目を覚ました。ひどい頭痛に顔をしかめる。周囲には悪臭が漂い、どんよりと濁った空気が部屋中に充満している。
一瞬、あのときにもどったのかと思った。純真の連絡先を削除し、なにもかも棄ててしまった日。
毛布から腕だけを出し、ベッドの隅に追いやられていたスマホを手探りで見つけ、たぐり寄せる。ディスプレイに表示された日付を確認して、現実に引きもどされた。
とはいっても、おなじようなものだ。あのときとおなじように、おれは学校をさぼり、バイトをさぼって、自室に籠もっていた。バイトはまた無断欠勤のまま退職になるだろう。退職というよりは馘首といったほうがいいかもしれない。ゼミの担当教授やバイト先の同僚、上司から無数の着信やLINEが届いていたが、すべて無視していた。親の悲嘆に暮れた顔や弟の侮蔑に満ちた眼差しを想像すると胸が痛むし、振り込まれていない給料が未払いのままになれば来月の家賃を賄いきれないかもしれない。それでも、だれかと話す気にはなれなかった。
胃が締めつけられるように痛んだ。空腹のせいか、何度も嘔吐したせいか、それとも精神的苦痛のせいなのか、いずれにしろ、体調は最悪だった。アルコールのせいもあるだろう。神経を麻痺させるためにたいしてつよくもない酒を煽っては吐く醜悪なループ。何日もつづいている。
このまま死んでしまえたら。靄がかかった頭で考える。世のなかに自分よりも不幸な人間が数え切れないほどいるということはわかっている。自ら終わらせるほどの勇気を持ち合わせていないことも。しかし、明日も来週も来年も10年後もずっと孤独に生きることに意味はあるのだろうか。
スマホのバッテリーが1桁になっていた。ほとんど触っていなくても、受信するだけでそれなりのバッテリーを消費するようだ。
麻布十番で純真と別れてから数日がたっていた。当然ながら、純真からの連絡はない。おれからもコンタクトを取ろうとはしなかった。前とおなじだ。ちがっていたのは、LINEのアカウントを消さなかったこと。理由は自分でもわからない。この期に及んでまだ連絡がくることをどこかで期待しているのだろうか。だとすれば笑える。
惨めだとは思わなかった。深夜の繁華街の路上で、この世のすべての惨めさをすべて経験したかのようで、今はもうなにも感じない。痛みも虚しさもなにも。
いや、まったくの無ではない。唯一残されている感情があった。
LINEを開き、ずっと前に純真から送られてきたスタンプを見つめる。大きな桃を被った大きな瞳の少年のイラスト。
ベッドの脇のケースを開け、純真にもらった指輪を取り出した。埋め込まれた黒い石が記憶のスイッチであるかのように、純真の笑顔、声、匂いを呼び起こす。今さらどうにもならない。すべては終わってしまった。
絶望という言葉の意味をはじめて知った。どこにもいけず、かといって消すこともできない思いを抱いたまま、この先生きていける自信がない。夜の繁華街で再会した偶然を呪った。せめて1年前に約束を反故にした罪悪感だけを抱えて生きるほうが数倍ましだった。
指輪を嵌めようとして、手を滑らせた。指の隙間をすり抜けて床に落ち、転がった。革製だから音はしない。舌打ちを堪え、身を屈めて探すが、小さな指輪を見つけることは難しい。レンズが粉々に砕けた眼鏡は麻布十番の路上に棄ててきてしまった。裸眼では部屋の壁にかけたカレンダーの文字さえ読み取れない。加えて、いつの間にか日が暮れたようで、部屋が薄暗くなっていた。今、いったい何時なのだろう。
手探りでスマホを探しあてた。ライトをつけ、小さな光を頼りに指輪を探すが、見つからない。テーブルの下に手を伸ばした。脚が縺れ、ベッドから転げ落ちた。テーブルの端に肘を強打し、思わず声が出た。痺れるような痛みが腕に拡がる。病院に行くほどではないが、わずかに皮膚が裂け、内出血を起こしている。しばらくは痕が残るだろう。
汚れた服に伸びた髭。何日も風呂に入っていないため体は汗が乾いて汚れ、爪の先には垢が溜まっている。だれかがこの姿を見たら、きっと顔をしかめるだろう。
床に転がったまま、仰向けになって天井を見上げる。頭が、胃が、腕が痛い。全身が痛くて、もうどこが傷んでいるのかわからなくなってきた。
このまま死んだら、だれかに見つけてもらえるだろうか。両親か弟が心配して訪ねてくるかもしれない。数日後か、1週間後か。そのとき、おれはどういう状態になっているだろう。
馬鹿げた夢想。死ぬ勇気など持ってもいないくせに。
無意識に指がスマホを弄っていた。酒と食べものを買うため、ネットスーパーのアプリをひらこうとして、隣のアイコンに目が止まった。純真のアカウントを見るために残していたSNS。
純真のアカウントは非公開になっていて見ることができなかった。気まぐれにスクロールしてみたが、見も知らないだれかの夕餉の写真やテレビドラマの広告、芸能人の不倫の噂話、小動物の愛くるしい動画がベルトコンベアに乗った卵のように次から次へと流れてくるだけだった。どの投稿にも現実感がない。どこかべつの世界で起きていることのようだ。
見なければ良かった。アプリを閉じようとして、ふと、スクロールする指を止めた。
画面のなかに純真がいた。いや、純真だと思ったが、よく見ると別人だった。金髪で、骨格がすこし似ている気もするが、顔かたちはまるでちがう。
金髪の男は藍色のタンクトップにチェックのシャツを羽織り、こちらを向いて笑っている。写真には短いテキストが添えられていた。その内容に釘付けになった。
今日出勤してまーす。エロく責められたい猫ちゃんはお店のアカウントにDMして!
