コートを羽織り、部屋を出る。冷たい空気が纏わり付き、首を窄める。そろそろマフラーが必要な季節だ。
実家を出て、アパートを借りてから1年が過ぎようとしていた。アパートは池袋の近くで、駅からすぐの好立地だが、その代わり8畳程度のワンルームで収納スペースもすくない。実家から持ってきた衣類は最小限で、冬物がすくなく、この季節には少々こたえる。
大学に進学しても実感に居座り続けた長男を疎んでいたわけではなかっただろうが、なんの前触れもなくひとり暮らしをはじめるといい出したときにはかなり家族を驚かせた。両親は心配していたが、5歳離れた弟はそれまで兄がつかっていた広い個室を占有できることを喜んでいるようだった。
おれとは正反対で明るい性格の弟は学校でも中心的な存在のようで、同級生や部活の後輩などが自宅に遊びにくることも多かった。体格もよく、高校ではラグビー部に入った。女子にもモテているらしい。小学生の頃まではいっしょに遊ぶこともあったが、中学からは家での会話も激減していた。男ふたりの兄弟だ。どこもおなじようなものかもしれないが。
あらゆる存在に劣等感をおぼえたが、もっとも大きなコンプレックスの対象はもっとも身近にいる弟だった。唯一勝っているといえるのは学校の成績だけだったが、それも高校までだった。大学受験に失敗して以降、おれの人生は変わった。
今通っている大学は一般的に低いレベルで、本来目指していたのは名門の私立大学だった。決して裕福とはいえない家庭で、両親も塾や模試の費用を負担し、応援してくれていた。だからこそ、落胆も大きかった。
成績がふるわなかったのではない。受験当日、おれは突然パニックになった。体が震え、ベッドから出ることができなくなり、そのまま試験を受けることなく、数年の努力をふいにしてしまった。以降、ますます殻に閉じこもるようになり、家族との関係もぎこちないものになった。
長期休校に入り、大学構内を歩く生徒の数はまばらだった。特別な用事があるわけではなかったが、おれはわりと頻繁に脚をはこんでいた。図書館で本を読むためだ。ひとがすくないほうが静かでいい。
純真には話さなかったが、おれは昨年の単位を必要なだけ取得することができず、留年することになっていた。同年代の学生のなかには、すでに内定を得て残りの大学生活を謳歌している者もいれば、希望の職種や企業を見つけられずに焦っている者もいる。おれはそのどちらでもなかった。親を安心させてやりたい気持ちがないわけではないが、就職だの将来だのといったものは、なんだか他人の人生を俯瞰して眺めているようで、現実感がない。
図書館の入口で学生証を提示しようと財布を取り出したとき、小さな長方形がふわりと地面に落ちた。純真の名刺だ。
おれとちがい、純真は専門学校を卒業後すぐに就職したようだ。広告代理店の社員ではあるが、グラフィックデザイナーとして広告画像や動画を制作しているらしい。会社の公式ウェブサイトには新人スタッフのひとりとして顔写真も掲載されていた。ネームプレートを首から提げ、ダークブルーのジャケットにボーダーのシャツといった姿はいかにもクリエイティブ系といった姿で、多少の演出が加わっているとはいえ、充実した日々を送っていることを想像させた。
バッグからハードカバー本を抜き出して開く。ふだんならすぐに没頭できるはずなのに、なかなか内容が頭に入ってこない。休憩することにして、名刺を栞代わりに挟み込んで本を閉じた。
「百瀬?」
自動販売機にコーヒーを買いに行く途中で、男に声をかけられた。おそらく学生だろうが、知らない顔だった。怪訝な顔をしていたのだろう。相手は決まり悪そうに笑った。
「おぼえてないかな。フィールドワークでおなじグループだったじゃん」
「ああ……」
なんとなくおぼえているような気がするが、記憶は朧だった。ひとの顔をインプットできないのは昔からだ。
「それ、いいね」
「え?」
おれのあとに自動販売機に小銭を入れながら、名前のない男は顎でおれの手元を示した。
「指輪。かっこいい」
「ああ、これ……」
純真からもらったレザーの指輪。右手の中指に嵌めていた。とくに理由があってつけてきたわけではない。朝起こした気まぐれだ。
「百瀬、意外に服とかセンスいいよね」
「そうかな……」
ファッションには関心がない。今着ているものはほとんど昨シーズンに購入したものだ。センスがいいと見られているとしたら、純真に付き合って買いものをすることが多かったからだろう。
「なあ、彼女とかいないんだったらさ、今度飲み会こない?」
名なしの男は屈託のない顔でいう。態度は親しげではあったが、「意外に」という一言や、相手がいるかどうかの確認もなしに決めつけてくるところに、無自覚な上位目線を感じる。直接嘲笑や悪意を向けてくる連中よりも、ある意味ではたちが悪い。
