あのとき、場の空気に流されず、もっと慎重に態度を選んでおけば。
帰宅してベッドに体を投げ出すと、おれは声にならないうめき声を枕の上に落とした。身体的にはそうでもないが、精神的な疲労が全身を覆っていた。
まさか純真に会うとは予想もしていなかった。他人のふりをしてその場から逃げ出せばよかったのだろうが、「モモ」と呼ばれ、体が固まって動けなくなってしまった。あれから1年が過ぎて、気が緩んでいたのかもしれない。1年たって、ようやくすこしは忘れられたと思っていたところだったのに。
重い体をどうにか起こし、ベッドの脇に設置したラックを開ける。文房具や充電器を収納したラックの奥に箱を入れてある。この1年はほとんど開けたことのない箱だ。なかに入っていた袋を取り出す。
黒い石が埋め込まれたレザーの指輪。棄てきれず、ずっとしまいこんでいた。
これを受け取ったのが間違いだった。はっきり断って、突き返せばよかった。あんな顔されたからといって……
指輪を握りこみ、再びベッドに俯せる。
池袋の夜。おれが指輪のプレゼントを喜ばなかったことで傷ついた表情、おれが申し入れを受け容れたことで歓喜に輝いた表情。昨日会ったひとの顔も忘れるのに、純真の顔だけは細かい表情のひとつひとつまで鮮明に思い出すことができる。それだけ強烈な印象を残しているのだろう。
純真はすこしも変わっていなかった。たった1年でそこまで外見が変化することもないだろうが、まるでなにもなかったかのように明るい笑顔を見せたことが、おれには解せなかった。あんなことがあったのに、まるでずっと関係が継続しているような錯覚を起こすほどだ。そんなはずはないのに。
スマホが鳴って、LINEの受信を伝えた。純真からだった。『今家帰ってきたよ~』という暢気なテキストメッセージとともに、桃を模ったイラストのスタンプが送られてきた。ピンク色のポップな絵柄を見た瞬間、おれの胸はきつく締めつけられた。
「なにこれ」
目の前にいる相手から送られてきたLINEに戸惑いながら開いてみると、通常のメッセージではなくスタンプのギフトが表示された。特定の相手にオリジナルスタンプをプレゼントできる仕組みで、そういったものを受け取ったのははじめてだった。
「モモ専用スタンプ」
そういって笑う純真の表情は誇らしげでありながら悪戯っぽく、子どものようだった。バイト先のバックヤードで、ふたりとも制服を着ている。といっても前掛けのようなもので、基本的には私服のシャツとパンツといった軽装だ。
「純真がつくったの」
大きな桃を被った大きな瞳の少年。嬉しそうに笑う表情や悲しげに泣く表情など、いくつものパターンが並んでいる。制作者の欄には『Junshin』と表示されている。純真がデザイン系の専門学校に通っていることを思い出した。
「そうだよ」
色彩豊かなイラストはプロが制作した公式スタンプといっても信じてしまいそうなほど精巧だった。
「さすがにキモいかな。引いた?」
「いや……絵が上手すぎて引くの忘れてた」
「なんだそれ」
いたって真剣な感想のつもりだったが、純真は笑った。照れ笑いだった。
「モモって、ふだんわりとツンツンだけど、褒めてくれるときは全力で正直だから、他の奴に褒められるときと嬉しさのレベルが全然ちがうんだよな」
そういうふうにいわれるとかえってこちらが照れてしまう。純真に教えてもらいながら、手製のスタンプを端末に保存した。
「試しに1回おれに送ってみて」
「うん」
画面を開き、『お疲れ~』のテキストが躍るスタンプを選択し、送信した。
「そこは『大好き』を選んでほしかったけど、まあいいや」
スマホを見ながらしゃべっていると、ホールから店長が顔を出した。
「おーい、おまえらそろそろもどれよ。団体入ってきたから」
「はーい」
純真がスマホをポケットにしまって椅子から立ち上がる。
「あの、店長」
考えるより先に口が動いていた。
「おれはいいんですけど、純真、今日1回も休憩取ってないんで」
「は?」
二日酔いらしく遅刻してきた店長は機嫌が悪かった。眉を顰めていった。
「いや、それは知らんよ。それぞれ自主的に隙間見つけて休んでもらわんと」
