シャワーを浴び、体のなかの液体を掻き出した。大量だった。脚をつたってタイルに流れ、渦を巻いて排水溝に落ちていく白濁を見下ろした。
服を着てリビングにもどると、下着だけを履いた純真が床に座っていた。ベッドは体液と汗が沁みこんで惨憺たる状態だった。
「ドライヤーつかう?」
「んー、いいや。店もどんないとだし」
「風邪ひくよ」
「だいじょうぶ……」
最後までいい終わらないうちに、くしゃみが出た。
「ほら」
純真が笑って腰を上げる。クローゼットを開け、ニットシャツをつかんで差し出した。見覚えのある色。4年前におれが忘れていったものだ。返すから住所をといわれたが、送らずにそのままになっていた。
「まだ持ってたんだ」
「なんとなく」
さりげない口調だったが、4年も前の忘れものを一瞬で探しあて、迷いもせずに取り出すことなどできるものだろうか。ふつうならクローゼットの奥にしまいこんだまま記憶から消されているのではないか。手のなかのシャツはきちんと洗濯され、埃ひとつ付着していなかった。
「なあ、モモ、さっきの……」
「延長料金」
純真の言葉を遮るように、事務的な口調でいった。
「追加になっちゃうけどいいよね?」
ニットシャツを頭から被り、純真から視線を逸らす。
「ああ、うん……」
「バーコード決済もできるけど現金にする?」
「うん」
純真がおれの脇を通り過ぎ、バッグのなかに入っていた財布を取り出す。何枚かの札を抜き、おれに渡した。受け渡しの一瞬、指が触れあった。
「ありがとう」
「うん」
会話が途切れ、ぎこちない空気が漂った。互いにいいたいことというべきことをわかっていながら、口にしなかった。
「じゃあ……」
「うん」
リュックを背負い、靴を履いてドアの鍵を開ける。
「モモ」
「ん」
腕を引かれ、振り向かされて、ごく自然に唇が重なる。深くなる直前に体を離す。
「おやすみ」
「うん……」
外に出て、ドアを閉め、階段を降りる。マンションのエントランスを抜けると、深夜の冷たい風に頬を叩かれた。雑に拭っただけの髪が冷えて額を刺す。
立ち止まり、振り返って、マンションの外壁を眺める。つい数十分前まで動物のように貪りあっていたのが嘘のような静けさ。純真の3年間はどんなだったのだろう。
踵を返し、駅に向かって歩きはじめる。終電がちかい。おしゃれなカフェはとっくに閉店してシャッターが閉まっていた。駅が見えてきたところで、声が聞こえた。
「モモ!」
振り向くと、素肌にパーカーを着てデニムを履いた純真が立っていた。乱れた髪で、息も乱れている。走ってきたらしく、スニーカーを踵で踏んでいる。
「なに? おれ、また忘れものした?」
驚いて尋ねると、ぎこちなく視線を泳がせる。
「いや……」
大きな体を折り曲げ、息をついて、いった。
「コーヒー飲みたくない?」
「え?」
人通りのほぼない深夜の住宅街で、おれたちは数メートルの距離を置いて向きあっていた。
「今?」
「今」
純真の声と表情には緊張が滲んでいた。冷たい夜風が、池袋のバルの前で付きあってほしいと請われたときの記憶を甦らせた。
「えっと……どうかな。もう遅いし……店にもどらないとだし」
躊躇いながらもいった。純真の頬が紅潮する。
「あ……そうだよな。ごめん」
沈黙。電車が通りすがる音が風の音に混じって響く。
声が出ない。どちらも黙って突っ立っていた。一歩前に進むことが、一言声を発することができない。
おそらく、純真もおなじ気持ちでいる。共通の恐怖。ふたりとも、過去に筆舌に尽くしがたい苦痛のどん底を味わった。それも互いが原因で。もうこれ以上一歩も動けないというほどに痛めつけられ、惨めさの極地で悶えた記憶が脳裏にこびりついて離れない。
ポケットのなかに手を入れた。革の感触が指先に感じられた。
いつも持ち歩いているわけではない。新規の予約客の住所と名前を見て、一度自宅にもどり、ケースにしまいこんでいたのを取り出してポケットに入れた。
子どもの頃から、空気を読んだり他人の気持ちを推し量ったりということが苦手だった。場を乱し、馬鹿にされ邪険にされることを恐れるうちに、本音を話すことができなくなった。そのくせ、頭に浮かんだことを無配慮にそのまま口に出してしまう。
「コーヒーは、今は飲みたくない」
「……は?」
突然、口をついて出た言葉の意味を、おれ自身もはっきりわかっていなかった。純真が当惑の表情を浮かべ、おれは慌てた。
「だから……コーヒーの気分じゃない」
純真は反応に困っているようだった。いつものぎこちない空気。体だけをつかってコミュニケーションを取っているときにはこんなふうにはならない。泣きそうだ。
