Momo Said

「明日、雨だって」
 缶ビールを飲みながら、純真がいった。
「え、なに」
「雨。明日」
「ああ、そうなんだ」
 おれはアルコール度数の低い缶酎ハイを飲んでいた。いつものように買い物をして、映画を観て、純真の部屋で買ってきた酒と総菜で晩酌をしていた。テレビのニュースで本州に向かっている大型台風の進路図が映し出されている。
「台風、関東にもくるかな」
「どうかな。西に向かってるみたいだけど」
 天気予報を確認するためにスマホを取り出す。画面には時間が表示されていて、日付が変わりかけているところだった。ぼんやりテレビを眺めているうちにいつの間にかかなり時間がたっていたらしい。
「やば。終電……」
 慌てて立ち上がりかけたおれの腕を純真がつかんだ。
「泊まってけばいいじゃん」
 湿った声だった。振り向くと、純真のやさしい、それでいて真剣な眼差しとぶつかった。顔が近づいてきて、唇が触れあった。舌先が差し込まれる。わずかにビールの麦の味がする。
 烈しいものではなく、慈しむようなていねいなキスだった。たいせつにあつかわれるのだと実感する。
 朝から偏頭痛がひどかった。明日は間違いなく雨が降るだろう。でも純真がいいたかったのはべつのことだったのではないか。
 明日は約束の1カ月の最後。はっきりと口には出さなかったが、ふたりとも意識していた。
 唇が離れる。純真の手がおれの首から肩にかけてかたちを確かめるように滑る。
「わ……」
 純真がおれの腿の下に腕をくぐらせて持ち上げると、体が浮いた。ベッドに仰向けに乗せられる。純真はおれの腹の上に跨がり、ゆっくり上半身を倒してきた。熱い息が耳朶を掠め、おれの体は小さく震えた。
「モモ、好きだよ……」
 耳の奥に純真の言葉が吸い込まれる。互いの唾液で濡れた唇が首に圧しつけられる。
「大好き……」
 何度も繰り返しながら、首や鎖骨や肩にキスする。シャツの下の肌が粟立ち、じわりと熱を孕む。
「モモ……」
 わずかに顔を傾けて、純真が見つめてくる。蛍光灯の光を背にしていることに加えてあまりに距離が近いせいで表情が判別できない。それでも、なにを求められているかはもうわかっていた。
「……いいよ」
 密着していなければ聞こえないような小さな声でいった。羞恥で純真を真っ直ぐ見られない。
「ほんとに……?」
 顎を震わせて小刻みに頷く。顔が熱くて溶けそうだった。
「マジか。めっちゃうれしい……」
 噛みしめるようにいって、純真がまた顎や頬にキスしてくる。小鳥が啄むようなキスを何度もされて、おれは身を捩った。
「くすぐったい」
「はは」
 純真が体を起こす。明るく染めた髪が照明に照らされてきらきら輝いているのをきれいだと、そのときおれは思った。
 おれの上に跨がったまま、純真はシャツを脱いだ。はじめて見る裸の上半身に、鼓動が烈しくなった。均整の取れた体だった。腹筋が盛り上がり、胸元はすこし汗ばんでいる。
 ここにくる前から覚悟を決めていたはずだった。自分の気持ちの正体はまだわからない。それでも、純真の気持ちに応えたかった。導き出した答えが、肉体的に純真を受け容れることだった。
「電気消したほうがいい?」
「うん……」
 純真が一度ベッドを離れ、壁のスイッチを消しに行く。残されたおれは眼鏡をはずし、テーブルの上に置いた。こういうとき、どういう顔で、どういう姿勢で待っていればいいのかわからない。ベッドの上に正座していると、薄闇のなかで純真が近づいてくる気配がした。
「こっちきて」
 手を引かれる。再び体を倒される。目を閉じ、キスが再開される。唇を合わせながら、純真がおれのシャツのボタンをはずしていく。慣れた手つきだった。