「でも、店長が時間どおりにこなかったせいでもあるんです。店長以外にレジ開けられるの純真だけなんで」
「ちょちょ、モモ、いいから」
純真が慌てて制止しようとするが、こうなると止まらない。おれは声を荒らげるでもなく、淡々とつづけた。
「そもそも、休憩時間は1日につきひとり何分ときちんと定めたほうがいいんじゃないでしょうか」
「いや、それはその日の状況にもよるだろ」
「タイミングは各々の判断でよいとしても、時間は決めておいたほうがいいと思います。労働基準法にもそうありますし」
「モモ!」
純真がおれの腕を引いたが、遅かった。店長が顔を紅潮させ、大股にこちらに迫ってくる。
「百瀬、おまえ、なにがいいてえの。おれがスタッフをこきつかってるって意味か、それは?」
「いやいや、店長、ちょっと待ってくださいよ」
純真がおれと店長の間に体を挟み込むようにして行く手を阻む。さすがに営業時間中に怒鳴り声を上げるようなことはなかったが、店長は怒りを隠そうともせず、深酒のせいで充血した目をおれに向け、舌打ちした。
「めんどくせえこといってねえでさっさと仕事もどれ、百瀬」
「わかりました」
それ以上議論しても無駄なことはわかっていた。実際、おれはすでに休憩をじゅうぶん取っていたから、店長の指示どおりホールに向かった。店長の脇を通りすぎるとアルコールの饐えた匂いがした。昨日の酒が残っているのだろう。オーナーに見つかるとそれこそまた面倒なことになる。
ホールとバックヤードの中間に位置するスペースで制服をなおしていると、店長と純真が話す声が聞こえた。おれがすでにホールへもどったものと思っているのか、声を低めてはいるものの、耳をそばだてれば内容はかろうじて聞こえる。
「あいつマジでなんなの。神経質すぎんだよ」
店長はまだ腹の虫がおさまらないようで、純真を相手に悪態をついている。
「でも事実じゃないですか。待遇改善はこないだの会議でオーナーもみんな含めて決めたことでしょ」
純真は店長を刺激しないよう気を配りながら、さりげなくおれの味方をしてくれているようだった。
「にしたって、百瀬の態度どうなのよ。前から思ってたけど、あいつちょっと障害入ってんじゃねえの。掃除とかすげえ細かいし、コミュ障っぽいしさ」
店長の言葉はおれの体を冷えさせた。足元がぐらつく。ショックを受けたのは、おれ自身がおなじ疑惑を抱いていたからだった。他のだれも気にならないような細かい部分が気にかかって無視できなかったり、他人の言動に過敏に反応して自己嫌悪に陥ったりということが異常だとは思わない。ただ、おれの場合は過剰な気がしていた。しかし、自覚するのと他人に指摘されるのはまったくちがっていた。
「そんなこといわないほうがいいっすよ」
純真の言葉が耳に入り、我に返った。純真の声はさっきまでのように笑っていなかった。音だけでも怒りが伝わってくるほど、静かながら、燃え上がりそうな熱があった。
「個性でしょ、ただの。なんも知らないのに勝手なこといったら、それこそ名誉毀損ですよ」
「なんだよ、おまえまで百瀬みたいなこといいやがって」
店長は揶揄するようにいったが、純真の勢いに気圧されているのはあきらかだった。
店長がホールに出てくる気配がして、おれは慌てて先にその場を離れた。すこしして店長が、そのあとで純真が出てきた。予約なしの団体客が入ってきて、ふたりでテーブルセッティングに入った。
「だいじょうぶか」
皿を並べながら、純真が顔を寄せて囁いてくる。
なんとなく視線を合わせづらく、無言で頷いた。純真が手を伸ばし、おれの頭を軽く撫でた。不快感はない。むしろ心遣いが嬉しかった。それなのに、首を振って避けてしまう。そういう態度を取って、次の瞬間には後悔している。しかし、素直に謝ることも礼をいうこともできない。他のひとには簡単なのだろう。それなのに、おれだけできない。仕事中にもかかわらず涙が出そうになって、おれは乱暴に箸を並べた。ふだんならきっちり先が揃った状態でなければ気持ちが悪い。それでも振り切るように雑に支度を整えて席を離れた。背中に純真の視線を感じながら。
