終電を逃した後、おれは行くあてもなく歩きはじめた。なにも考えず、ただ黙々と足を動かし、前に進んだ。
気づくと見知らぬ風景が目前に広がっていた。夜が更けて、通行人や車の数もまばらだ。道路標識には「麻布十番」の文字が刻まれている。
まったく知らない土地というわけではなかった。ほとんど足をはこんだことはなかったが、純真がよく遊びに行っていた彼の領域だ。
電話中、純真の声の奥にハウスミュージックが聞こえた。純真がハウスを好み、よく麻布十番のクラブに出かけていることは知っていた。常連だというその店には一度連れて行ってもらったことがあった。とはいえ、だいぶ前のことだったし、電話で話してから3時間は経過している。もし店にいたとしても、すでに帰宅しているかもしれない。そもそも、会ってなにを話すというのか。話すべきことはもうないというのに。
帰ろう。足を止め、スマホを取り出した。すでに午前3時を回っている。終電はとっくになく、タクシーを捕まえようにも手持ちの金が心許ない。ここから自宅まではかなりの距離があり、タクシー代はおそらくそうとうな額になるだろう。スマホのバッテリーも残りわずかで、地図を開くのもギリギリだった。歩いて帰ろうにも帰路がわからず、池袋のマンションにたどり着くまでにバッテリーが持ちそうにない。
八方塞がりの状態に、泣きたくなった。目頭が熱くなるのを誤魔化そうと、手首で雑に目元を擦る。
深いため息をつく。白くなった息が顔に纏わりつく。真夜中の空気は冷たく皮膚を刺し、乾いた風が唇を乾かした。
途方に暮れて舗道に立ち竦んでいると、背後で声がした。
「モモ?」
振り向いた。冗談かと思った。ファー付きのブルゾンを着た純真が、道路を挟んで反対側の舗道に立っている。街頭に照らされ、呆気に取られた表情でこちらを見ていた。髪をピンク色に染めた男が傍らに立っている。見覚えのある顔だった。新宿の街で再会したときにもいっしょだった。
おれは敏感なほうとはいえないが、さすがに気づいた。付き合っている相手というのはおそらくピンクの髪の彼のことだろう。ピンク髪のほうも眉を顰めておれを見つめている。惨めさに全身が熱くなった。咄嗟に体を反転させ、足早に歩き出した。目的地があるわけではなかったが、とにかくその場を離れたかった。純真たちがいない場所に行きたかった。
「モモ!」
クラクションの音。純真がガードレールを跳び越え、信号を無視して車道を渡ってくるところだった。おれはもう足早などではなく走っていた。白い息を吐きながら、人けのない舗道を必死で走った。しかし、純真とは体力も脚力も比較にならない。すぐに追いつかれ、背後から腕をつかまれた。
「待てって」
「離せよ!」
全力で抗おうとしたが、両腕を拘束されると身動きが取れなくなった。純真の腕の力はつよく、暴れてもまったく動かない。頭を振った拍子に眼鏡がはずれ、アスファルトに落下した。レンズが割れた音はしなかったが、フレームに傷くらいはついただろう。とことん惨めだ。
「なにしてんだよ、こんなとこで」
純真が絞り出すようにいう。体からはアルコールと煙草と香水の匂いがした。
「……遊んでた」
「だれと? ひとりで?」
「関係ないだろ!」
無意識に声が荒れた。純真の肩越しに、横断歩道を渡ってくるピンク色の頭が見えた。
「もうやだ、手、離せって!」
「なにしにきたんだよ」
「なにしにって……」
顔を上げると、視線が衝突した。純真はなんとも形容しがたい表情でおれを見つめていた。黒い瞳が揺れているように見えたが、眼鏡がないせいではっきりとはわからない。焦点が合わないほどの距離で見つめ合うと、胸がきつく締めつけられ、呼吸がくるしくなった。まともな思考はできなかった。
「なあ、モモ……」
「好きなんだよ!」
衝動的に、叫んでいた。純真の背後でピンクの髪の男が見えない壁に立ちはだかられたかのように足を止めた。純真はおれの両腕をつかんだまま呆然としている。
「え、なに?」
「だから……」
ほとんど泣き声に近かった。捕らえられた腕の間で頭を垂れ、家畜のようにだらりと脱力して、おれはいった。
「おれ、純真が好きなんだよ。だから……」
「なんで今更そんなこというんだよ!」
