「モモ!」
待ち合わせていた下北沢の喫茶店に着くと、純真のほうから見つけて合図してきた。
よくいっしょにきていた店だ。迷うはずがない。なのに遅れてきてしまった。約束の時間に遅れるのはストレスだ。なのに遅れた。厳密にいうと、時間どおりに到着したものの、店のドアを引けなかった。古いドアとはいえ、そう力が必要なものでもない。それでも、途轍もなく重く感じた。
「こないかと思った」
おれの姿を見てほっとしたのか、純真が笑顔を見せる。太めの眉を八の字に曲げて、困ったように微笑む独特の表情が懐かしい。いつもの席のいつもの風景を背後に背負っているからよけいにノスタルジックに感じるのかもしれない。
「べつに、くるでしょ。約束したし」
「モモ、あんま遅れないじゃん。だから……」
不自然に言葉を切る。離れていた時間を実感したのかもしれない。おなじ感覚をおれも持っていた。
純真の向かいに座る。いつもおれが入口側で、純真が壁側。壁を背にして座ると、あちこちに意識が散って純真に集中できないからそうした。どちらが先にいい出したことだったかは忘れてしまった。たった1年前のことなのに、はるか昔のようだった。過去の思い出としてしまい込んだはずなのに、匂いや質感まで瞬時に甦る。
「学校、どう」
噴き出しそうなほどくだらない質問。おれは笑わず、無感動に答えた。
「べつにふつうだよ」
答えてから、会話が止まることに気づく。隙間をつくらずに、つづける。
「そっちは? 専門、卒業した?」
「ぎりぎりね。今は広告代理店にいる」
「就職したんだ」
「まあ、いちおう」
差し出された名刺には耳にしたことのない社名が印刷されていた。肩書きはグラフィックデザイナーとなっている。
「大手ってわけではないけどね」
「でも、夢叶えたんじゃん」
両手で名刺の両端を摘み、しげしげと眺めながら、無意識に唇が綻んだ。
「すごいよ」
本心でいった。純真が照れて顎をさする。この間、新宿で偶然会ったときには生えていなかった無精髭が散っている。忙しい時期なのかもしれない。広告代理店の仕事がハードであることは、いまだ学生のおれにも想像がつく。
注文したコーヒーがきて、ひと口飲む。懐かしい味だ。おれと純真の数すくない共通点として、小洒落たカフェよりも昔ながらの喫茶店を好んだ。この店は純真が偶然見つけて、すぐにおれを連れてきた。もちろん、おれも気に入った。純真と別れてもっとも悲しかったのが、もうここにこられないことだった。
いや、別れたというのは少々語弊があるかもしれない。そもそもおれたちは正式に付き合っていたわけではなかったのだから。
「久しぶりにきた」
コーヒーを飲みながら、独白のようにいう。純真も頷く。主語や目的語がなくても、最小限の言葉だけで互いにいわんとすることを理解できる。
「おれも」
純真はカフェオレだ。大きな体で、アルコールにもつよいくせして、ブラックコーヒーが苦くて飲めないのだという。味覚も変わっていないらしい。
「モモは卒業したらどうすんの」
「企業説明会とか行ってるけど、ちゃんとは決めてない」
「そっか」
「大学院も考えてはいるけど」
「ふーん」
互いに本当に話したいことでないことは理解していた。すぐに沈黙が訪れる。店内にはジャズが流れている。会話を遮らない程度の音量のはずが、やけに大きく聞こえる。
小さく咳をしてから、純真がいう。
「そうだ。ちょっと、あの……聞きたいことあってさ」
きた、と思った。ここにくる前から覚悟はしていた。気取られないようにそっと息を詰めた。
ストローの先でグラスの底の氷を突きながら、純真はいった。
「池袋のシネコンにさ、行ったじゃん。おぼえてる?」
「うん」
とくに理由はなかったが、あの指輪がジャケットのポケットに入っている。純真の言葉で突然強烈に意識した。
「あのとき観た映画、あれ、なんていうやつだっけ」
「映画?」
「ほら、観たじゃん。ゾンビ映画」
グラスの底に残ったカフェオレのストローで啜りながら、純真がいう。
「おれあのときめっちゃ緊張しててさ。内容もタイトルも全然おぼえてないんだわ。あとから観たくなったんだけど、全然思い出せなくて」
純真はまた困ったように笑った。
「トニー・チュリ」
「え?」
「おれが好きな監督」
「ああ……そうだった」
