告白の翌日から、純真は毎日のように連絡を寄越した。おれに困惑する隙さえ与えずに会う約束を取り付け、その日にまた次の約束が結ばれるという調子で、純真の強引さに身を任せるようなかたちで、おれたちは距離を詰めていった。
親しく付き合うようになって、純真に関する情報をほとんど持っていないことに気づいた。1年ほどおなじ店舗で働いていたのにもかかわらずだ。
純真はデザイン系の専門学校の2年生で、誕生日は3月。学年はちがうが、おれたちはおなじ年齢だった。純真の学校は代々木にあり、おれの大学からも近かったため、学校の帰りに駅で待ち合わせて出かけることが多かった。映画を観たり、食事をしたりと、ごくふつうの友人同士の付き合いだった。
純真は友人として完璧な人間だった。明るく、気が利いて、幅広い話題にも対応した。とりわけ、相手の話を聞く技術に長けていた。おれの趣味に関心があったわけではないだろうが、まるでずっと以前から興味があったかのように会話に乗ってきた。
「この監督、前に好きっていってなかった?」
スマホの画面を示しながら、純真が話しかけてくる。電車のドアに半身をもたせかけて窓の外を見ていたおれの前にかざす。
「あ、うん。好き。この前観たやつ、すごいよかったし」
「池袋のシネコンでやってるみたいだけど観に行く?」
「行きたいけど、けっこうグロ系だと思うよ。純真、グロいの苦手じゃなかった?」
「べつに苦手じゃないよ。おもしろそう」
友人関係となって最初の頃は、こういった純真の言葉を額面どおりに受け取るべきか迷っていた。こちらに合わせて本心を隠しているのではないかと疑ったからだ。しかし、3ヶ月もするとそのような猜疑心がいかに無駄か気づいた。仮に嘘をついていたとしても、当然悪意が介在するものではなかったし、純真のほうもすべてをおれに合わせるわけではなく、食事のメニューや行きたい場所など自分の意見を主張することもすくなくなかった。互いに食べたいものや行きたいものを提案し、気に入れば同調し、そうでなければべつのものを提案する。そのバランスは、他人に嫌われないようになんでも受け入れ、できもしない気配りを自身に強いてきたおれにとって、心地よかった。
「映画終わったあとちょっと服見ていい?」
「いいよ」
おれは単館系の映画が好き。純真は服が好きだった。高級ブランドを求めるわけではないが、古着やファストブランドをうまく組み合わせて、シンプルながら個性の覗ける着こなしをしていた。おれはもともとファッションにはまったく興味がなかったが、純真の影響を受けて、オンラインショップやモデルのSNSにもアクセスするようになっていた。
「おれもなにか服買おうかな」
「うん。今日着てるシャツ、この前買ったやつだよね」
ジップアップパーカーの下に着ているシャツの柄に純真は目敏く気づいた。
「色ちょっと派手かなと思ったんだけど」
「そんなことない。似合ってる」
「そうかな」
「うん。好き」
さりげない言葉にどきっとする。山手線が渋谷駅に到着し、ドアが開いたとたんに大勢の乗客が押し寄せてきた。車内の奥に追いやられ、客同士の距離が狭まる。目の前に立っていた純真が他の客に圧され、互いの胸が接着しそうなほど近づいてきた。純真がふだんつけている香水のにおいが濃くなる。
「混んできたな」
「うん」
純真が伸ばした手がおれの顔の横をすり抜けた。電車のドアに掌を貼り付け、力を込めておれの体勢を守るように空間をつくる。背が高い純真の顎が額に触れそうになり、おれは上半身を逸らした。純真の手の甲に浮いた血管の筋を見つめた。顔をもどして純真を見た。目が合うと、純真は微笑を浮かべた。とくに無理をしているようには見えなかった。
電車が大きく揺れ、乗客の波がおれのほうに傾いた。支えきれずに、純真の体がおれに密着する。体重がかかり、純真の胸がおれの肩に圧しつけられた。爪先が衝突し、膝が絡む。純真の匂いが鼻腔をくすぐった。
「ごめん」
「うん……」
池袋駅で停車すると、人の波に流されるように車外へ出た。週末の駅構内は人であふれていた。一瞬、純真を見失ってしまった。足を止めて辺りを見回していると、背後から腕をつかまれた。
「モモ、こっち」
純真はそのままおれの手を取り、歩きはじめた。だれの視線を感じることもなかったが、男に手をつかまれて歩いていることに羞恥をおぼえた。手に力を込めて引き戻した。純真が虚を突かれたように振り返る。驚いたような表情はすぐに笑顔に変わった。
「ごめん。痛かった?」
「いや……」
いつものこと。しなくてもいい弁解をしたくなる。せずにはいられない。
「なんか、手つないでるみたいだったから」
口にしたとたん、後悔した。よけいな一言で、意味のない行動に意味を持たせてしまう。耳が熱くなった。
「そういえばそうか。気づかなかったわ」
純真の反応はごく自然で、おれは心中そっと安堵した。
「行こ。映画はじまるよ」
「うん」
並んで歩きながら、さりげなく隣の純真を観察する。
「純真さ」
沈黙に耐えかね、考えるより先に口をひらいていた。
「高校の頃、なに部だった?」
静寂を埋めるためとはいえ、自分でも情けなくなるほどどうでもいい質問だった。
「おれ? サッカー部」
「わ、チャラそう」
「いやいや、まごうことなき偏見」
純真が肩を揺らして笑う。おれは歩くスピードを下げた。純真は気づかずに歩き続けている。純真の広い背中を見つめた。口を開きかけたところで、純真が振り向いた。
「なに?」
「……なんでもない」
「モモは帰宅部?」
「決めつけんなよ」
「あ、ちがうの?」
「ちがわないけど」
「なんだよー」
他愛ないやりとり。ほかの人間なら厭味のように聞こえる言葉も、純真の口から出てくると親しみのこもったものになる。そういうふうに感じるのはおれだけだろうか。
週末でどこも混雑しているのにもかかわらず、映画館は空いていた。駅からかなり離れた小さな映画館。映画そのものもマイナーな監督の作品で、注目されているとはいい難かった。予約なしで中央の良席に座ることができた。観客はおれたちのほかに数人で、前後左右にはだれもいない。監督のファンとしてはすこし寂しいが、快適な空間だった。
映画はヒューマンドラマの要素を加えたゾンビもので、低予算ながら映像が映えるいい出来のものだった。おれはすぐに熱中したが、終盤に差し掛かったところで左手の甲にひやりとした感触をおぼえた。
