Momo Said

 インタホンの音で目が覚めた。幻聴かと思ったが、確かに鳴っている。だれかが訪ねてきたのだ。
 学校やバイト先の関係者ということはないだろう。両親か弟かもしれない。居留守を決めこむつもりで息を潜めていると、ドアが叩かれた。古いマンションだ。オートロックではなく、階段を上がってドアの前までこられる。
「あのー、すいませーん」
 間延びした声。知らない男の声だった。おなじマンションの住民かもしれない。都会のひとり暮らしで、隣人の顔や名前は知らなかった。
「エルポーションからきたジュンですけど」
 聞き覚えのない名。しかし、「ジュン」という響きにおれは反応した。
「もしもーし」
 電話と勘違いしているのか、ドアの外で男が間の抜けた声を出す。
「留守ですかー?」
 本当に不在なら答えるわけがないのに、しつこく確認する。おれは床の上で膝を抱えた。今何時なのか。床で寝ていたせいで体が痛い。アルコールの影響か頭も痛むし吐き気もする。なんの用か知らないが、だれかと話す気にはなれなかった。
「いないなら帰りますよー」
 ドアに顔を近づけているのか、声が近くなる。おれは目を閉じ、耳を塞いで、訪問者を凌ごうとした。
「……なんだよ、悪戯かよ」
 溜息混じりの声が遠ざかる。
 そのとき、なぜ動けたのかわからない。鉛でも飲み込んだように重く床に寝そべっていた体を起こし、ドアに走った。まったく無意識の行動だった。ビールの空き缶を蹴飛ばし、ゴミが入った袋を踏みつけながら、おれはドアにたどり着き、外に出た。
 裸足のまま廊下に出る。男が階段を下りるところだった。物音に気づいて振り返る。
 知らない男のはずだったが、見覚えがある気がした。眼鏡がないから確実ではないが、さっきスマホでたまたま見つけたいかがわしい店の男だ。金髪ではなく黒髪だったが、間違いない。
「あ、よかった。いたんだ」
 無邪気に笑って、男が歩み寄ってくる。やはりあの男だった。なぜここにいるのか。思わず警戒して身を竦めた。
「こんばんは。ジュンです」
 笑顔がさわやかだった。Ⅴネックのシャツを着て、日に焼けた胸元にシルバーのネックレスが光っている。
「あの……」
「入ってもいいですか?」
 ジュンという男は首を伸ばしておれの肩ごしに部屋のなかを覗き見た。
「え、いや……」
「あれ? おれ指名ですよね? 間違えた?」
 戸惑っているおれを見て、男は眉を顰めた。ジャケットのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。
「あの……ひとちがいじゃないですか」
 かろうじて口を動かした。ここ数日言葉を発していない。唇が渇き、喉に唾液が溜まって舌が粘ついた。
「え? 百瀬さんですよね?」
「そうですけど……」
「じゃ合ってますよ。住所も……」
「間違いです」
「いや、合ってますって。ほら」
 ドアを閉めようとするおれの目の前にスマホを差し出された。ディスプレイにはメールの受信画面。おれの名前と住所、携帯番号が入力されている。受信した時間は3時間前だった。
「間違いですよ。そんなの送ってないです」
「おかしいな……ちょっと確認してみてもらえますか」
 そういわれて、おれは躊躇しながらも部屋にもどった。スマホは冷蔵庫の前の床に転がっていた。バッテリが切れている。充電器を差し込み、電源を入れた。何度か着信が入っている。どれもおなじ番号だった。おそらく、さっきの男がかけたのだろう。
 そこでふと気づき、振り返った。いつの間にか男が部屋に入っていて、ぎくりとしたが、ドアは開けたままで、靴を履いたまま突っ立っている。
 部屋のドアを開けたまま、見知らぬ相手に背中を向けてしまうとは、無警戒にもほどがある。男のほうに神経を向けながら、おれはスマホを操作した。
 ブラウザの履歴をチェックして、ため息をついた。男のいうとおり、SNSのリンクから店のサイトを開き、専用のフォームから予約メールを送った形跡があった。最悪なことに、泥酔して前後不覚の状態でデリヘルを呼んでしまったらしい。