いきなり手を振り放され、おれはバランスを崩しよろけた。すんでのところで倒れずに済んだが、足が縺れ、無様な姿勢でアスファルトに膝をついた。
「純真……」
「勝手なこといってんじゃねえよ!」
純真も叫んでいた。純真が声を荒らげる姿を見たのははじめてだった。
「好きとか……なんなんだよ、ふざけんなよ! おれの気持ち考えたことあんのかよ!」
静寂の舗道に純真の烈しい声が響く。凄まじい剣幕だった。いつも穏やかで磊落な純真はそこにはいなかった。
「あのとき、おまえ、こなかったじゃん! 約束したのに! おれずっと待ってたんだぞ!」
「ごめん……」
「ごめんじゃねえよ! 自分がしたことわかってんのかよ!」
「わかって……」
「わかってねえよ!」
おれの言葉を遮って、純真は怒鳴った。空気を震わせるような声に、おれは身を縮こまらせた
「おれがどんな気持ちだったのか、ほんとにわかんのかよ! あんな別れかた……あんなんで納得できると本気で思ってんのかよ!」
恐怖と後悔と惨めさが再び瞼を覆って、涙が溢れた。衝動のままに口を開いた。
「しょうがないだろ! あのときはああするしかないと思ったんだから!」
「はあ?」
純真の顔は紅潮し、表情には隠しようのない怒りが滲んでいた。
「なんでだよ! どうしたらそういう発想になるんだよ!」
怒りを弾けさせるかのようにその場をうろつきながら、純真がさらに怒鳴る。
「全然わかんねえ。理解できねえよ!」
「純真だって平気そうじゃん!」
「は?」
自分がなにをいおうとしているのかわからなかった。しかし、止められなかった。
「おれがいなくなっても、ふつうに生活してたんじゃん。恋人もできて、すごい楽しそうだし」
「なにいってんの、おまえ」
「あんなに好きとかかわいいとかいってたくせに、1年もしないうちに新しい相手つくってさ。おれからしたら、そっちのほうが理解できないんだけど。純真の好きってそんなもんなんだって……」
「ふざけんな!」
純真が叫ぶ。おれを見下ろして、長い髪を振り乱しながら怒鳴る。
「おまえのせいでおれがどんだけくるしんだと思ってんだよ! なにか事故でもあったんじゃないかって心配したり、おれのせいで追い詰めたんじゃないかって自分を責めたりして、すげえくるしくて……」
荒く息を継ぎ、途中からは絞り出すような低い声になっていた。
「……平気なわけないだろ」
最後の言葉はほとんど独白だった。
「平気なわけあるかよ……」
おれは涙で頬を濡らしながら、地面にへたりこんでいた。膝の上で拳を固め、呟いた。
「……好きだよ、純真」
「やめろ、マジで……」
「好き……」
「やめろって!」
鋭い声に刺されて、おれは唇を噛んだ。涙がとめどなく溢れ、頬から顎に滑り落ち、次々と舗道に滴った。
「頼むから空気読んでくれよ……」
ピンクの髪の男は無言で事態を見守っていた。距離が離れているせいで、裸眼では表情まではわからなかったが、呆れているか怒っているか、すくなくとも穏やかな心境であるはずがなかった。
「空気なんか読めない……」
泣きじゃくりながらいった。
「そういうところが好きっていってたじゃん……」
「モモ……」
「純真が好きなんだよ!」
「もうやめろって、モモ」
ため息交じりの声にはもう怒気はなかった。代わりに、疲労の色が差していた。純真はおれを持て余しはじめていた。
「やだ……やめたくない」
おれはアスファルトの上を藻掻くように這って、純真のデニムの脚を両手でつかんだ。両腕を回し、脚にしがみつく。
「おい……」
純真が咄嗟に体を退こうとしたが、全身に力を込めて取り縋った。もしだれかが通りがかっていたら、きっと大笑いするだろう。古典的な喜劇ですらそうは見られないほど無様で醜悪な姿だった。
「ごめんなさい……」
冷静さはとっくに失っていた。純真の脚に纏わり付きながら、おれは叫ぶようにいった。
「傷つけて、くるしめてごめん。すごく後悔してる。できるなら今すぐあのときにもどって全部やりなおしたい……」
「モモ……」
純真が慌てて身を屈める。おれの肩をつかんで引き離そうとしたが、おれは両手をしっかり脚に絡めて動かなかった。身勝手なことはわかっていた。しかし、今手を離せば、純真は二度ともどれない。偶然再会する奇跡が何度も起きるとは思えない。おれたちの人生が交差することは二度とない。