おれの左側の席には純真が座っている。純真の右手がおれの左手に触れていた。
そっと顔の角度をずらして隣の純真を見る。純真の横顔はまったく動かない。それでも、気のせいとは思えなかった。
おれの手の上で、純真の指がわずかに蠢いた。咄嗟に手を引いた。純真の表情に変化はない。じっとスクリーンを見つめているだけだ。
おれはわずかな戸惑いとともに視線を逸らした。両手を膝の上に重ね、電源を切ったスマホを握りこむ。
スクリーンに視線をもどして、ため息をつきそうになった。おそらくは、ストーリーの核となるべき台詞を聞き逃している。字幕版だから、見逃しているといったほうが正しいだろうか。いずれにしても、残念なことをした。自宅で配信映像やDVDを見ているときのように巻き戻すわけにもいかない。
映画館の薄闇のなかで、おれはそっと純真をにらんだ。もちろん、気づかれることはなかった。
「おもしろかったな」
映画館を出ると、純真は邪気のない笑顔を向けてきた。
「おもしろかったなーじゃないよ」
おれは憮然とした表情をつくった。
「純真のせいで途中から集中できなかった」
「え、なんで」
間の抜けた顔をにらみつける。
「手に触ったじゃん」
「あ、そうだっけ」
純真は悪びれることもなく目を瞬かせていった。
「ごめん。気づかなかった」
「なんだよ、それ。こっちはすごい気になって……」
「気になってたの?」
「気になるだろ、そりゃ」
「嫌だったわけじゃなくて?」
「嫌?」
純真の質問の意図がわからず、おれは眉を寄せた。
「べつに嫌とかはないよ」
「ふーん」
おれが口を開こうとするのを遮るように、純真は先に立って歩き出した。
「腹減んない? 服さっと見てからメシ行こ」
若干の違和感をおぼえながらも、おれは純真の背中を追った。ときどきこういうことがある。純真の態度にわずかな変化を感じるものの、その正体がなんなのか判別できない。ふつうの友人同士なら理解できるものなのだろうか。他人とコミュニケーションを取るのが苦手なおれのせいなのか、それとも……
「ほしいの、それ」
いきなり背後から声をかけられて、おれは驚いて振り返った。肩越しに純真がおれの手元を覗いている。
セレクトショップの店頭で展示販売されている1点もののオリジナルアクセサリー。黒い石が埋め込まれた革製のリングを手に取ったまま、おれはぼんやり突っ立っていた。とくに指輪に関心があったわけではない。純真が買いものをしている間の暇つぶしとして冷やかしているうちに考えごとに耽ってしまっただけだ。
「べつに……」
慌ててケースにもどしたが、純真がすぐにまたつまみ上げる。
「つけてみればいいじゃん」
「いや、でも……」
「アクセサリー苦手? つけてるとこ見たことないけど」
「苦手ってわけでは……」
純真のシャツの胸元で揺れるネックレスを見ながら、おれはいった。
「おれには似合わないし」
「そんなことないよ。つけてみ、ほら」
純真はおれの右手を取り、なかば強引に薬指に指輪を嵌めた。
「いいじゃん。今日の服にも合ってるし」
服とアクセサリーのコーディネートなど考えたこともなかった。おれには到底扱いきれないだろう凝ったデザインの指輪を眺め、指からはずして再びケースにもどした。
「やっぱいい」
純真の体の脇をすり抜けて、セレクトショップの店内に入る。
「どこ行くの」
「トイレ」
なんとなく落ち着かない気分で、おれは逃げるように店内のトイレに入った。避けるつもりはなかったが、純真の視線を受け止められなくなっていた。
変に思われていないだろうかと不安を抱きながら、洗面台の鏡を見つめる。セットもしていない黒髪に眼鏡をかけたいかにも野暮ったい男がそこにいた。アクセサリーなど、馬鹿にされるだけだ。これまでおしゃれに気を遣ってこなかったのに、センスのいい友人ができたからといって、突然ファッションリーダーになれるわけでもない。調子に乗らないことだ。
セレクトショップを出ると、純真が路上でだれかと話していた。知らない男だった。純真とおなじようにストリートカジュアルで身を固め、ブリーチした髪にキャップを被っている。
純真は交友関係が広く、映画館を出た後も、電話やLINEをいくつも返していた。キャップの男と楽しげに会話を交わす横顔はおれの知らない純真だった。
「あ、モモ」
おれの姿を見つけ、純真が手を挙げる。キャップの男が振り返る。おれの全身を素早く眺め、いった。
「純真の彼氏?」
「ちげーわ、馬鹿」
純真が友人の脛を軽く蹴る。かなり親しい間柄のようで、キャップの男は怒った様子も見せずに大仰な声を上げた。
「おれら行くから。じゃあな」
「おー、またな」
友人と別れ、並んで歩き出す。いつの間にか周囲は暗くなりはじめていた。
「よかったの」
「え?」
「友達」
「あー、全然。さっきそこで偶然会っただけだし」
ポケットに両手を突っ込んで、純真がおれのほうに目を向ける。
「なんで?」
「べつに……」
店を探すような素振りで視線をはずす。
「おれといるより楽しいんじゃないかなって思ったから」
「またそういうこという」
純真が苦笑いする。
「モモといるのが一番楽しいよ。いつもいってるじゃん」
羞恥に顔が熱くなる。自己憐憫は学生時代からの悪癖だが、こうして表に出すのは純真に対する甘えだと自覚していた。否定を期待しているからこそ、自虐的な言葉が口をついて出てしまう。そしてそのことを知ってか知らずか、純真は常に期待に応えた。
「なに食いたい?」
「なんでもいい」
「なんでもいいはだめだってば」
呆れたように笑って、純真がおれの背中に腕を回す。
「あ、そこは? スペインバルだって。うまそうじゃない?」
肉とチーズの香ばしい匂いに混じって、純真の香水の匂いが鼻腔を通り抜ける。密着した肩に純真の体温を感じて、おれはまた落ち着かなくなった。
「ここでいい? じゃ入ろうか」
おれが頷くのを確認して、純真はおれの背中を圧してバルの店内に入った。
「すみません。ふたりなんですけど、席あります?」
もともとの性格なのだろうが、純真は行動的で、判断も決断も早い。バイト先でも常にリーダーシップを取り、それでいて自己中心的ではないので、疎まれることはなかった。おれ自身も、優柔不断な性格ということもあって、リードしてもらえるのはありがたかった。