「やっぱ間違ってました?」
 部屋の入口で男が声を出し、思わず悲鳴のような声が漏れた。さっきまではまだ夢のなかにいるように頭がぼんやりとしていたのに、急に現実感が甦った。
「はい。いや、あの、間違いではなかったんですけど……」
 男は立ったままにこにこ微笑んでいる。惨憺たる状態の室内を見ても不快な態度は見せず、よく躾けられた犬のように背中で手を組んで待っている。写真を見たときは純真に似ていると思ったが、実物はまったく似ていない。ただ、包みこむようなやさしい目は共通していた。
 その目を見返すことができず、おれは顔をそむけた。何日もシャワーを浴びていないせいで、白く細かい頭垢が新雪のように舞った。
「あの……ごめんなさい。実は、その……」
 警戒心よりも罪悪感のほうが上回った。酔って記憶がないまましたこととはいえ、冷やかしや悪戯のように思われてもしかたない。いいわけをしたかったが、適当な理由が思いつかず、正直に話すことにした。
「あの……」
「酔っぱらって、勢いで呼んじゃいました?」
 おれが口を開くよりも先に、男がいった。口調に怒気はなかった。
「たまにあるんですよ。気にしないでください」
「あの……ほんとにすみません。キャンセル料、払います……」
「そうですね。ここまでの交通費もあるので、さすがに料金は発生しちゃいますけど……」
「はい、あの、いくらですか」
 ものが散乱した部屋でどうにか財布を見つけ、中身をさぐりながら足を踏み出した。焦って札を取り出そうとしたのがよくなかった。指の隙間から財布が滑り落ち、小銭が床に散らばった。
「あ……」
 顔が熱くなる。おれはいったいなにをしているのだろう。妙な話だが、床を回転する小銭を見下ろして、はじめて汚れた部屋や汚れた体を意識した。
「すみません……」
 なにに対して謝っているのかわからなかった。金を落としてしまったことか、ひどい有様の部屋を見せて驚かせたことか、酔いに任せ指名して落胆させてしまったことか。とにかく何度も謝りながらおれは膝をついた。床に這いつくばって小銭を集めていると、もう感じないと思っていた惨めさが音を立てて襲ってきた。
 小銭を拾っていると、視界が暗くなった。顔を上げると、男が身を屈め、おれを見つめていた。穏やかなやさしい眼差しだった。至近距離で向き合い、どきっとした。
「手伝うよ」
「いえ、いいです。自分で……」
 体から悪臭を漂わせていることは自認していた。気づいていないはずはなかったが、男は顔色ひとつ変えずに微笑んだ。
 男は床に膝をつき、小銭を1枚1枚ていねいに拾い集めた。
「これ、落ちてた」
 男が手を差し出した。大きな掌に小銭が数枚と、数時間前に落とした指輪が載っていた。
「大事なものなんじゃないの」
 10円玉の模様が突然揺れて識別不能になった。視界が乱れた理由はすぐにわかった。目を見開いたまま、おれは泣いていた。涙が溢れ、止められなくなった。
 俯いて視線を落としていたが、額の辺りに男の視線を感じた。その部分から熱いものが血のように全身を駆け巡るようだった。
「すみません……」
 そういったつもりだったが、ほとんど言葉になっていなかった。泣きじゃくるおれの頭を男の掌が撫でた。あたたかい手だった。
「だいじょうぶだよ」
 囁くような声が引き金を引いた。おれは声を上げて泣いた。小さな子どものように体裁もなにも気にすることなく、初対面の男に縋りついて、全力で泣き叫んだ。
「だいじょうぶ」
 男は静かにいって、おれの汚れて乾燥した髪を撫でた。なにも聞かず、なにもいわずに、号泣するおれを抱きとめていた。
 初対面の男の前だとか、部屋の外に声が漏れるだとか、そんなことに構っている余裕はなかった。おれは床にうずくまり、男の服をつかんで、声を限りに泣いた。まだこんな体力が残っていたとは思わなかった。すべてを絞りつくそうとするかのように、泣き続けた。