気持ちを奮い立たせるように、ポケットのなかのリングを握りしめた。
「お酒飲みたい」
「……え?」
唇を噛んで、純真を見つめた。どうしてこんなに難しいのだろう。本当に、嫌になる。
「どこかお酒飲めるとこに行きたい。純真……」
喉が渇いて、鼻先が痛んだ。寒さのせいかもしれない。
「純真とふたりで」
わずかな間のあと、純真が体をぶつけてきた。猛烈な力で抱きしめられた。
「モモ……」
頬に濡れた感触。驚いた。純真は泣いていた。おれを抱きしめて、おれの肩に顔を圧しつけて、嗚咽を漏らしている。
うまく伝わったかどうかわからない。たぶん、また失敗しただろう。でも、これでいいと思った。何度も失敗して、何度も地獄を経験して、それでも純真といたかった。
ポケットから手を抜き、純真の背中に両腕を回した。
そのとき、おれが感じていたのは安堵だった。生まれてはじめて、心から安心できた。
おれを好きだといってくれる純真の気持ちを疑ったことはない。しかし、この先も未来永劫愛し続けるという言葉は信じられなかった。今はちがう。
おれははじめて心から望むものを手に入れた。それが歪なものであっても、ほかのだれかを傷つけることになったとしても、構わない。
「ごめん。おれ、すげえダサ……」
「そんなことないよ」
細かく震える背中を擦る。
純真はおれに嘘をついたが、おれも純真にひとつだけ嘘をついている。
今日がはじめてではなかった。客には一度もゆるしたことはなかったが、ジュンと何度か、自分の部屋でした。
特別な感情があったわけではない。でも必要な行為だった。生きるためにした。説明したところで、だれにも理解されないだろうが。
隠すつもりはなかったが、純真の喜びようを見ていると、打ち明けられなかった。結果的に、決定的な一撃になった。
自ら突き放し、徹底的に拒絶し、ぼろぼろにした相手が目の前にあらわれたときの衝撃をおれは知っている。もし手に入れたら、たとえ嘘をつかれても裏切られても、二度と絶対に手放すことなどできないということも。
おれたちはおなじ経験をした。そんなふたりがどこに存在するだろうか。
純真の体を抱き、電車の車輪が線路を通りすがる摩擦音に耳を傾けながら、おれはこのうえない安らぎを感じていた。
おれはようやく純真を手に入れた。
おれはようやく心から安心した。
おわり。
服を着てリビングにもどると、下着だけを履いた純真が床に座っていた。ベッドは体液と汗が沁みこんで惨憺たる状態だった。
「ドライヤーつかう?」
「んー、いいや。店もどんないとだし」
「風邪ひくよ」
「だいじょうぶ……」
最後までいい終わらないうちに、くしゃみが出た。
「ほら」
純真が笑って腰を上げる。クローゼットを開け、ニットシャツをつかんで差し出した。見覚えのある色。4年前におれが忘れていったものだ。返すから住所をといわれたが、送らずにそのままになっていた。
「まだ持ってたんだ」
「なんとなく」
さりげない口調だったが、4年も前の忘れものを一瞬で探しあて、迷いもせずに取り出すことなどできるものだろうか。ふつうならクローゼットの奥にしまいこんだまま記憶から消されているのではないか。手のなかのシャツはきちんと洗濯され、埃ひとつ付着していなかった。
「なあ、モモ、さっきの……」
「延長料金」
純真の言葉を遮るように、事務的な口調でいった。
「追加になっちゃうけどいいよね?」
ニットシャツを頭から被り、純真から視線を逸らす。
「ああ、うん……」
「バーコード決済もできるけど現金にする?」
「うん」
純真がおれの脇を通り過ぎ、バッグのなかに入っていた財布を取り出す。何枚かの札を抜き、おれに渡した。受け渡しの一瞬、指が触れあった。
「ありがとう」
「うん」
会話が途切れ、ぎこちない空気が漂った。互いにいいたいことというべきことをわかっていながら、口にしなかった。
「じゃあ……」
「うん」
リュックを背負い、靴を履いてドアの鍵を開ける。
「モモ」
「ん」
腕を引かれ、振り向かされて、ごく自然に唇が重なる。深くなる直前に体を離す。
「おやすみ」
「うん……」
外に出て、ドアを閉め、階段を降りる。マンションのエントランスを抜けると、深夜の冷たい風に頬を叩かれた。雑に拭っただけの髪が冷えて額を刺す。
立ち止まり、振り返って、マンションの外壁を眺める。つい数十分前まで動物のように貪りあっていたのが嘘のような静けさ。純真の3年間はどんなだったのだろう。
踵を返し、駅に向かって歩きはじめる。終電がちかい。おしゃれなカフェはとっくに閉店してシャッターが閉まっていた。駅が見えてきたところで、声が聞こえた。