もし純真が彼氏だったら心地いいだろう。一瞬頭を過ぎった考えを慌てて打ち消す。さっきの男が不躾な質問をしてきたせいで、そんなことを想像してしまったのだろう。
それにしても……
席についてメニューを開く純真を見ながら、おれはなんとなく釈然としない思いだった。
おれのことが好きだなどといいながら、否定するのが随分早かった。映画館でもとくに意識していないようだったし、もう好意はなくなって、友人として割り切って付き合うようになったのかもしれない。おれにとっては好ましい状況のはずだったが、素直に喜べなかった。もしそうなら、あまりにあっさりしすぎている。そんなふうに簡単に他人に好きとか付き合ってほしいとかいえるものだとしたら、価値観に差がありすぎる。
「なに怒ってんの」
無意識に表情を強張らせていたようだ。純真が呆気にとられたようにメニューを置く。
「この店、嫌だった?」
首を振る。差し出されたメニューを受け取る。カタカナのメニュー名が並び、どういう食べものなのかほとんどわからない。
「どれにしようか」
「わかんないからなんでもいい」
「だからなんでもいいはだめっつってんのに」
純真は苦笑いしてテーブルに頬杖をつく。
「お互いに食べたいのふたつずつ頼もうか」
ドリンクのオーダーを取りにきた店員にひとまずビールとウーロン茶を頼んで、純真は前のめりになり、おれの手にあるメニューを覗き込む。
「おれ、そのマッシュルームのやつにしようかな。マッシュルームいける?」
「うん」
反射的に頷いてから、一拍措いて、首を窄める。
「ごめん。やっぱだめだった」
茸類独特の臭みが子どもの頃から苦手で食べられない。にも関わらず、即答できない自分の習慣が情けなかった。
「あ、苦手? じゃちがうやつにしよ」
純真は気にする素振りも見せず、またメニューを物色している。優柔不断な態度が他人を苛立たせると自覚しているから、安堵した。純真は常におれのペースに合わせてくれる。おかげでメニューを決めるのに10分近くかかってしまった。
「ごめん。時間かかっちゃって」
ようやくオーダーを済ませた頃には、純真のジョッキの表面についた霜が水になってテーブル上に溜まっていた。
「いいよいいよ。じっくり考えるの大事だし。おれなんか適当に頼んでいつも失敗しちゃうから」
純真がどう思っているのかはひとまず措くとして、彼のおおらかさにたすけられているのは確かだった。純真といると、自己嫌悪や自己憐憫で息ぐるしくなることもなく、ありのままの自分でいられた。
「これ、旨い」
数種類のタパスが盛り付けられた皿を示して、純真が促すように見てくる。
「どれ」
「この卵のやつ」
スペイン風のオムレツを箸で口に運ぶ。
「ほんとだ。おいしい」
「な。悩んだ甲斐あったよな」
純真がにっこり笑う。時間をかけて悩んだ挙句に定番の料理を選ぶ保守的な思考を恥ずかしく思っていた。純真の素直な笑顔はおれが感じていた引け目を打ち消した。
「生ハム食う?」
「うん」
純真が自分の皿からフォークでハムを掬い上げ、持ち上げた。目の前に差し出され、つい無意識に口を開けてしまった。純真のフォークから生ハムを食べて、咀嚼しながらかなり恥ずかしいことをしてしまったのではないかと気づいた。純真が作為的にしたこととは思えないが、おれにはどうも場の空気に流されてしまう癖まであるようだ。無意識に周囲に視線を配ったが、店内の客も店員もおれたちに注意を向けることはなく、ごく自然にそれぞれの食事や作業を続けている。他人の視線を気にしすぎるのは自意識過剰かもしれない。
向かいの席でビールのジョッキを傾けている純真も、とくに態度を変えることはない。緊張し、取り乱しているのはおれだけのようだ。
あのキャップの男のせいなのか、それとも映画館で手が触れてからか、その前に混雑した電車内で体が密着してからか、とにかく今日はいつもとすこしちがう。おれは気持ちを落ち着かせようと立て続けにウーロン茶を喉に入れた。
「お代わり、注文する? おれ頼むけど」
純真のジョッキも空になっていた。軽く手を挙げて店員に合図を送る。
「おなじのでいい?」
「うん。あ、いや……」
すこし躊躇ってから、いった。
「サワーとかにしようかな」
「酒飲むの?」
純真が驚いて挙げていた手を引っ込める。
「え、だめかな?」
「全然だめじゃないけど。珍しいから」
「たまにはいいかなーと思って」
純真の反応に戸惑いながら、ドリンクメニューに視線を落とす。
「モモと酒飲むのはじめてだからうれしいな」
純真は目に見えてはしゃいでいる。こちらが恥ずかしくなるほどだ。おれが酒を飲むことがそれほどうれしいのだろうか。むず痒いような気分で、店員が運んできたレモンサワーのグラスを受け取った。
アルコールを口にするのは数カ月ぶりで、あっという間に酔いが回った。おれは純真のくだらない冗談に身を捩って笑い転げ、純真に促されるままに自分の話をした。学生時代の苦い記憶や、他者とうまくコミュニケーションを取れないこと、好きな映画やアニメの話。純真はそのどれにも興味がないはずだったが、真剣に、楽しげに耳を傾けていた。
気づいたら終電の時間が近づいていた。会計を済ませ、店の外に出ると、池袋の街は酔客で賑わい、そこかしこで学生や会社員らしき団体が騒いでいる。
喧噪のなかを並んで駅に向かう。体が熱いのは、アルコールのせいもあるが、精神的な高揚も手伝っていた。だれかに自分の話をしたことはほとんどなかった。これまで裡にこめてきた思いを外に出した開放感と受け容れられた安堵感が、おれを興奮させていた。
「楽しかったな」
長身を大きく伸ばして、純真が弾んだ声を上げる。
「うん……」
「え、あんま楽しくなかった?」
「いや、ちがくて。むしろ楽しすぎたっていうか……」
紅潮した頬に手の甲をあてて冷やしながら歩く。
「ずっとおればっかしゃべってた気がして。変な話して、引かれてないか心配……」
「引くわけないじゃん」
純真が足を止めて、おれも立ち止まった。
「むしろおれは今日でもっと好きになったよ、モモのこと」
直接的な言葉にどきっとする。さっきまでの緊張が解けてリラックスしていただけに、純真の言葉がダイレクトに響いた。
「あのさ、モモ」
「なっ、なに」
声が上擦ってしまい、おれは羞恥にまた顔を熱くした。おれの狼狽には頓着せず、純真はポケットから小さな紙袋を取り出した。