ホストかなにかをやっているのだろう。「Lpotion」とあるタグは店の名前かもしれない。クリックすると、派手な紫色のロゴが表示された。どうやらホストクラブではないらしい。男性向けに男性が性的なサービスを施すデリヘルのような店らしかった。どう見ても非合法だが、堂々とメニューやオプションを投稿して宣伝している。
純真との関係に悩んだとき、ゲイコミュニティやLGBT関連のページを検索したことがある。検索履歴をシステムが検知してアカウントを表示させたのかもしれない。
猫ちゃんとは。笑える。
片手でスマホを操作しながら立ち上がり、重い体を動かして冷蔵庫を空けた。ストロング缶が1本だけ残っていた。プルタブを開け、喉に流し込む。アルコールが胃に沁み渡り、頭の奥が鈍く痺れる。
そのまま冷蔵庫に凭れてしゃがみこんだ。スマホと缶を両手に持って、壁を眺めた。脚を伸ばすと爪先が生ゴミの袋にあたる。何日も前から放置しているため、臭気がきつくなっていた。
死ぬことばかりを考えているが、この状態では生きているのも死んでいるのもほぼ変わらない。ストロングを一気に半分ほど飲むと、麻酔を打たれたかのように神経が鈍った。唯一、痛みを忘れられる瞬間だ。
缶が空になる頃には完全に酩酊状態になっていた。床の冷たさや硬さも感じない。二度と目が覚めないよう祈りながら、おれは冷蔵庫に後頭部を擦りつけ、目を閉じた。
一瞬、あのときにもどったのかと思った。純真の連絡先を削除し、なにもかも棄ててしまった日。
毛布から腕だけを出し、ベッドの隅に追いやられていたスマホを手探りで見つけ、たぐり寄せる。ディスプレイに表示された日付を確認して、現実に引きもどされた。
とはいっても、おなじようなものだ。あのときとおなじように、おれは学校をさぼり、バイトをさぼって、自室に籠もっていた。バイトはまた無断欠勤のまま退職になるだろう。退職というよりは馘首といったほうがいいかもしれない。ゼミの担当教授やバイト先の同僚、上司から無数の着信やLINEが届いていたが、すべて無視していた。親の悲嘆に暮れた顔や弟の侮蔑に満ちた眼差しを想像すると胸が痛むし、振り込まれていない給料が未払いのままになれば来月の家賃を賄いきれないかもしれない。それでも、だれかと話す気にはなれなかった。
胃が締めつけられるように痛んだ。空腹のせいか、何度も嘔吐したせいか、それとも精神的苦痛のせいなのか、いずれにしろ、体調は最悪だった。アルコールのせいもあるだろう。神経を麻痺させるためにたいしてつよくもない酒を煽っては吐く醜悪なループ。何日もつづいている。
このまま死んでしまえたら。靄がかかった頭で考える。世のなかに自分よりも不幸な人間が数え切れないほどいるということはわかっている。自ら終わらせるほどの勇気を持ち合わせていないことも。しかし、明日も来週も来年も10年後もずっと孤独に生きることに意味はあるのだろうか。
スマホのバッテリーが1桁になっていた。ほとんど触っていなくても、受信するだけでそれなりのバッテリーを消費するようだ。
麻布十番で純真と別れてから数日がたっていた。当然ながら、純真からの連絡はない。おれからもコンタクトを取ろうとはしなかった。前とおなじだ。ちがっていたのは、LINEのアカウントを消さなかったこと。理由は自分でもわからない。この期に及んでまだ連絡がくることをどこかで期待しているのだろうか。だとすれば笑える。
惨めだとは思わなかった。深夜の繁華街の路上で、この世のすべての惨めさをすべて経験したかのようで、今はもうなにも感じない。痛みも虚しさもなにも。
いや、まったくの無ではない。唯一残されている感情があった。
LINEを開き、ずっと前に純真から送られてきたスタンプを見つめる。大きな桃を被った大きな瞳の少年のイラスト。
ベッドの脇のケースを開け、純真にもらった指輪を取り出した。埋め込まれた黒い石が記憶のスイッチであるかのように、純真の笑顔、声、匂いを呼び起こす。今さらどうにもならない。すべては終わってしまった。