「モモ!」
振り向くと、素肌にパーカーを着てデニムを履いた純真が立っていた。乱れた髪で、息も乱れている。走ってきたらしく、スニーカーを踵で踏んでいる。
「なに? おれ、また忘れものした?」
驚いて尋ねると、ぎこちなく視線を泳がせる。
「いや……」
大きな体を折り曲げ、息をついて、いった。
「コーヒー飲みたくない?」
「え?」
人通りのほぼない深夜の住宅街で、おれたちは数メートルの距離を置いて向きあっていた。
「今?」
「今」
純真の声と表情には緊張が滲んでいた。冷たい夜風が、池袋のバルの前で付きあってほしいと請われたときの記憶を甦らせた。
「えっと……どうかな。もう遅いし……店にもどらないとだし」
躊躇いながらもいった。純真の頬が紅潮する。
「あ……そうだよな。ごめん」
沈黙。電車が通りすがる音が風の音に混じって響く。
声が出ない。どちらも黙って突っ立っていた。一歩前に進むことが、一言声を発することができない。
おそらく、純真もおなじ気持ちでいる。共通の恐怖。ふたりとも、過去に筆舌に尽くしがたい苦痛のどん底を味わった。それも互いが原因で。もうこれ以上一歩も動けないというほどに痛めつけられ、惨めさの極地で悶えた記憶が脳裏にこびりついて離れない。
ポケットのなかに手を入れた。革の感触が指先に感じられた。
いつも持ち歩いているわけではない。新規の予約客の住所と名前を見て、一度自宅にもどり、ケースにしまいこんでいたのを取り出してポケットに入れた。
子どもの頃から、空気を読んだり他人の気持ちを推し量ったりということが苦手だった。場を乱し、馬鹿にされ邪険にされることを恐れるうちに、本音を話すことができなくなった。そのくせ、頭に浮かんだことを無配慮にそのまま口に出してしまう。
「コーヒーは、今は飲みたくない」
「……は?」
突然、口をついて出た言葉の意味を、おれ自身もはっきりわかっていなかった。純真が当惑の表情を浮かべ、おれは慌てた。
「だから……コーヒーの気分じゃない」
純真は反応に困っているようだった。いつものぎこちない空気。体だけをつかってコミュニケーションを取っているときにはこんなふうにはならない。泣きそうだ。
気持ちを奮い立たせるように、ポケットのなかのリングを握りしめた。
「お酒飲みたい」
「……え?」
唇を噛んで、純真を見つめた。どうしてこんなに難しいのだろう。本当に、嫌になる。
「どこかお酒飲めるとこに行きたい。純真……」
喉が渇いて、鼻先が痛んだ。寒さのせいかもしれない。
「純真とふたりで」
わずかな間のあと、純真が体をぶつけてきた。猛烈な力で抱きしめられた。
「モモ……」
頬に濡れた感触。驚いた。純真は泣いていた。おれを抱きしめて、おれの肩に顔を圧しつけて、嗚咽を漏らしている。
うまく伝わったかどうかわからない。たぶん、また失敗しただろう。でも、これでいいと思った。何度も失敗して、何度も地獄を経験して、それでも純真といたかった。
ポケットから手を抜き、純真の背中に両腕を回した。
そのとき、おれが感じていたのは安堵だった。生まれてはじめて、心から安心できた。
おれを好きだといってくれる純真の気持ちを疑ったことはない。しかし、この先も未来永劫愛し続けるという言葉は信じられなかった。今はちがう。
おれははじめて心から望むものを手に入れた。それが歪なものであっても、ほかのだれかを傷つけることになったとしても、構わない。
「ごめん。おれ、すげえダサ……」
「そんなことないよ」
細かく震える背中を擦る。
純真はおれに嘘をついたが、おれも純真にひとつだけ嘘をついている。
今日がはじめてではなかった。客には一度もゆるしたことはなかったが、ジュンと何度か、自分の部屋でした。
特別な感情があったわけではない。でも必要な行為だった。生きるためにした。説明したところで、だれにも理解されないだろうが。
隠すつもりはなかったが、純真の喜びようを見ていると、打ち明けられなかった。結果的に、決定的な一撃になった。
自ら突き放し、徹底的に拒絶し、ぼろぼろにした相手が目の前にあらわれたときの衝撃をおれは知っている。もし手に入れたら、たとえ嘘をつかれても裏切られても、二度と絶対に手放すことなどできないということも。
おれたちはおなじ経験をした。そんなふたりがどこに存在するだろうか。
純真の体を抱き、電車の車輪が線路を通りすがる摩擦音に耳を傾けながら、おれはこのうえない安らぎを感じていた。
おれはようやく純真を手に入れた。
おれはようやく心から安心した。
おわり。