「これ、さっき渡そうと思ったんだけど」
「なにこれ」
「開けて」
純真の緊張が伝わって、おれはよけいに戸惑った。紙袋を開けると、小さな袋が出てきた。なかには指輪が入っている。昼間立ち寄ったセレクトショップでおれが見ていたあのレザーの指輪だ。
「あげる」
「え、いいよ。こんな高そうなのもらえない」
「そんなびっくりするような値段じゃなかったから」
「だって、でも、おれ」
思いがけないことに、おれは慌てて舌を縺れさせた。
「たまたま見てたときにちょっと考えごとしてただけで、とくにこれが気に入ったわけじゃなかったし」
言葉を口の外に出したとたん、失敗したことに気づいた。純真の表情が一瞬曇る。鈍感なおれにも、相手を傷つけてしまったとわかった。たとえ事実であっても、わざわざ本人に伝えることはない。あくまでも好意のプレゼントなのだから。受け取らないにしても、他の断りかたができたはずだ。よけいな一言で他人を不快にさせる癖。最悪だった。いいわけをしたかったが、頭が混乱して言葉が出てこない。
「そうだったのか、ごめん。恥ずかしい勘違いしちゃったかも」
感情が表に出たのはほんの一瞬で、すぐに純真は照れ笑いを浮かべた。
「でも、おれがモモに似合うと思ってあげたものだから、受け取って。気に入らなかったら棄ててもいいし」
爽やかな笑顔でそういわれると、断りきれなくなってしまう。手のなかの指輪を見つめながら、おれは途方に暮れていた。
池袋のど真ん中で、おれたちは無言で向き合っている。賑やかな酔客たちが脇を通り過ぎて行く。平日の夜だ。ほとんどが駅に向かっている。終電の時間を考えれば、おれたちもひとの波に加わるべきだった。しかし、動けなかった。
「あの、純真……」
「モモ」
おれの頼りない声に、純真の真剣な声が被さった。
「モモはおれといて楽しい?」
「え、うん、楽しい」
もう失敗したくない、傷つけたくないという罪悪感と切迫感が、おれに即答させた。壊れた玩具のように何度も頷く。嘘ではなかった。
「おれのこと嫌いではないよね?」
重ねて尋ねられ、反射的に再び頷いた。
「じゃあさ、1か月だけでいいから、おれと付き合ってみない?」
想像もしていなかった申し出に、おれは硬直した。頭にはまだアルコールの重みが残っていて、純真の言葉をすぐに咀嚼できなかった。ただ、純真の真剣な表情を見つめていた。
「1か月間、恋人として付き合ってみて、それで、やっぱちがうなって思ったらまた友達にもどればいいからさ」
「そん……」
言葉が喉の奥で絡む。咳き込みながら、なんとか引っ張り出した。
「そんなことできないよ……」
「なんで」
「だってそんな……お試しみたいな」
「お試しでもいいじゃん」
「そんなの失礼だろ」
「おれに? おれは全然平気。お試ししてほしい」
純真が一歩踏み出しておれに近づく。咄嗟に後ずさりそうになるのを堪えた。あからさまに拒絶してまた純真の傷ついた顔を見るのが嫌だった。
「今日一日いっしょに過ごして思った。やっぱ、おれモモと友達は無理」
はっきり拒めずにいるおれに、純真が畳みかける。
「モモとちゃんと付き合いたい。友達じゃなくて」
友達でいられないという宣言は、思いがけないほど強烈におれの頭を揺らした。純真の存在が消え去るかもしれないという恐怖に、判断力が奪われ、烈しく動揺した。純真は生まれてはじめてできた友達で、すでにかけがえのない存在になっていた。
おなじ一日を共有したおれたちだったが、それぞれ感じていたのはまったく逆だったらしい。おれははじめて他人に心情を吐露し、弱みを曝け出して、すっかり純真に心をゆるしていた。それだけに、純真がおれをどう見ていたかを知り、困惑していた。ショックといってよかった。
「もどれるのかな……」
ようやく口にできたのはこの言葉だった。
「え?」
純真が緊張した面持ちで聞き返す。おれは純真の目をまっすぐ見返すことができずに俯いた。
「付き合ってみて、なんかちがうって思ったとして、そのあと、またこんなふうに友達にもどれるのかな」
「もどれるよ」
「だって、純真はおれと友達無理っていったじゃん……」
言葉にすると泣きそうになる。手のなかの指輪を握りしめ、おれは必死で冷静になろうとした。神経が張り詰め、今にも弾けて消えてしまいそうだった。おれの声が掠れるのを聞いて、純真は狼狽した。
「いったけど……でも、1か月試してそれで嫌っていわれたら、諦めつくから。もし振られたら、そのあとはもうこんなこと絶対いわない。約束する。」
純真も必死なようだった。ビールとワインで朱みのさした顔で真剣に口説いてくる。
「だからさ、頼むよ。モモ。うんっていって」
ずるい、と思った。こんなふうに感情を乱され、贈りものを受け取って、友人関係を人質に取られて、決定権が与えられているようで、実は選択肢がない。
「……わかった」
最終的に、おれは首を縦に振ってしまった。純真の瞳が輝く。
「ほんと?」
「うん……」
おれの返事を聞いて、純真は文字どおり飛び上がった。何度もジャンプしながら拳を振り上げた。
「よしっ、よしよし、やった、よっしゃ!」
純真がサッカー部だったことを思い出した。まるでゴールを決めたかのようだと思い、うっかり笑ってしまった。その反応を見て、純真はさらに相好を崩した。おれの名前を叫びながら体をぶつけてくる。おれはゴールをアシストした選手のように純真に持ち上げられ、振り回された。
「ちょっ……やめろよ、馬鹿!」
それまではおれたちの恥ずかしいやりとりをだれも気にとめず素通りしていたが、さすがに通りすがるひとが怪訝な視線を向けてきた。おれは顔を真っ赤にして純真の体を圧しもどした。
「ごめん。うれしすぎて……」
ようやく地上に降ろされたが、またすぐに力いっぱい抱き竦められる。純真の香水の匂いとアルコールの匂いが鼻腔を通り抜け、体に充満するようだった。
「ありがと、モモ」
おれの顔を両掌で包み、至近距離で見つめながら、純真は興奮した面持ちでいった。
「モモに好きになってもらえるように、おれめっちゃ頑張るから」
なんとも答えられず、おれは黙って頷いた。眼鏡のずれを指でなおす。純真のことを自分勝手だとは思ったが、それでも、嫌悪感はなかった。むしろ、純真をここまで歓喜させているのが他ならぬ自分だと思うと、擽ったいような誇らしいような気分になった。それが純真の持つ性質からなのか、それとも純真に対するおれの気持ちのせいなのか、わからなかった。