「ごめん。そういうの苦手だから」
迎合する素振りも見せずにはっきり断ると、一瞬虚を突かれた顔をして、すぐにまた如才ない笑顔をつくる。
「そっか。だったらいいや。ごめんな、邪魔して」
早口にいって、踵を返す。あっさりしたものだ。このあとどこへ行くのか知らないが、友達や彼女に今のエピソードを面白おかしく話すのだろう。陰キャにわざわざ話しかけてやったのに失礼な態度を取られたと、自身の親切な行為も忘れずに添えて。
缶コーヒーを飲みながら読みかけの本を進め、図書館を出てバイト先に向かう。日々変わらないルーティーン。スペシャルな出来事など起きるはずもなく、静かに、平穏に過ぎていく。つまらない人生だと嗤う者もいるかもしれないが、安寧を求めることが罪であるはずもない。傷つき、苦しみながら必死に藻掻いて手にしたいと切望するものはなにもない。
バイト先でもほとんど言葉を発することなく、作業に集中する。勤務中は最低限のことしかしゃべらず、休憩時間もひとりで過ごす。飲み会や食事会にも顔を出さない。
宴会での離席を気にしていたらしく、杉下が声を掛けてきたが、曖昧に相槌を打っておくにとどめた。
ふだんなら絶対に参加しないのに、あの日だけ、たまたま予定もなく、滅多にない気まぐれを起こして、杉下の誘いに乗ってしまった。ふだんどおりに真っ直ぐ帰宅していれば、純真と偶然再会することもなかった。
杉下に責任はない。孤立しがちなおれを気に掛けてくれたのだということはわかっている。仲間の輪に加われば、それなりに場に馴染めると楽観していたのかもしれない。杉下の行為には大学の同級生のような優位意識はなく、純粋な気遣いによる行動だった。しかし、その心配りがおれにはつらかった。
杉下のような人間はほかにもいた。一様にお節介で、強引だった。しかし、純真のような男はいなかった。だれかと接するとき、無意識に純真と較べていることに気づいていた。
飲み会もパーティもいらない。友達も彼女も彼氏もおれの人生には必要ない。
データ入力作業を機械的にこなし、1日のノルマを達成すると、就業時間のすこし前にパソコンの電源を落とした。キーボードの上に指を置いたまま、おれは黒くなったディスプレイに映る自分の虚ろな眼をしばらくの間じっと眺めていた。
実家を出て、アパートを借りてから1年が過ぎようとしていた。アパートは池袋の近くで、駅からすぐの好立地だが、その代わり8畳程度のワンルームで収納スペースもすくない。実家から持ってきた衣類は最小限で、冬物がすくなく、この季節には少々こたえる。
大学に進学しても実感に居座り続けた長男を疎んでいたわけではなかっただろうが、なんの前触れもなくひとり暮らしをはじめるといい出したときにはかなり家族を驚かせた。両親は心配していたが、5歳離れた弟はそれまで兄がつかっていた広い個室を占有できることを喜んでいるようだった。
おれとは正反対で明るい性格の弟は学校でも中心的な存在のようで、同級生や部活の後輩などが自宅に遊びにくることも多かった。体格もよく、高校ではラグビー部に入った。女子にもモテているらしい。小学生の頃まではいっしょに遊ぶこともあったが、中学からは家での会話も激減していた。男ふたりの兄弟だ。どこもおなじようなものかもしれないが。
あらゆる存在に劣等感をおぼえたが、もっとも大きなコンプレックスの対象はもっとも身近にいる弟だった。唯一勝っているといえるのは学校の成績だけだったが、それも高校までだった。大学受験に失敗して以降、おれの人生は変わった。
今通っている大学は一般的に低いレベルで、本来目指していたのは名門の私立大学だった。決して裕福とはいえない家庭で、両親も塾や模試の費用を負担し、応援してくれていた。だからこそ、落胆も大きかった。
成績がふるわなかったのではない。受験当日、おれは突然パニックになった。体が震え、ベッドから出ることができなくなり、そのまま試験を受けることなく、数年の努力をふいにしてしまった。以降、ますます殻に閉じこもるようになり、家族との関係もぎこちないものになった。
長期休校に入り、大学構内を歩く生徒の数はまばらだった。特別な用事があるわけではなかったが、おれはわりと頻繁に脚をはこんでいた。図書館で本を読むためだ。ひとがすくないほうが静かでいい。
純真には話さなかったが、おれは昨年の単位を必要なだけ取得することができず、留年することになっていた。同年代の学生のなかには、すでに内定を得て残りの大学生活を謳歌している者もいれば、希望の職種や企業を見つけられずに焦っている者もいる。おれはそのどちらでもなかった。親を安心させてやりたい気持ちがないわけではないが、就職だの将来だのといったものは、なんだか他人の人生を俯瞰して眺めているようで、現実感がない。