絶望という言葉の意味をはじめて知った。どこにもいけず、かといって消すこともできない思いを抱いたまま、この先生きていける自信がない。夜の繁華街で再会した偶然を呪った。せめて1年前に約束を反故にした罪悪感だけを抱えて生きるほうが数倍ましだった。
指輪を嵌めようとして、手を滑らせた。指の隙間をすり抜けて床に落ち、転がった。革製だから音はしない。舌打ちを堪え、身を屈めて探すが、小さな指輪を見つけることは難しい。レンズが粉々に砕けた眼鏡は麻布十番の路上に棄ててきてしまった。裸眼では部屋の壁にかけたカレンダーの文字さえ読み取れない。加えて、いつの間にか日が暮れたようで、部屋が薄暗くなっていた。今、いったい何時なのだろう。
手探りでスマホを探しあてた。ライトをつけ、小さな光を頼りに指輪を探すが、見つからない。テーブルの下に手を伸ばした。脚が縺れ、ベッドから転げ落ちた。テーブルの端に肘を強打し、思わず声が出た。痺れるような痛みが腕に拡がる。病院に行くほどではないが、わずかに皮膚が裂け、内出血を起こしている。しばらくは痕が残るだろう。
汚れた服に伸びた髭。何日も風呂に入っていないため体は汗が乾いて汚れ、爪の先には垢が溜まっている。だれかがこの姿を見たら、きっと顔をしかめるだろう。
床に転がったまま、仰向けになって天井を見上げる。頭が、胃が、腕が痛い。全身が痛くて、もうどこが傷んでいるのかわからなくなってきた。
このまま死んだら、だれかに見つけてもらえるだろうか。両親か弟が心配して訪ねてくるかもしれない。数日後か、1週間後か。そのとき、おれはどういう状態になっているだろう。
馬鹿げた夢想。死ぬ勇気など持ってもいないくせに。
無意識に指がスマホを弄っていた。酒と食べものを買うため、ネットスーパーのアプリをひらこうとして、隣のアイコンに目が止まった。純真のアカウントを見るために残していたSNS。
純真のアカウントは非公開になっていて見ることができなかった。気まぐれにスクロールしてみたが、見も知らないだれかの夕餉の写真やテレビドラマの広告、芸能人の不倫の噂話、小動物の愛くるしい動画がベルトコンベアに乗った卵のように次から次へと流れてくるだけだった。どの投稿にも現実感がない。どこかべつの世界で起きていることのようだ。
見なければ良かった。アプリを閉じようとして、ふと、スクロールする指を止めた。
画面のなかに純真がいた。いや、純真だと思ったが、よく見ると別人だった。金髪で、骨格がすこし似ている気もするが、顔かたちはまるでちがう。
金髪の男は藍色のタンクトップにチェックのシャツを羽織り、こちらを向いて笑っている。写真には短いテキストが添えられていた。その内容に釘付けになった。
今日出勤してまーす。エロく責められたい猫ちゃんはお店のアカウントにDMして!
ホストかなにかをやっているのだろう。「Lpotion」とあるタグは店の名前かもしれない。クリックすると、派手な紫色のロゴが表示された。どうやらホストクラブではないらしい。男性向けに男性が性的なサービスを施すデリヘルのような店らしかった。どう見ても非合法だが、堂々とメニューやオプションを投稿して宣伝している。
純真との関係に悩んだとき、ゲイコミュニティやLGBT関連のページを検索したことがある。検索履歴をシステムが検知してアカウントを表示させたのかもしれない。
猫ちゃんとは。笑える。
片手でスマホを操作しながら立ち上がり、重い体を動かして冷蔵庫を空けた。ストロング缶が1本だけ残っていた。プルタブを開け、喉に流し込む。アルコールが胃に沁み渡り、頭の奥が鈍く痺れる。
そのまま冷蔵庫に凭れてしゃがみこんだ。スマホと缶を両手に持って、壁を眺めた。脚を伸ばすと爪先が生ゴミの袋にあたる。何日も前から放置しているため、臭気がきつくなっていた。
死ぬことばかりを考えているが、この状態では生きているのも死んでいるのもほぼ変わらない。ストロングを一気に半分ほど飲むと、麻酔を打たれたかのように神経が鈍った。唯一、痛みを忘れられる瞬間だ。
缶が空になる頃には完全に酩酊状態になっていた。床の冷たさや硬さも感じない。二度と目が覚めないよう祈りながら、おれは冷蔵庫に後頭部を擦りつけ、目を閉じた。