親しく付き合うようになって、純真に関する情報をほとんど持っていないことに気づいた。1年ほどおなじ店舗で働いていたのにもかかわらずだ。
純真はデザイン系の専門学校の2年生で、誕生日は3月。学年はちがうが、おれたちはおなじ年齢だった。純真の学校は代々木にあり、おれの大学からも近かったため、学校の帰りに駅で待ち合わせて出かけることが多かった。映画を観たり、食事をしたりと、ごくふつうの友人同士の付き合いだった。
純真は友人として完璧な人間だった。明るく、気が利いて、幅広い話題にも対応した。とりわけ、相手の話を聞く技術に長けていた。おれの趣味に関心があったわけではないだろうが、まるでずっと以前から興味があったかのように会話に乗ってきた。
「この監督、前に好きっていってなかった?」
スマホの画面を示しながら、純真が話しかけてくる。電車のドアに半身をもたせかけて窓の外を見ていたおれの前にかざす。
「あ、うん。好き。この前観たやつ、すごいよかったし」
「池袋のシネコンでやってるみたいだけど観に行く?」
「行きたいけど、けっこうグロ系だと思うよ。純真、グロいの苦手じゃなかった?」
「べつに苦手じゃないよ。おもしろそう」
友人関係となって最初の頃は、こういった純真の言葉を額面どおりに受け取るべきか迷っていた。こちらに合わせて本心を隠しているのではないかと疑ったからだ。しかし、3ヶ月もするとそのような猜疑心がいかに無駄か気づいた。仮に嘘をついていたとしても、当然悪意が介在するものではなかったし、純真のほうもすべてをおれに合わせるわけではなく、食事のメニューや行きたい場所など自分の意見を主張することもすくなくなかった。互いに食べたいものや行きたいものを提案し、気に入れば同調し、そうでなければべつのものを提案する。そのバランスは、他人に嫌われないようになんでも受け入れ、できもしない気配りを自身に強いてきたおれにとって、心地よかった。
「映画終わったあとちょっと服見ていい?」
「いいよ」
おれは単館系の映画が好き。純真は服が好きだった。高級ブランドを求めるわけではないが、古着やファストブランドをうまく組み合わせて、シンプルながら個性の覗ける着こなしをしていた。おれはもともとファッションにはまったく興味がなかったが、純真の影響を受けて、オンラインショップやモデルのSNSにもアクセスするようになっていた。
「おれもなにか服買おうかな」
「うん。今日着てるシャツ、この前買ったやつだよね」
ジップアップパーカーの下に着ているシャツの柄に純真は目敏く気づいた。
「色ちょっと派手かなと思ったんだけど」
「そんなことない。似合ってる」
「そうかな」
「うん。好き」
さりげない言葉にどきっとする。山手線が渋谷駅に到着し、ドアが開いたとたんに大勢の乗客が押し寄せてきた。車内の奥に追いやられ、客同士の距離が狭まる。目の前に立っていた純真が他の客に圧され、互いの胸が接着しそうなほど近づいてきた。純真がふだんつけている香水のにおいが濃くなる。
「混んできたな」
「うん」
純真が伸ばした手がおれの顔の横をすり抜けた。電車のドアに掌を貼り付け、力を込めておれの体勢を守るように空間をつくる。背が高い純真の顎が額に触れそうになり、おれは上半身を逸らした。純真の手の甲に浮いた血管の筋を見つめた。顔をもどして純真を見た。目が合うと、純真は微笑を浮かべた。とくに無理をしているようには見えなかった。
電車が大きく揺れ、乗客の波がおれのほうに傾いた。支えきれずに、純真の体がおれに密着する。体重がかかり、純真の胸がおれの肩に圧しつけられた。爪先が衝突し、膝が絡む。純真の匂いが鼻腔をくすぐった。
「ごめん」
「うん……」
池袋駅で停車すると、人の波に流されるように車外へ出た。週末の駅構内は人であふれていた。一瞬、純真を見失ってしまった。足を止めて辺りを見回していると、背後から腕をつかまれた。
「モモ、こっち」
純真はそのままおれの手を取り、歩きはじめた。だれの視線を感じることもなかったが、男に手をつかまれて歩いていることに羞恥をおぼえた。手に力を込めて引き戻した。純真が虚を突かれたように振り返る。驚いたような表情はすぐに笑顔に変わった。
「ごめん。痛かった?」
「いや……」
いつものこと。しなくてもいい弁解をしたくなる。せずにはいられない。
「なんか、手つないでるみたいだったから」
口にしたとたん、後悔した。よけいな一言で、意味のない行動に意味を持たせてしまう。耳が熱くなった。
「そういえばそうか。気づかなかったわ」
純真の反応はごく自然で、おれは心中そっと安堵した。
「行こ。映画はじまるよ」
「うん」
並んで歩きながら、さりげなく隣の純真を観察する。
「純真さ」
沈黙に耐えかね、考えるより先に口をひらいていた。
「高校の頃、なに部だった?」
静寂を埋めるためとはいえ、自分でも情けなくなるほどどうでもいい質問だった。
「おれ? サッカー部」
「わ、チャラそう」
「いやいや、まごうことなき偏見」
純真が肩を揺らして笑う。おれは歩くスピードを下げた。純真は気づかずに歩き続けている。純真の広い背中を見つめた。口を開きかけたところで、純真が振り向いた。
「なに?」
「……なんでもない」
「モモは帰宅部?」
「決めつけんなよ」
「あ、ちがうの?」
「ちがわないけど」
「なんだよー」
他愛ないやりとり。ほかの人間なら厭味のように聞こえる言葉も、純真の口から出てくると親しみのこもったものになる。そういうふうに感じるのはおれだけだろうか。
週末でどこも混雑しているのにもかかわらず、映画館は空いていた。駅からかなり離れた小さな映画館。映画そのものもマイナーな監督の作品で、注目されているとはいい難かった。予約なしで中央の良席に座ることができた。観客はおれたちのほかに数人で、前後左右にはだれもいない。監督のファンとしてはすこし寂しいが、快適な空間だった。
映画はヒューマンドラマの要素を加えたゾンビもので、低予算ながら映像が映えるいい出来のものだった。おれはすぐに熱中したが、終盤に差し掛かったところで左手の甲にひやりとした感触をおぼえた。
おれの左側の席には純真が座っている。純真の右手がおれの左手に触れていた。