図書館の入口で学生証を提示しようと財布を取り出したとき、小さな長方形がふわりと地面に落ちた。純真の名刺だ。
おれとちがい、純真は専門学校を卒業後すぐに就職したようだ。広告代理店の社員ではあるが、グラフィックデザイナーとして広告画像や動画を制作しているらしい。会社の公式ウェブサイトには新人スタッフのひとりとして顔写真も掲載されていた。ネームプレートを首から提げ、ダークブルーのジャケットにボーダーのシャツといった姿はいかにもクリエイティブ系といった姿で、多少の演出が加わっているとはいえ、充実した日々を送っていることを想像させた。
バッグからハードカバー本を抜き出して開く。ふだんならすぐに没頭できるはずなのに、なかなか内容が頭に入ってこない。休憩することにして、名刺を栞代わりに挟み込んで本を閉じた。
「百瀬?」
自動販売機にコーヒーを買いに行く途中で、男に声をかけられた。おそらく学生だろうが、知らない顔だった。怪訝な顔をしていたのだろう。相手は決まり悪そうに笑った。
「おぼえてないかな。フィールドワークでおなじグループだったじゃん」
「ああ……」
なんとなくおぼえているような気がするが、記憶は朧だった。ひとの顔をインプットできないのは昔からだ。
「それ、いいね」
「え?」
おれのあとに自動販売機に小銭を入れながら、名前のない男は顎でおれの手元を示した。
「指輪。かっこいい」
「ああ、これ……」
純真からもらったレザーの指輪。右手の中指に嵌めていた。とくに理由があってつけてきたわけではない。朝起こした気まぐれだ。
「百瀬、意外に服とかセンスいいよね」
「そうかな……」
ファッションには関心がない。今着ているものはほとんど昨シーズンに購入したものだ。センスがいいと見られているとしたら、純真に付き合って買いものをすることが多かったからだろう。
「なあ、彼女とかいないんだったらさ、今度飲み会こない?」
名なしの男は屈託のない顔でいう。態度は親しげではあったが、「意外に」という一言や、相手がいるかどうかの確認もなしに決めつけてくるところに、無自覚な上位目線を感じる。直接嘲笑や悪意を向けてくる連中よりも、ある意味ではたちが悪い。
「ごめん。そういうの苦手だから」
迎合する素振りも見せずにはっきり断ると、一瞬虚を突かれた顔をして、すぐにまた如才ない笑顔をつくる。
「そっか。だったらいいや。ごめんな、邪魔して」
早口にいって、踵を返す。あっさりしたものだ。このあとどこへ行くのか知らないが、友達や彼女に今のエピソードを面白おかしく話すのだろう。陰キャにわざわざ話しかけてやったのに失礼な態度を取られたと、自身の親切な行為も忘れずに添えて。
缶コーヒーを飲みながら読みかけの本を進め、図書館を出てバイト先に向かう。日々変わらないルーティーン。スペシャルな出来事など起きるはずもなく、静かに、平穏に過ぎていく。つまらない人生だと嗤う者もいるかもしれないが、安寧を求めることが罪であるはずもない。傷つき、苦しみながら必死に藻掻いて手にしたいと切望するものはなにもない。
バイト先でもほとんど言葉を発することなく、作業に集中する。勤務中は最低限のことしかしゃべらず、休憩時間もひとりで過ごす。飲み会や食事会にも顔を出さない。
宴会での離席を気にしていたらしく、杉下が声を掛けてきたが、曖昧に相槌を打っておくにとどめた。
ふだんなら絶対に参加しないのに、あの日だけ、たまたま予定もなく、滅多にない気まぐれを起こして、杉下の誘いに乗ってしまった。ふだんどおりに真っ直ぐ帰宅していれば、純真と偶然再会することもなかった。
杉下に責任はない。孤立しがちなおれを気に掛けてくれたのだということはわかっている。仲間の輪に加われば、それなりに場に馴染めると楽観していたのかもしれない。杉下の行為には大学の同級生のような優位意識はなく、純粋な気遣いによる行動だった。しかし、その心配りがおれにはつらかった。
杉下のような人間はほかにもいた。一様にお節介で、強引だった。しかし、純真のような男はいなかった。だれかと接するとき、無意識に純真と較べていることに気づいていた。
飲み会もパーティもいらない。友達も彼女も彼氏もおれの人生には必要ない。
データ入力作業を機械的にこなし、1日のノルマを達成すると、就業時間のすこし前にパソコンの電源を落とした。キーボードの上に指を置いたまま、おれは黒くなったディスプレイに映る自分の虚ろな眼をしばらくの間じっと眺めていた。