「純真は友達も恋人もたくさんつくれるしみんなに好かれるけど、おれには純真だけ……心をゆるせるのも、好きになってもらえるのも、純真以外にはこの先絶対会えないから。だから」
「わかったから。もう怒ってないから、こんなことやめよう。な」
「おれには純真しか……」
「そんなことないって」
「そんなことあるんだよ!」
指先が白くなるほど強くデニム生地を引っ張ると、純真の上半身が傾いだ。おれは膝を立てて純真の腰に抱きつき、香水の匂いがするブルゾンに顔を圧しつけた。下腹部に手を這わせる。中心部分はあのときのように張り詰めてはいなかった。デニム越しに触れると、純真が体を強張らせた。
「モモ……」
「純真……お願いだから……付き合ってくれなくてもいいから、1回だけ……」
「モモ!」
つよい力で突き飛ばされ、おれは後ろに倒れた。舗道の真ん中でだらしなく両脚を投げ出し、上半身を起こして純真を見上げる。白く濁った息が視界を隔てる。
「モモがそういうこというとは思ってなかったから、正直……なんていうか、悲しいよ」
純真の声に怒りはなかった。あるのはただひとつ、落胆だった。
「おれが大事にしてるものとか、すごく嫌ってるものとか、そういうの知ってたはずだろ。それとも忘れた?」
なにもいえなかった。不自然な体勢のまま肩で息をするおれを純真は悲しげな眼差しで見下ろした。
「もう遅いよ、モモ。おれたち、どうやったって絶対もとにはもどれない」
嫌だと叫んだのは心のなかだけで、乾燥した唇がかすかに震えただけだった。
それ以上なにもできず、なにもいえず、純真が背中を向けるのを見上げていた。
純真は大股に去っていき、ピンクの髪の男がその後を追った。どちらも一度も振り返らなかった。
掌にかすかな痛みを感じた。手を広げてみると、中指の付け根付近が裂け、血を零していた。手を置いていた場所を見ると、眼鏡のレンズが割れていた。落下した衝撃でか、おれが倒れ込んだときに運悪く下敷きになったのか、片方だけとはいえ、罅が広がって、ひどい状況だった。
血の滲む手で顔を覆い、おれは泣いた。純真を棄て、彼の心を修復できないほど粉々に砕いたあの夜とおなじように、自分自身のすべてを呪い、泣き続けた。
気づくと見知らぬ風景が目前に広がっていた。夜が更けて、通行人や車の数もまばらだ。道路標識には「麻布十番」の文字が刻まれている。
まったく知らない土地というわけではなかった。ほとんど足をはこんだことはなかったが、純真がよく遊びに行っていた彼の領域だ。
電話中、純真の声の奥にハウスミュージックが聞こえた。純真がハウスを好み、よく麻布十番のクラブに出かけていることは知っていた。常連だというその店には一度連れて行ってもらったことがあった。とはいえ、だいぶ前のことだったし、電話で話してから3時間は経過している。もし店にいたとしても、すでに帰宅しているかもしれない。そもそも、会ってなにを話すというのか。話すべきことはもうないというのに。
帰ろう。足を止め、スマホを取り出した。すでに午前3時を回っている。終電はとっくになく、タクシーを捕まえようにも手持ちの金が心許ない。ここから自宅まではかなりの距離があり、タクシー代はおそらくそうとうな額になるだろう。スマホのバッテリーも残りわずかで、地図を開くのもギリギリだった。歩いて帰ろうにも帰路がわからず、池袋のマンションにたどり着くまでにバッテリーが持ちそうにない。
八方塞がりの状態に、泣きたくなった。目頭が熱くなるのを誤魔化そうと、手首で雑に目元を擦る。
深いため息をつく。白くなった息が顔に纏わりつく。真夜中の空気は冷たく皮膚を刺し、乾いた風が唇を乾かした。
途方に暮れて舗道に立ち竦んでいると、背後で声がした。
「モモ?」
振り向いた。冗談かと思った。ファー付きのブルゾンを着た純真が、道路を挟んで反対側の舗道に立っている。街頭に照らされ、呆気に取られた表情でこちらを見ていた。髪をピンク色に染めた男が傍らに立っている。見覚えのある顔だった。新宿の街で再会したときにもいっしょだった。
おれは敏感なほうとはいえないが、さすがに気づいた。付き合っている相手というのはおそらくピンクの髪の彼のことだろう。ピンク髪のほうも眉を顰めておれを見つめている。惨めさに全身が熱くなった。咄嗟に体を反転させ、足早に歩き出した。目的地があるわけではなかったが、とにかくその場を離れたかった。純真たちがいない場所に行きたかった。