そっと顔の角度をずらして隣の純真を見る。純真の横顔はまったく動かない。それでも、気のせいとは思えなかった。
おれの手の上で、純真の指がわずかに蠢いた。咄嗟に手を引いた。純真の表情に変化はない。じっとスクリーンを見つめているだけだ。
おれはわずかな戸惑いとともに視線を逸らした。両手を膝の上に重ね、電源を切ったスマホを握りこむ。
スクリーンに視線をもどして、ため息をつきそうになった。おそらくは、ストーリーの核となるべき台詞を聞き逃している。字幕版だから、見逃しているといったほうが正しいだろうか。いずれにしても、残念なことをした。自宅で配信映像やDVDを見ているときのように巻き戻すわけにもいかない。
映画館の薄闇のなかで、おれはそっと純真をにらんだ。もちろん、気づかれることはなかった。
「おもしろかったな」
映画館を出ると、純真は邪気のない笑顔を向けてきた。
「おもしろかったなーじゃないよ」
おれは憮然とした表情をつくった。
「純真のせいで途中から集中できなかった」
「え、なんで」
間の抜けた顔をにらみつける。
「手に触ったじゃん」
「あ、そうだっけ」
純真は悪びれることもなく目を瞬かせていった。
「ごめん。気づかなかった」
「なんだよ、それ。こっちはすごい気になって……」
「気になってたの?」
「気になるだろ、そりゃ」
「嫌だったわけじゃなくて?」
「嫌?」
純真の質問の意図がわからず、おれは眉を寄せた。
「べつに嫌とかはないよ」
「ふーん」
おれが口を開こうとするのを遮るように、純真は先に立って歩き出した。
「腹減んない? 服さっと見てからメシ行こ」
若干の違和感をおぼえながらも、おれは純真の背中を追った。ときどきこういうことがある。純真の態度にわずかな変化を感じるものの、その正体がなんなのか判別できない。ふつうの友人同士なら理解できるものなのだろうか。他人とコミュニケーションを取るのが苦手なおれのせいなのか、それとも……
「ほしいの、それ」
いきなり背後から声をかけられて、おれは驚いて振り返った。肩越しに純真がおれの手元を覗いている。
セレクトショップの店頭で展示販売されている1点もののオリジナルアクセサリー。黒い石が埋め込まれた革製のリングを手に取ったまま、おれはぼんやり突っ立っていた。とくに指輪に関心があったわけではない。純真が買いものをしている間の暇つぶしとして冷やかしているうちに考えごとに耽ってしまっただけだ。
「べつに……」
慌ててケースにもどしたが、純真がすぐにまたつまみ上げる。
「つけてみればいいじゃん」
「いや、でも……」
「アクセサリー苦手? つけてるとこ見たことないけど」
「苦手ってわけでは……」
純真のシャツの胸元で揺れるネックレスを見ながら、おれはいった。
「おれには似合わないし」
「そんなことないよ。つけてみ、ほら」
純真はおれの右手を取り、なかば強引に薬指に指輪を嵌めた。
「いいじゃん。今日の服にも合ってるし」
服とアクセサリーのコーディネートなど考えたこともなかった。おれには到底扱いきれないだろう凝ったデザインの指輪を眺め、指からはずして再びケースにもどした。
「やっぱいい」
純真の体の脇をすり抜けて、セレクトショップの店内に入る。
「どこ行くの」
「トイレ」
なんとなく落ち着かない気分で、おれは逃げるように店内のトイレに入った。避けるつもりはなかったが、純真の視線を受け止められなくなっていた。
変に思われていないだろうかと不安を抱きながら、洗面台の鏡を見つめる。セットもしていない黒髪に眼鏡をかけたいかにも野暮ったい男がそこにいた。アクセサリーなど、馬鹿にされるだけだ。これまでおしゃれに気を遣ってこなかったのに、センスのいい友人ができたからといって、突然ファッションリーダーになれるわけでもない。調子に乗らないことだ。
セレクトショップを出ると、純真が路上でだれかと話していた。知らない男だった。純真とおなじようにストリートカジュアルで身を固め、ブリーチした髪にキャップを被っている。
純真は交友関係が広く、映画館を出た後も、電話やLINEをいくつも返していた。キャップの男と楽しげに会話を交わす横顔はおれの知らない純真だった。
「あ、モモ」
おれの姿を見つけ、純真が手を挙げる。キャップの男が振り返る。おれの全身を素早く眺め、いった。
「純真の彼氏?」
「ちげーわ、馬鹿」
純真が友人の脛を軽く蹴る。かなり親しい間柄のようで、キャップの男は怒った様子も見せずに大仰な声を上げた。
「おれら行くから。じゃあな」
「おー、またな」
友人と別れ、並んで歩き出す。いつの間にか周囲は暗くなりはじめていた。
「よかったの」
「え?」
「友達」
「あー、全然。さっきそこで偶然会っただけだし」
ポケットに両手を突っ込んで、純真がおれのほうに目を向ける。
「なんで?」
「べつに……」
店を探すような素振りで視線をはずす。
「おれといるより楽しいんじゃないかなって思ったから」
「またそういうこという」
純真が苦笑いする。
「モモといるのが一番楽しいよ。いつもいってるじゃん」
羞恥に顔が熱くなる。自己憐憫は学生時代からの悪癖だが、こうして表に出すのは純真に対する甘えだと自覚していた。否定を期待しているからこそ、自虐的な言葉が口をついて出てしまう。そしてそのことを知ってか知らずか、純真は常に期待に応えた。
「なに食いたい?」
「なんでもいい」
「なんでもいいはだめだってば」
呆れたように笑って、純真がおれの背中に腕を回す。
「あ、そこは? スペインバルだって。うまそうじゃない?」
肉とチーズの香ばしい匂いに混じって、純真の香水の匂いが鼻腔を通り抜ける。密着した肩に純真の体温を感じて、おれはまた落ち着かなくなった。
「ここでいい? じゃ入ろうか」
おれが頷くのを確認して、純真はおれの背中を圧してバルの店内に入った。
「すみません。ふたりなんですけど、席あります?」
もともとの性格なのだろうが、純真は行動的で、判断も決断も早い。バイト先でも常にリーダーシップを取り、それでいて自己中心的ではないので、疎まれることはなかった。おれ自身も、優柔不断な性格ということもあって、リードしてもらえるのはありがたかった。
もし純真が彼氏だったら心地いいだろう。一瞬頭を過ぎった考えを慌てて打ち消す。さっきの男が不躾な質問をしてきたせいで、そんなことを想像してしまったのだろう。
