけど……」
 近藤本人はもちろん、全員が呆気に取られた表情で、その場の空気が凍りついた記憶。何度繰り返しても慣れることのない体が冷たくなる感覚。
「前にいったじゃん。おれ、そういう空気読めないとこあるから……」
「ちがうちがう。そんときにおれモモのことすげえいいなって思ったの」
 純真の表情は嘘をいっているようには見えなかった。
「おれんち、親が離婚しててさ。小学校の頃だったんだけど、親権争いだとか財産分与だとかでかなり揉めて、もう壮絶だったのよ。好きで結婚したくせに、そこまで憎しみあえるかってくらい」
 笑顔のまま、明るい声ではあったが、幼少時代のつらい思い出を甦らせているのはあきらかで、おれの胸は詰まった。
「ひとりっ子だし、どっちも好きだったから、子どもなりにしんどくてさ。それで、トラウマっていうとあれだけど、だめなんだよね、おれ。不倫とか浮気とか」
 意外だった。どちらかというと軽薄で身軽な印象を持っていた。おれもほかのひとたちとおなじように、純真に対して一方的で偏ったイメージを抱いていたのだ。おれの表情に気づいたのか、純真は苦笑いでいった。
「見えないっしょ。おれこう見えて一途なほうだし、浮気されんのもほんとは嫌なんだけど、軽そうだからか、甲斐性なしだからか、しょっちゅうされちゃうんだよね」
 純真は脚を伸ばしてコーヒーを啜った。軽い口調で、リラックスしているように見えたが、本心はわからない。
「真面目に見られたいならそういう格好すればいいだけの話なんだけど」
「べつにそんな必要ないだろ」
 考えるより先に頭に浮かんだことをそのまま口に出していた。
「他人に見られたいイメージのために見た目を変える必要なんかないじゃん」
 純真は無言だった。泣いているような笑っているような不思議な眼差しでおれを見ている。落ち着かない気分になった。またよけいな口を挟んでしまったのかもしれない。
「……なに」
「なんでもない」
 純真はにっこり笑って首を振った。なにもなかったかのように話を続けた。
「ゲイってのもあるかもしれないけど、だからって女の子は無理だしさ。だれか好きになっても傷つくばっかだし、もう恋とかそういうのはいいやって諦めてたから、モモがガンギレしてんの見て、わーって思った」
「わーってなに……」
 どんな顔をして聞いていればわからず、羞恥を隠そうとして、不機嫌な声が漏れてしまった。純真は気にすることなく続けた。
「いや、なんか、この子とは価値観が合いそうだなって」
 長い脚を再び折り曲げてあぐらを搔き、邪気のない眼差しでおれを見つめる。
「おれはさ、どっちかっていうと周りに合わせて適当なこといっちゃうタイプだから、意思がつよくて自分を持ってるところも尊敬できると思ったし」
 純真は誤解をしている。考えなしに思ったことをすぐに口ばしってしまうだけで、実際には意志薄弱だし、自分を持つどころか、自己嫌悪の塊だった。否定しようとしたが、できなかった。たとえ誤認であっても、純真に認められ、受け容れられることがうれしかった。その優越感は密のように甘く、おれの口を塞いだ。
「顔もかわいいし」
「だからそういうのはもういいって……」
「性格もいいしな」
「はあ?」
 さすがに耐えられず、間の抜けた声が出た。
「なにいってんだよ。馬鹿じゃねえの」
「なんでだよ。いいじゃん。やさしいし、嘘つかないし、真っ直ぐだし」
 純真が笑いながらいう。
「こないだだって、おれの休憩時間のことで店長に怒ってくれただろ」
「あれは……」
 純真のために怒ったわけではない。自分のためだった。しかし、そのことをうまく説明できず、おれは口を噤んだ。
「え、なに?」
「いや……」
 さっきよりもさらに顔が熱い。
「あれはちがうから」
「ちがうってなにが?」
「純真のためとかじゃなくて……」
「うん」
 誤魔化そうと思ったが、言葉が出てこない。おれは海面に首を出す水鳥のように口を開閉し、けっきょくはまた唇を噛んで俯いた。
「なんだよ、モモ……」
 純真の声が近づいてくる。さっきまでの声よりもすこしトーンが落ちて、上擦っているように聞こえた。
「なに、その顔」
 また顔が熱くなる。きっとかなり不細工になっているだろう。隠そうとして挙げた腕を、純真が両手でつかんだ。
「ちょっと、やめろって……」
「なーんで」
「そっちがなんでだよ」
「かわいいから」
「馬鹿、もういい加減……」
 両腕をつかまれ、不自由な体勢で突然キスされた。鼓動が早まり、呼吸がくるしくなる。握られた手首が熱い。
「純真……」