「モモ!」
クラクションの音。純真がガードレールを跳び越え、信号を無視して車道を渡ってくるところだった。おれはもう足早などではなく走っていた。白い息を吐きながら、人けのない舗道を必死で走った。しかし、純真とは体力も脚力も比較にならない。すぐに追いつかれ、背後から腕をつかまれた。
「待てって」
「離せよ!」
全力で抗おうとしたが、両腕を拘束されると身動きが取れなくなった。純真の腕の力はつよく、暴れてもまったく動かない。頭を振った拍子に眼鏡がはずれ、アスファルトに落下した。レンズが割れた音はしなかったが、フレームに傷くらいはついただろう。とことん惨めだ。
「なにしてんだよ、こんなとこで」
純真が絞り出すようにいう。体からはアルコールと煙草と香水の匂いがした。
「……遊んでた」
「だれと? ひとりで?」
「関係ないだろ!」
無意識に声が荒れた。純真の肩越しに、横断歩道を渡ってくるピンク色の頭が見えた。
「もうやだ、手、離せって!」
「なにしにきたんだよ」
「なにしにって……」
顔を上げると、視線が衝突した。純真はなんとも形容しがたい表情でおれを見つめていた。黒い瞳が揺れているように見えたが、眼鏡がないせいではっきりとはわからない。焦点が合わないほどの距離で見つめ合うと、胸がきつく締めつけられ、呼吸がくるしくなった。まともな思考はできなかった。
「なあ、モモ……」
「好きなんだよ!」
衝動的に、叫んでいた。純真の背後でピンクの髪の男が見えない壁に立ちはだかられたかのように足を止めた。純真はおれの両腕をつかんだまま呆然としている。
「え、なに?」
「だから……」
ほとんど泣き声に近かった。捕らえられた腕の間で頭を垂れ、家畜のようにだらりと脱力して、おれはいった。
「おれ、純真が好きなんだよ。だから……」
「なんで今更そんなこというんだよ!」
いきなり手を振り放され、おれはバランスを崩しよろけた。すんでのところで倒れずに済んだが、足が縺れ、無様な姿勢でアスファルトに膝をついた。
「純真……」
「勝手なこといってんじゃねえよ!」
純真も叫んでいた。純真が声を荒らげる姿を見たのははじめてだった。
「好きとか……なんなんだよ、ふざけんなよ! おれの気持ち考えたことあんのかよ!」
静寂の舗道に純真の烈しい声が響く。凄まじい剣幕だった。いつも穏やかで磊落な純真はそこにはいなかった。
「あのとき、おまえ、こなかったじゃん! 約束したのに! おれずっと待ってたんだぞ!」
「ごめん……」
「ごめんじゃねえよ! 自分がしたことわかってんのかよ!」
「わかって……」
「わかってねえよ!」
おれの言葉を遮って、純真は怒鳴った。空気を震わせるような声に、おれは身を縮こまらせた
「おれがどんな気持ちだったのか、ほんとにわかんのかよ! あんな別れかた……あんなんで納得できると本気で思ってんのかよ!」
恐怖と後悔と惨めさが再び瞼を覆って、涙が溢れた。衝動のままに口を開いた。
「しょうがないだろ! あのときはああするしかないと思ったんだから!」
「はあ?」
純真の顔は紅潮し、表情には隠しようのない怒りが滲んでいた。
「なんでだよ! どうしたらそういう発想になるんだよ!」
怒りを弾けさせるかのようにその場をうろつきながら、純真がさらに怒鳴る。
「全然わかんねえ。理解できねえよ!」
「純真だって平気そうじゃん!」
「は?」
自分がなにをいおうとしているのかわからなかった。しかし、止められなかった。
「おれがいなくなっても、ふつうに生活してたんじゃん。恋人もできて、すごい楽しそうだし」
「なにいってんの、おまえ」
「あんなに好きとかかわいいとかいってたくせに、1年もしないうちに新しい相手つくってさ。おれからしたら、そっちのほうが理解できないんだけど。純真の好きってそんなもんなんだって……」
「ふざけんな!」
純真が叫ぶ。おれを見下ろして、長い髪を振り乱しながら怒鳴る。
「おまえのせいでおれがどんだけくるしんだと思ってんだよ! なにか事故でもあったんじゃないかって心配したり、おれのせいで追い詰めたんじゃないかって自分を責めたりして、すげえくるしくて……」