純真がスマホを弄る。おれから得た情報をメモしているのかもしれない。伏せた顔からはなんの表情も読み取れない。以前は純真の顔を見ればなにを考えているのかすぐにわかった。向こうもそうだっただろう。
「それだけ?」
「ん?」
「聞きたいことってそれで終わり?」
「ああ……うん」
歯切れが悪い。いつもなにに対しても素早く明快だった純真はもういないようだ。
「じゃもう帰っていい?」
「え、もう?」
純真が驚いたように目を丸くする。
「なんか用事?」
「ちがうけど……」
べつに怒ったわけではない。落胆も安堵もない。ただ、無感情だった。立ち上がりかけたおれの手を純真がつかんだ。
「なに」
純真は答えない。なにもなかった胸のなかで、昏い感情が渦巻いた。渦が大きくなり、飲み込まれそうになる。
「おれ帰るわ」
立ち上がりかけたおれの手を純真がつかむ。強い力だった。店内にはじゅうぶんすぎるほど空調が効いているというのに、密着した掌が汗ばんでいる。
「……なんだよ」
声が掠れた。純真はおれの手をつかんだまま、なにもいわなかった。触れた箇所から熱が伝わって、全身が熱くなるようだった。
「純真……」
「なんでもない」
逡巡するようにせわしなく眼球を揺らして、純真はおれの手を離した。
それ以上、ふたりともなにもいわなかった。おれはコーヒー代として小銭をテーブルに置き、逃げるように去った。いや、実際に逃げた。あのときとおなじように。
店のドアを開け、深呼吸して外気を吸い込む。大股に店を離れる。ほとんど駆け出していた。すこしいったところで振り向いた。純真は追ってはこなかった。
息が上がっていた。まだ緊張して、体中が強張っているようだった。ポケットに手を突っ込むと、指輪のレザーの感触を指先に感じた。
なんなんだよ……
立っていられなかった。おれはその場にしゃがみこみ、膝を抱えて、膝頭に顔を埋めた。肩を上下させて呼吸する。
自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか、わからなかった。こんなふうにはもうならないと思っていたのに。こんな、まるで自分が自分でないみたいな。
待ち合わせていた下北沢の喫茶店に着くと、純真のほうから見つけて合図してきた。
よくいっしょにきていた店だ。迷うはずがない。なのに遅れてきてしまった。約束の時間に遅れるのはストレスだ。なのに遅れた。厳密にいうと、時間どおりに到着したものの、店のドアを引けなかった。古いドアとはいえ、そう力が必要なものでもない。それでも、途轍もなく重く感じた。
「こないかと思った」
おれの姿を見てほっとしたのか、純真が笑顔を見せる。太めの眉を八の字に曲げて、困ったように微笑む独特の表情が懐かしい。いつもの席のいつもの風景を背後に背負っているからよけいにノスタルジックに感じるのかもしれない。
「べつに、くるでしょ。約束したし」
「モモ、あんま遅れないじゃん。だから……」
不自然に言葉を切る。離れていた時間を実感したのかもしれない。おなじ感覚をおれも持っていた。
純真の向かいに座る。いつもおれが入口側で、純真が壁側。壁を背にして座ると、あちこちに意識が散って純真に集中できないからそうした。どちらが先にいい出したことだったかは忘れてしまった。たった1年前のことなのに、はるか昔のようだった。過去の思い出としてしまい込んだはずなのに、匂いや質感まで瞬時に甦る。
「学校、どう」
噴き出しそうなほどくだらない質問。おれは笑わず、無感動に答えた。
「べつにふつうだよ」
答えてから、会話が止まることに気づく。隙間をつくらずに、つづける。
「そっちは? 専門、卒業した?」
「ぎりぎりね。今は広告代理店にいる」
「就職したんだ」
「まあ、いちおう」
差し出された名刺には耳にしたことのない社名が印刷されていた。肩書きはグラフィックデザイナーとなっている。
「大手ってわけではないけどね」
「でも、夢叶えたんじゃん」
両手で名刺の両端を摘み、しげしげと眺めながら、無意識に唇が綻んだ。
「すごいよ」
本心でいった。純真が照れて顎をさする。この間、新宿で偶然会ったときには生えていなかった無精髭が散っている。忙しい時期なのかもしれない。広告代理店の仕事がハードであることは、いまだ学生のおれにも想像がつく。