 掠れた声で訴えると、わずかに唇が離れた。蛍光灯を背にした純真の顔がぼんやり見えた。笑顔は消え、真剣な、切迫した表情になっていた。
「そういう顔するほうが悪いよ」
 どんな顔なのか、自分ではわからない。反駁しようと開きかけた口をまた塞がれた。咄嗟に臀をずらして後ずさろうとしたが、背中がベッドにあたってそれ以上動けない。純真の左腕がベッドの端をつかみ、もう片方の手はおれの腰に回されて、横に逃げることもできない。おれは背中をベッドの側面に圧しつけながら純真の体重を受け止めていた。
「モモ……」
 キスしながら名前を呼ばれると、骨の芯から痺れて筋肉が溶けるような感覚が全身をはしる。純真は顔の角度を変えながら貪ってきた。前にされたときよりも深く、長い。いつの間にかおれは後頭部をベッドに乗せ、覆い被さってくる純真の背中にしがみついていた。唾液が溢れ、重力に負けて顎を伝い落ちる。
 意識が朦朧としかけたとき、純真の右手がシャツの裾をたくし上げた。脇腹から背中へと滑り込んでくる。ひやりとした掌の感触に、体が跳ねた。膝が揺れ、動作のなかで、膝頭が純真の下腹に触れた。デニム生地を圧し上げる硬い熱。一瞬触れただけで、すぐに察知した。なにに触れたのかを理解したとたん、咄嗟に純真の体を圧し返していた。自分でも驚くほどの力だった。不意をつかれたのか、純真がバランスを崩す。おれは踵で床を搔きながら後ずさり、部屋の反対側の壁に背中を貼り付けた。両腕で膝を抱え、服の乱れをなおす。
「……ごめん」
 おれの過剰な反応に驚いたように目を瞬いて、純真はいった。
「そんなに驚くとは……」
 手を伸ばしかけたが、おれが体を強張らせたのに気づいて近づくのをやめた。狭い部屋の端同士で、おれたちはしばらくの間じっと動かずに黙っていた。互いの息づかいと窓の外の車や風の音だけが聞こえる。
「モモ」
 おれが落ち着くのを待って、純真が口を開いた。
「ごめんな、ほんと……」
 膝に額を圧しつけたまま、首を振る。わかっていた。悪いのは大袈裟に怯えたおれのほうだ。純真は悪くない。すこし体に触っただけだ。キスをして抱きしめて、その延長線上にあって当然の行為。想像しないほうがおかしい。
「なにもしないから、そっちいっていい?」
 顎を震わせて頷く。なにもいえないのが情けない。ただ混乱していた。理由もなく。
 純真が膝を擦らせて近づいてきた。窓ガラスにぴったりと圧しつけたおれの体に自分の体を寄せた。おれの頭を撫で、肩を擦る。やさしい手つきで、性的な欲望は感じなかった。
「純真は……」
 肩を上下させて呼吸をつなぎながら、おれは両膝の間で呟いた。
「純真はおれのこと……」
 言葉を知らないはずはないのに、口の外に出てこない。不要なときには不用意に出てくるというのに。
「純真はおれと……そういうことしたいの?」
 純真に触れた膝や触れられた脇腹がじんと熱くなって、その部分だけを火傷したかのようだった。
「おれのこと……その、だ、抱きたいとか思ってんの……」
 馬鹿げた質問だった。中学生でもそんなことは聞かないだろう。
 純真は笑わなかった。おれの頭に手を乗せ、髪に指を差し入れて、いった。
「……思ってる」
 おれに倣って窓を背にし、並んで膝を立てて座り、注意深くおれの背中に腕を回す。拒否しなかったが、力を脱くことはできなかった。
「できれば、今よりもっと先に進みたい」
 先に進む。間接的な言葉が選ばれたが、なにを求められているのかは理解できていた。
「モモはどう思う?」
 答えられなかった。両方の膝と踵をぴったり合わせ、胎児のように体を丸めて、なにもかも覆ってしまおうとしたが、たぶん気づかれているだろう。おれも純真とおなじように熱を孕んでいること。
「わかんないけど……」
 掠れた声で聞き返した。
「おれ、女の子みたいに抱かれるってこと?」
「女の子みたいにじゃないよ」
 肩をつかむ純真の手に力がこもる。
「そういうことじゃなくて、ただ……好きだから、もっと触りたいとか……自分だけのものにしたいって思う」
 経験がなくても、それくらいはわかっていた。しかし、頭では理解できていても、体が強張ってしまう。まだ、体の熱が引いてくれない。鼓動がおさまらない。これが純真の気持ちとおなじだとしたら、おれは感情の深い部分で純真に触れられたいと望んでいるのかもしれなかった。
「モモが嫌なのに無理にしたりはしないけど、でも……考えてみてくれたらうれしい」
 なにも答えられなかった。おれは膝を抱え、背中を擦る純真の掌の温度を感じていた。
 約束の1か月があと数日で終わろうとしていた。