帰宅してベッドに体を投げ出すと、おれは声にならないうめき声を枕の上に落とした。身体的にはそうでもないが、精神的な疲労が全身を覆っていた。
まさか純真に会うとは予想もしていなかった。他人のふりをしてその場から逃げ出せばよかったのだろうが、「モモ」と呼ばれ、体が固まって動けなくなってしまった。あれから1年が過ぎて、気が緩んでいたのかもしれない。1年たって、ようやくすこしは忘れられたと思っていたところだったのに。
重い体をどうにか起こし、ベッドの脇に設置したラックを開ける。文房具や充電器を収納したラックの奥に箱を入れてある。この1年はほとんど開けたことのない箱だ。なかに入っていた袋を取り出す。
黒い石が埋め込まれたレザーの指輪。棄てきれず、ずっとしまいこんでいた。
これを受け取ったのが間違いだった。はっきり断って、突き返せばよかった。あんな顔されたからといって……
指輪を握りこみ、再びベッドに俯せる。
池袋の夜。おれが指輪のプレゼントを喜ばなかったことで傷ついた表情、おれが申し入れを受け容れたことで歓喜に輝いた表情。昨日会ったひとの顔も忘れるのに、純真の顔だけは細かい表情のひとつひとつまで鮮明に思い出すことができる。それだけ強烈な印象を残しているのだろう。
純真はすこしも変わっていなかった。たった1年でそこまで外見が変化することもないだろうが、まるでなにもなかったかのように明るい笑顔を見せたことが、おれには解せなかった。あんなことがあったのに、まるでずっと関係が継続しているような錯覚を起こすほどだ。そんなはずはないのに。
スマホが鳴って、LINEの受信を伝えた。純真からだった。『今家帰ってきたよ~』という暢気なテキストメッセージとともに、桃を模ったイラストのスタンプが送られてきた。ピンク色のポップな絵柄を見た瞬間、おれの胸はきつく締めつけられた。
「なにこれ」
目の前にいる相手から送られてきたLINEに戸惑いながら開いてみると、通常のメッセージではなくスタンプのギフトが表示された。特定の相手にオリジナルスタンプをプレゼントできる仕組みで、そういったものを受け取ったのははじめてだった。
「モモ専用スタンプ」
そういって笑う純真の表情は誇らしげでありながら悪戯っぽく、子どものようだった。バイト先のバックヤードで、ふたりとも制服を着ている。といっても前掛けのようなもので、基本的には私服のシャツとパンツといった軽装だ。
「純真がつくったの」
大きな桃を被った大きな瞳の少年。嬉しそうに笑う表情や悲しげに泣く表情など、いくつものパターンが並んでいる。制作者の欄には『Junshin』と表示されている。純真がデザイン系の専門学校に通っていることを思い出した。
「そうだよ」
色彩豊かなイラストはプロが制作した公式スタンプといっても信じてしまいそうなほど精巧だった。
「さすがにキモいかな。引いた?」
「いや……絵が上手すぎて引くの忘れてた」
「なんだそれ」
いたって真剣な感想のつもりだったが、純真は笑った。照れ笑いだった。
「モモって、ふだんわりとツンツンだけど、褒めてくれるときは全力で正直だから、他の奴に褒められるときと嬉しさのレベルが全然ちがうんだよな」
そういうふうにいわれるとかえってこちらが照れてしまう。純真に教えてもらいながら、手製のスタンプを端末に保存した。
「試しに1回おれに送ってみて」
「うん」
画面を開き、『お疲れ~』のテキストが躍るスタンプを選択し、送信した。
「そこは『大好き』を選んでほしかったけど、まあいいや」
スマホを見ながらしゃべっていると、ホールから店長が顔を出した。
「おーい、おまえらそろそろもどれよ。団体入ってきたから」
「はーい」
純真がスマホをポケットにしまって椅子から立ち上がる。
「あの、店長」
考えるより先に口が動いていた。
「おれはいいんですけど、純真、今日1回も休憩取ってないんで」
「は?」
二日酔いらしく遅刻してきた店長は機嫌が悪かった。眉を顰めていった。
「いや、それは知らんよ。それぞれ自主的に隙間見つけて休んでもらわんと」