それにしても……
席についてメニューを開く純真を見ながら、おれはなんとなく釈然としない思いだった。
おれのことが好きだなどといいながら、否定するのが随分早かった。映画館でもとくに意識していないようだったし、もう好意はなくなって、友人として割り切って付き合うようになったのかもしれない。おれにとっては好ましい状況のはずだったが、素直に喜べなかった。もしそうなら、あまりにあっさりしすぎている。そんなふうに簡単に他人に好きとか付き合ってほしいとかいえるものだとしたら、価値観に差がありすぎる。
「なに怒ってんの」
無意識に表情を強張らせていたようだ。純真が呆気にとられたようにメニューを置く。
「この店、嫌だった?」
首を振る。差し出されたメニューを受け取る。カタカナのメニュー名が並び、どういう食べものなのかほとんどわからない。
「どれにしようか」
「わかんないからなんでもいい」
「だからなんでもいいはだめっつってんのに」
純真は苦笑いしてテーブルに頬杖をつく。
「お互いに食べたいのふたつずつ頼もうか」
ドリンクのオーダーを取りにきた店員にひとまずビールとウーロン茶を頼んで、純真は前のめりになり、おれの手にあるメニューを覗き込む。
「おれ、そのマッシュルームのやつにしようかな。マッシュルームいける?」
「うん」
反射的に頷いてから、一拍措いて、首を窄める。
「ごめん。やっぱだめだった」
茸類独特の臭みが子どもの頃から苦手で食べられない。にも関わらず、即答できない自分の習慣が情けなかった。
「あ、苦手? じゃちがうやつにしよ」
純真は気にする素振りも見せず、またメニューを物色している。優柔不断な態度が他人を苛立たせると自覚しているから、安堵した。純真は常におれのペースに合わせてくれる。おかげでメニューを決めるのに10分近くかかってしまった。
「ごめん。時間かかっちゃって」
ようやくオーダーを済ませた頃には、純真のジョッキの表面についた霜が水になってテーブル上に溜まっていた。
「いいよいいよ。じっくり考えるの大事だし。おれなんか適当に頼んでいつも失敗しちゃうから」
純真がどう思っているのかはひとまず措くとして、彼のおおらかさにたすけられているのは確かだった。純真といると、自己嫌悪や自己憐憫で息ぐるしくなることもなく、ありのままの自分でいられた。
「これ、旨い」
数種類のタパスが盛り付けられた皿を示して、純真が促すように見てくる。
「どれ」
「この卵のやつ」
スペイン風のオムレツを箸で口に運ぶ。
「ほんとだ。おいしい」
「な。悩んだ甲斐あったよな」
純真がにっこり笑う。時間をかけて悩んだ挙句に定番の料理を選ぶ保守的な思考を恥ずかしく思っていた。純真の素直な笑顔はおれが感じていた引け目を打ち消した。
「生ハム食う?」
「うん」
純真が自分の皿からフォークでハムを掬い上げ、持ち上げた。目の前に差し出され、つい無意識に口を開けてしまった。純真のフォークから生ハムを食べて、咀嚼しながらかなり恥ずかしいことをしてしまったのではないかと気づいた。純真が作為的にしたこととは思えないが、おれにはどうも場の空気に流されてしまう癖まであるようだ。無意識に周囲に視線を配ったが、店内の客も店員もおれたちに注意を向けることはなく、ごく自然にそれぞれの食事や作業を続けている。他人の視線を気にしすぎるのは自意識過剰かもしれない。
向かいの席でビールのジョッキを傾けている純真も、とくに態度を変えることはない。緊張し、取り乱しているのはおれだけのようだ。
あのキャップの男のせいなのか、それとも映画館で手が触れてからか、その前に混雑した電車内で体が密着してからか、とにかく今日はいつもとすこしちがう。おれは気持ちを落ち着かせようと立て続けにウーロン茶を喉に入れた。
「お代わり、注文する? おれ頼むけど」
純真のジョッキも空になっていた。軽く手を挙げて店員に合図を送る。
「おなじのでいい?」
「うん。あ、いや……」
すこし躊躇ってから、いった。
「サワーとかにしようかな」
「酒飲むの?」
純真が驚いて挙げていた手を引っ込める。
「え、だめかな?」
「全然だめじゃないけど。珍しいから」
「たまにはいいかなーと思って」
純真の反応に戸惑いながら、ドリンクメニューに視線を落とす。
「モモと酒飲むのはじめてだからうれしいな」
純真は目に見えてはしゃいでいる。こちらが恥ずかしくなるほどだ。おれが酒を飲むことがそれほどうれしいのだろうか。むず痒いような気分で、店員が運んできたレモンサワーのグラスを受け取った。
アルコールを口にするのは数カ月ぶりで、あっという間に酔いが回った。おれは純真のくだらない冗談に身を捩って笑い転げ、純真に促されるままに自分の話をした。学生時代の苦い記憶や、他者とうまくコミュニケーションを取れないこと、好きな映画やアニメの話。純真はそのどれにも興味がないはずだったが、真剣に、楽しげに耳を傾けていた。
気づいたら終電の時間が近づいていた。会計を済ませ、店の外に出ると、池袋の街は酔客で賑わい、そこかしこで学生や会社員らしき団体が騒いでいる。
喧噪のなかを並んで駅に向かう。体が熱いのは、アルコールのせいもあるが、精神的な高揚も手伝っていた。だれかに自分の話をしたことはほとんどなかった。これまで裡にこめてきた思いを外に出した開放感と受け容れられた安堵感が、おれを興奮させていた。
「楽しかったな」
長身を大きく伸ばして、純真が弾んだ声を上げる。
「うん……」
「え、あんま楽しくなかった?」
「いや、ちがくて。むしろ楽しすぎたっていうか……」
紅潮した頬に手の甲をあてて冷やしながら歩く。
「ずっとおればっかしゃべってた気がして。変な話して、引かれてないか心配……」
「引くわけないじゃん」
純真が足を止めて、おれも立ち止まった。
「むしろおれは今日でもっと好きになったよ、モモのこと」
直接的な言葉にどきっとする。さっきまでの緊張が解けてリラックスしていただけに、純真の言葉がダイレクトに響いた。
「あのさ、モモ」
「なっ、なに」
声が上擦ってしまい、おれは羞恥にまた顔を熱くした。おれの狼狽には頓着せず、純真はポケットから小さな紙袋を取り出した。
「これ、さっき渡そうと思ったんだけど」
「なにこれ」
「開けて」