荒く息を継ぎ、途中からは絞り出すような低い声になっていた。
「……平気なわけないだろ」
最後の言葉はほとんど独白だった。
「平気なわけあるかよ……」
おれは涙で頬を濡らしながら、地面にへたりこんでいた。膝の上で拳を固め、呟いた。
「……好きだよ、純真」
「やめろ、マジで……」
「好き……」
「やめろって!」
鋭い声に刺されて、おれは唇を噛んだ。涙がとめどなく溢れ、頬から顎に滑り落ち、次々と舗道に滴った。
「頼むから空気読んでくれよ……」
ピンクの髪の男は無言で事態を見守っていた。距離が離れているせいで、裸眼では表情まではわからなかったが、呆れているか怒っているか、すくなくとも穏やかな心境であるはずがなかった。
「空気なんか読めない……」
泣きじゃくりながらいった。
「そういうところが好きっていってたじゃん……」
「モモ……」
「純真が好きなんだよ!」
「もうやめろって、モモ」
ため息交じりの声にはもう怒気はなかった。代わりに、疲労の色が差していた。純真はおれを持て余しはじめていた。
「やだ……やめたくない」
おれはアスファルトの上を藻掻くように這って、純真のデニムの脚を両手でつかんだ。両腕を回し、脚にしがみつく。
「おい……」
純真が咄嗟に体を退こうとしたが、全身に力を込めて取り縋った。もしだれかが通りがかっていたら、きっと大笑いするだろう。古典的な喜劇ですらそうは見られないほど無様で醜悪な姿だった。
「ごめんなさい……」
冷静さはとっくに失っていた。純真の脚に纏わり付きながら、おれは叫ぶようにいった。
「傷つけて、くるしめてごめん。すごく後悔してる。できるなら今すぐあのときにもどって全部やりなおしたい……」
「モモ……」
純真が慌てて身を屈める。おれの肩をつかんで引き離そうとしたが、おれは両手をしっかり脚に絡めて動かなかった。身勝手なことはわかっていた。しかし、今手を離せば、純真は二度ともどれない。偶然再会する奇跡が何度も起きるとは思えない。おれたちの人生が交差することは二度とない。
「純真は友達も恋人もたくさんつくれるしみんなに好かれるけど、おれには純真だけ……心をゆるせるのも、好きになってもらえるのも、純真以外にはこの先絶対会えないから。だから」
「わかったから。もう怒ってないから、こんなことやめよう。な」
「おれには純真しか……」
「そんなことないって」
「そんなことあるんだよ!」
指先が白くなるほど強くデニム生地を引っ張ると、純真の上半身が傾いだ。おれは膝を立てて純真の腰に抱きつき、香水の匂いがするブルゾンに顔を圧しつけた。下腹部に手を這わせる。中心部分はあのときのように張り詰めてはいなかった。デニム越しに触れると、純真が体を強張らせた。
「モモ……」
「純真……お願いだから……付き合ってくれなくてもいいから、1回だけ……」
「モモ!」
つよい力で突き飛ばされ、おれは後ろに倒れた。舗道の真ん中でだらしなく両脚を投げ出し、上半身を起こして純真を見上げる。白く濁った息が視界を隔てる。
「モモがそういうこというとは思ってなかったから、正直……なんていうか、悲しいよ」
純真の声に怒りはなかった。あるのはただひとつ、落胆だった。
「おれが大事にしてるものとか、すごく嫌ってるものとか、そういうの知ってたはずだろ。それとも忘れた?」
なにもいえなかった。不自然な体勢のまま肩で息をするおれを純真は悲しげな眼差しで見下ろした。
「もう遅いよ、モモ。おれたち、どうやったって絶対もとにはもどれない」
嫌だと叫んだのは心のなかだけで、乾燥した唇がかすかに震えただけだった。
それ以上なにもできず、なにもいえず、純真が背中を向けるのを見上げていた。
純真は大股に去っていき、ピンクの髪の男がその後を追った。どちらも一度も振り返らなかった。
掌にかすかな痛みを感じた。手を広げてみると、中指の付け根付近が裂け、血を零していた。手を置いていた場所を見ると、眼鏡のレンズが割れていた。落下した衝撃でか、おれが倒れ込んだときに運悪く下敷きになったのか、片方だけとはいえ、罅が広がって、ひどい状況だった。
血の滲む手で顔を覆い、おれは泣いた。純真を棄て、彼の心を修復できないほど粉々に砕いたあの夜とおなじように、自分自身のすべてを呪い、泣き続けた。