「でも、店長が時間どおりにこなかったせいでもあるんです。店長以外にレジ開けられるの純真だけなんで」
「ちょちょ、モモ、いいから」
純真が慌てて制止しようとするが、こうなると止まらない。おれは声を荒らげるでもなく、淡々とつづけた。
「そもそも、休憩時間は1日につきひとり何分ときちんと定めたほうがいいんじゃないでしょうか」
「いや、それはその日の状況にもよるだろ」
「タイミングは各々の判断でよいとしても、時間は決めておいたほうがいいと思います。労働基準法にもそうありますし」
「モモ!」
純真がおれの腕を引いたが、遅かった。店長が顔を紅潮させ、大股にこちらに迫ってくる。
「百瀬、おまえ、なにがいいてえの。おれがスタッフをこきつかってるって意味か、それは?」
「いやいや、店長、ちょっと待ってくださいよ」
純真がおれと店長の間に体を挟み込むようにして行く手を阻む。さすがに営業時間中に怒鳴り声を上げるようなことはなかったが、店長は怒りを隠そうともせず、深酒のせいで充血した目をおれに向け、舌打ちした。
「めんどくせえこといってねえでさっさと仕事もどれ、百瀬」
「わかりました」
それ以上議論しても無駄なことはわかっていた。実際、おれはすでに休憩をじゅうぶん取っていたから、店長の指示どおりホールに向かった。店長の脇を通りすぎるとアルコールの饐えた匂いがした。昨日の酒が残っているのだろう。オーナーに見つかるとそれこそまた面倒なことになる。
ホールとバックヤードの中間に位置するスペースで制服をなおしていると、店長と純真が話す声が聞こえた。おれがすでにホールへもどったものと思っているのか、声を低めてはいるものの、耳をそばだてれば内容はかろうじて聞こえる。
「あいつマジでなんなの。神経質すぎんだよ」
店長はまだ腹の虫がおさまらないようで、純真を相手に悪態をついている。
「でも事実じゃないですか。待遇改善はこないだの会議でオーナーもみんな含めて決めたことでしょ」
純真は店長を刺激しないよう気を配りながら、さりげなくおれの味方をしてくれているようだった。
「にしたって、百瀬の態度どうなのよ。前から思ってたけど、あいつちょっと障害入ってんじゃねえの。掃除とかすげえ細かいし、コミュ障っぽいしさ」
店長の言葉はおれの体を冷えさせた。足元がぐらつく。ショックを受けたのは、おれ自身がおなじ疑惑を抱いていたからだった。他のだれも気にならないような細かい部分が気にかかって無視できなかったり、他人の言動に過敏に反応して自己嫌悪に陥ったりということが異常だとは思わない。ただ、おれの場合は過剰な気がしていた。しかし、自覚するのと他人に指摘されるのはまったくちがっていた。
「そんなこといわないほうがいいっすよ」
純真の言葉が耳に入り、我に返った。純真の声はさっきまでのように笑っていなかった。音だけでも怒りが伝わってくるほど、静かながら、燃え上がりそうな熱があった。
「個性でしょ、ただの。なんも知らないのに勝手なこといったら、それこそ名誉毀損ですよ」
「なんだよ、おまえまで百瀬みたいなこといいやがって」
店長は揶揄するようにいったが、純真の勢いに気圧されているのはあきらかだった。
店長がホールに出てくる気配がして、おれは慌てて先にその場を離れた。すこしして店長が、そのあとで純真が出てきた。予約なしの団体客が入ってきて、ふたりでテーブルセッティングに入った。
「だいじょうぶか」
皿を並べながら、純真が顔を寄せて囁いてくる。
なんとなく視線を合わせづらく、無言で頷いた。純真が手を伸ばし、おれの頭を軽く撫でた。不快感はない。むしろ心遣いが嬉しかった。それなのに、首を振って避けてしまう。そういう態度を取って、次の瞬間には後悔している。しかし、素直に謝ることも礼をいうこともできない。他のひとには簡単なのだろう。それなのに、おれだけできない。仕事中にもかかわらず涙が出そうになって、おれは乱暴に箸を並べた。ふだんならきっちり先が揃った状態でなければ気持ちが悪い。それでも振り切るように雑に支度を整えて席を離れた。背中に純真の視線を感じながら。