純真の緊張が伝わって、おれはよけいに戸惑った。紙袋を開けると、小さな袋が出てきた。なかには指輪が入っている。昼間立ち寄ったセレクトショップでおれが見ていたあのレザーの指輪だ。
「あげる」
「え、いいよ。こんな高そうなのもらえない」
「そんなびっくりするような値段じゃなかったから」
「だって、でも、おれ」
思いがけないことに、おれは慌てて舌を縺れさせた。
「たまたま見てたときにちょっと考えごとしてただけで、とくにこれが気に入ったわけじゃなかったし」
言葉を口の外に出したとたん、失敗したことに気づいた。純真の表情が一瞬曇る。鈍感なおれにも、相手を傷つけてしまったとわかった。たとえ事実であっても、わざわざ本人に伝えることはない。あくまでも好意のプレゼントなのだから。受け取らないにしても、他の断りかたができたはずだ。よけいな一言で他人を不快にさせる癖。最悪だった。いいわけをしたかったが、頭が混乱して言葉が出てこない。
「そうだったのか、ごめん。恥ずかしい勘違いしちゃったかも」
感情が表に出たのはほんの一瞬で、すぐに純真は照れ笑いを浮かべた。
「でも、おれがモモに似合うと思ってあげたものだから、受け取って。気に入らなかったら棄ててもいいし」
爽やかな笑顔でそういわれると、断りきれなくなってしまう。手のなかの指輪を見つめながら、おれは途方に暮れていた。
池袋のど真ん中で、おれたちは無言で向き合っている。賑やかな酔客たちが脇を通り過ぎて行く。平日の夜だ。ほとんどが駅に向かっている。終電の時間を考えれば、おれたちもひとの波に加わるべきだった。しかし、動けなかった。
「あの、純真……」
「モモ」
おれの頼りない声に、純真の真剣な声が被さった。
「モモはおれといて楽しい?」
「え、うん、楽しい」
もう失敗したくない、傷つけたくないという罪悪感と切迫感が、おれに即答させた。壊れた玩具のように何度も頷く。嘘ではなかった。
「おれのこと嫌いではないよね?」
重ねて尋ねられ、反射的に再び頷いた。
「じゃあさ、1か月だけでいいから、おれと付き合ってみない?」
想像もしていなかった申し出に、おれは硬直した。頭にはまだアルコールの重みが残っていて、純真の言葉をすぐに咀嚼できなかった。ただ、純真の真剣な表情を見つめていた。
「1か月間、恋人として付き合ってみて、それで、やっぱちがうなって思ったらまた友達にもどればいいからさ」
「そん……」
言葉が喉の奥で絡む。咳き込みながら、なんとか引っ張り出した。
「そんなことできないよ……」
「なんで」
「だってそんな……お試しみたいな」
「お試しでもいいじゃん」
「そんなの失礼だろ」
「おれに? おれは全然平気。お試ししてほしい」
純真が一歩踏み出しておれに近づく。咄嗟に後ずさりそうになるのを堪えた。あからさまに拒絶してまた純真の傷ついた顔を見るのが嫌だった。
「今日一日いっしょに過ごして思った。やっぱ、おれモモと友達は無理」
はっきり拒めずにいるおれに、純真が畳みかける。
「モモとちゃんと付き合いたい。友達じゃなくて」
友達でいられないという宣言は、思いがけないほど強烈におれの頭を揺らした。純真の存在が消え去るかもしれないという恐怖に、判断力が奪われ、烈しく動揺した。純真は生まれてはじめてできた友達で、すでにかけがえのない存在になっていた。
おなじ一日を共有したおれたちだったが、それぞれ感じていたのはまったく逆だったらしい。おれははじめて他人に心情を吐露し、弱みを曝け出して、すっかり純真に心をゆるしていた。それだけに、純真がおれをどう見ていたかを知り、困惑していた。ショックといってよかった。
「もどれるのかな……」
ようやく口にできたのはこの言葉だった。
「え?」
純真が緊張した面持ちで聞き返す。おれは純真の目をまっすぐ見返すことができずに俯いた。
「付き合ってみて、なんかちがうって思ったとして、そのあと、またこんなふうに友達にもどれるのかな」
「もどれるよ」
「だって、純真はおれと友達無理っていったじゃん……」
言葉にすると泣きそうになる。手のなかの指輪を握りしめ、おれは必死で冷静になろうとした。神経が張り詰め、今にも弾けて消えてしまいそうだった。おれの声が掠れるのを聞いて、純真は狼狽した。
「いったけど……でも、1か月試してそれで嫌っていわれたら、諦めつくから。もし振られたら、そのあとはもうこんなこと絶対いわない。約束する。」
純真も必死なようだった。ビールとワインで朱みのさした顔で真剣に口説いてくる。
「だからさ、頼むよ。モモ。うんっていって」
ずるい、と思った。こんなふうに感情を乱され、贈りものを受け取って、友人関係を人質に取られて、決定権が与えられているようで、実は選択肢がない。
「……わかった」
最終的に、おれは首を縦に振ってしまった。純真の瞳が輝く。
「ほんと?」
「うん……」
おれの返事を聞いて、純真は文字どおり飛び上がった。何度もジャンプしながら拳を振り上げた。
「よしっ、よしよし、やった、よっしゃ!」
純真がサッカー部だったことを思い出した。まるでゴールを決めたかのようだと思い、うっかり笑ってしまった。その反応を見て、純真はさらに相好を崩した。おれの名前を叫びながら体をぶつけてくる。おれはゴールをアシストした選手のように純真に持ち上げられ、振り回された。
「ちょっ……やめろよ、馬鹿!」
それまではおれたちの恥ずかしいやりとりをだれも気にとめず素通りしていたが、さすがに通りすがるひとが怪訝な視線を向けてきた。おれは顔を真っ赤にして純真の体を圧しもどした。
「ごめん。うれしすぎて……」
ようやく地上に降ろされたが、またすぐに力いっぱい抱き竦められる。純真の香水の匂いとアルコールの匂いが鼻腔を通り抜け、体に充満するようだった。
「ありがと、モモ」
おれの顔を両掌で包み、至近距離で見つめながら、純真は興奮した面持ちでいった。
「モモに好きになってもらえるように、おれめっちゃ頑張るから」
なんとも答えられず、おれは黙って頷いた。眼鏡のずれを指でなおす。純真のことを自分勝手だとは思ったが、それでも、嫌悪感はなかった。むしろ、純真をここまで歓喜させているのが他ならぬ自分だと思うと、擽ったいような誇らしいような気分になった。それが純真の持つ性質からなのか、それとも純真に対するおれの気持ちのせいなのか、わからなかった。