 下腹に硬直した先端を擦りつけられ、思わず目を開けた。闇のなかですこしずつ目が慣れ、おれを見つめる純真の表情がわかるようになっていた。
「怖いよな、ごめん」
「べつに……」
「やさしくするから」
 言葉どおりに穏やかな口調だった。実際には興奮しているのだと、圧しつけられた塊の熱さでわかる。おれを気遣い、自制しているのだった。
「あ……」
 シャツを脱がされ、肌が露出する。無意識に身を強張らせた。
「だいじょうぶ」
 露になった肩をマッサージするように擦りながら、純真が囁く。薄闇のなかでも、純真の目に素肌を晒している事実に、落ち着けるはずはなかった。
 純真の手が宥めるようにやさしく背中を滑る。同時に、唇が首から胸元へと落ちていく。純真の前髪が肌の表面を擦り、そのかすかな刺激さえも敏感にとらえて肌がざわざわと震えた。
 まだなにもされていないのに、過度な緊張で呼吸がくるしくなっていた。胸元をさぐっていた純真の唇が突起の先端を掠め、思わず息を漏らしてしまった。
 声というよりは吐息にちかかった。純真も当然気づいた。顔を上げ、おれを見る。
「やばい。めちゃくちゃかわいい……」
「そういうこというなって……」
「ごめん」
 口では謝罪しながらも、純真は追い立てるように再び胸を啜った。舌の表面が乳首を圧迫し、唾液が絡められる。熱い感触。唇が離れると、外気に触れて唾液が冷え、ぞくぞくとした快感が胸から背中へ拡がっていく。
「モモ、腰上げて」
 いつの間にかデニムのボタンとファスナーが開けられていた。臀部に掌をあてがわれ、促されるままに腰を浮かせると、下着ごと引き下ろされた。
「ちょ……」
 予想していなかったわけではないが、焦って膝を擦り合わせる。腿の下あたりでデニムと下着が引っかかる。
「嫌?」
「嫌っていうか……恥ずかしい」
「平気だよ。おれも脱ぐから」
 純真は体を起こし、自分のベルトとパンツを取り去った。おれの服を脱がせたときとはちがって、性急で乱暴な手つきだった。
 それを目の当たりにして、おれは自分でも驚くほど狼狽した。おれの股間も露出していたが、緊張のあまり下を向いていた。いっぽう、純真のほうは硬直して熱を漲らせていた。闇のなかで、裸眼でもその形状と訴えかけるような興奮がわかった。純真のやさしい表情や穏やかな言葉からは想像もできなかった禍々しい直情的な欲望を目の前にして、恐怖や混乱が一気に噴き上がった。
「モモ……」
 硬直した先端を下腹に擦りつけられたとたん、思わず声が出た。さっきまでのような息ではなく、明確な悲鳴だった。
 考えるよりも先に体が動いていた。純真の体を圧し退け、足首にデニムと下着を縺れさせた情けない格好でベッドを降りた。膝で這うように離れる。肘がテーブルにあたり、ビールの空き缶と眼鏡が床に落ちて跳ねた。
「モモ?」
「ごめん!」
 ほぼ同時に叫んだ。
「ごめん、やっぱ無理……」
 純真もベッドを降りた。部屋の照明を明るくして、おれを見下ろす。実際には、おれはほぼ全裸で膝を抱えてうずくまっていたため、見下ろされていると感じたのは純真の息づかいと足音から判断しただけだ。視線を返すことはできなかった。
「……ごめん。いきなりすぎたかな」
 おれを落ち着かせようとするように純真は軽やかな口調でいった。この期に及んで往生際が悪いと、ふつうなら苛立つだろうが、そんな素振りはいっさい見せなかった。それがむしろつらい。罵倒されたほうがましだった。
「はじめてだし、やっぱ怖いよな」
「ちがう……」
 裸の背中を丸めて、おれは首を振った。
「怖いわけじゃないの?」
「ちがう。や、ちがくないけど……」