注文したコーヒーがきて、ひと口飲む。懐かしい味だ。おれと純真の数すくない共通点として、小洒落たカフェよりも昔ながらの喫茶店を好んだ。この店は純真が偶然見つけて、すぐにおれを連れてきた。もちろん、おれも気に入った。純真と別れてもっとも悲しかったのが、もうここにこられないことだった。
いや、別れたというのは少々語弊があるかもしれない。そもそもおれたちは正式に付き合っていたわけではなかったのだから。
「久しぶりにきた」
コーヒーを飲みながら、独白のようにいう。純真も頷く。主語や目的語がなくても、最小限の言葉だけで互いにいわんとすることを理解できる。
「おれも」
純真はカフェオレだ。大きな体で、アルコールにもつよいくせして、ブラックコーヒーが苦くて飲めないのだという。味覚も変わっていないらしい。
「モモは卒業したらどうすんの」
「企業説明会とか行ってるけど、ちゃんとは決めてない」
「そっか」
「大学院も考えてはいるけど」
「ふーん」
互いに本当に話したいことでないことは理解していた。すぐに沈黙が訪れる。店内にはジャズが流れている。会話を遮らない程度の音量のはずが、やけに大きく聞こえる。
小さく咳をしてから、純真がいう。
「そうだ。ちょっと、あの……聞きたいことあってさ」
きた、と思った。ここにくる前から覚悟はしていた。気取られないようにそっと息を詰めた。
ストローの先でグラスの底の氷を突きながら、純真はいった。
「池袋のシネコンにさ、行ったじゃん。おぼえてる?」
「うん」
とくに理由はなかったが、あの指輪がジャケットのポケットに入っている。純真の言葉で突然強烈に意識した。
「あのとき観た映画、あれ、なんていうやつだっけ」
「映画?」
「ほら、観たじゃん。ゾンビ映画」
グラスの底に残ったカフェオレのストローで啜りながら、純真がいう。
「おれあのときめっちゃ緊張しててさ。内容もタイトルも全然おぼえてないんだわ。あとから観たくなったんだけど、全然思い出せなくて」
純真はまた困ったように笑った。
「トニー・チュリ」
「え?」
「おれが好きな監督」
「ああ……そうだった」
純真がスマホを弄る。おれから得た情報をメモしているのかもしれない。伏せた顔からはなんの表情も読み取れない。以前は純真の顔を見ればなにを考えているのかすぐにわかった。向こうもそうだっただろう。
「それだけ?」
「ん?」
「聞きたいことってそれで終わり?」
「ああ……うん」
歯切れが悪い。いつもなにに対しても素早く明快だった純真はもういないようだ。
「じゃもう帰っていい?」
「え、もう?」
純真が驚いたように目を丸くする。
「なんか用事?」
「ちがうけど……」
べつに怒ったわけではない。落胆も安堵もない。ただ、無感情だった。立ち上がりかけたおれの手を純真がつかんだ。
「なに」
純真は答えない。なにもなかった胸のなかで、昏い感情が渦巻いた。渦が大きくなり、飲み込まれそうになる。
「おれ帰るわ」
立ち上がりかけたおれの手を純真がつかむ。強い力だった。店内にはじゅうぶんすぎるほど空調が効いているというのに、密着した掌が汗ばんでいる。
「……なんだよ」
声が掠れた。純真はおれの手をつかんだまま、なにもいわなかった。触れた箇所から熱が伝わって、全身が熱くなるようだった。
「純真……」
「なんでもない」
逡巡するようにせわしなく眼球を揺らして、純真はおれの手を離した。
それ以上、ふたりともなにもいわなかった。おれはコーヒー代として小銭をテーブルに置き、逃げるように去った。いや、実際に逃げた。あのときとおなじように。
店のドアを開け、深呼吸して外気を吸い込む。大股に店を離れる。ほとんど駆け出していた。すこしいったところで振り向いた。純真は追ってはこなかった。
息が上がっていた。まだ緊張して、体中が強張っているようだった。ポケットに手を突っ込むと、指輪のレザーの感触を指先に感じた。
なんなんだよ……
立っていられなかった。おれはその場にしゃがみこみ、膝を抱えて、膝頭に顔を埋めた。肩を上下させて呼吸する。
自分がどうしたいのか、どうしてほしいのか、わからなかった。こんなふうにはもうならないと思っていたのに。こんな、まるで自分が自分でないみたいな。