 舌を縺れさせながら、おれは必死で言葉を紡いだ。純真がおれに欲情していること、自分のものにしたいと切望していることを理解していたつもりだった。しかし、実際に欲望を目の前に突きつけられると、まったくわかっていなかったことに気づいた。感情が渦を巻いて飲み込もうとする。その渦から逃れようとするかのように、おれは膝を抱える腕に力を込めた。
「なにが怖いの?」
 純真の声は相変わらずやさしい。すぐにもおれをベッドに連れもどしたいはずだったが、急かすようなことはなく、体に触れることもしなかった。恐るべき辛抱づよさだった。
「最後までしちゃったら……」
 泣き声になっていることにはじめて気づいた。恐怖よりも情けなさと申し訳なさで涙が出た。
「最後までいっちゃったら、もう後戻りできない気がして……」
 自分でもなにをいっているのかわかっていなかった。混乱と困惑で声が震えた。
「モモ……」
 純真の気配が近づいてきて、おれは身を固めたが、それ以上距離を取ることはできなかった。
 すこし湿って冷えた手が肩に触れる。おれの反応を確かめながら、思慮深い手つきでゆっくりと背中を包む。
 緩く抱きしめられ、おれは深呼吸した。息を吐いたときに、呻くような声が漏れた。
「混乱させてごめんな」
 おれの頭を撫でながら、純真は謝った。息づかいがくるしげなのは、心の揺れのせいか、欲望を抑えつけているせいなのか、判別できなかった。
「簡単なことじゃないのはわかってる。おれもちょっと焦りすぎた」
 首を振る。純真のせいではない。はっきり「いい」と答えたのだ。一度は受け容れると明言しておきながら、いざとなると怖じ気づいてあっさり覆した。客観的に見ても悪いのはおれのほうだ。
「慌ててするようなことじゃないよな。ちゃんと付き合ってからでも……」
 付き合うという言葉に、おれは体を震わせて反応した。小さな変化を敏感に感じ取って、純真が尋ねてくる。
「おれと付き合ってくれるよね、モモ?」
 おれは答えられない。焦らしているつもりはなかった。ただ、自分の気持ちに自信が持てない以上、無責任に頷くことはできないと思ったのだ。
「な、モモ。おれ、モモのことずっと大事にするよ。浮気もしないし、モモのことを最優先にする。ずーっと好きでいっしょにいるから」
 純真の声には切実さがあった。
「だから、おれと付き合うっていって」
 指先が顎の下を辿り、おれは顔を上げた。困ったように眉間に皺を寄せたいつもの笑顔がそこにあった。
「答えは明日でいいから」
 純真はおれの前に膝をつき、両手でおれの顔を大切そうに包んで、涙で濡れた頬にくちづけた。
「明日、学校終わったら、いつもの喫茶店にきてよ。待ってるから」
 にっこり笑っていうと、体を離して立ち上がり、パンツを履き、手早く身なりを整えた。
「もう終電ないよな。泊まってけよ」
 なんと答えるべきかわからず戸惑っていると、重ねていった。
「なにもしないから、いっしょ寝よ」
 断ることはできなかった。純真がそう約束すれば、信じていい。
 おれも服を着なおし、立ち上がった。純真がくれたタオルで顔を拭くと、ようやくすこし落ち着いた。
 さっきまで絡み合っていたせいで乱れたシーツを純真が整え、毛布を広げて、敷き布団との隙間に体を滑らせた。壁際に体をずらし、おれのほうに合図をして見せる。
「ほら」
 促されるままに、毛布のなかに体を入れた。純真の両腕に迎えられる。
「あ、電気消さないとだな」
 頭の上で純真が呟く。
「つけといたほうが安心する?」
「うん……」
 この状況でなおおれを気遣う純真のやさしさに、また涙が出そうになった。
「純真……」
「ん?」
 純真の首に顔を埋めながら、おれはいった。
「純真はほんとに平気?」
「え?」
「だってあんな……途中で……」
「ああ……」
 すこし笑って、純真はおれの頭を撫でた。
「まあ、男だし、そりゃちょっとはきついけど、でも、モモの気持ちがいちばん大事だし」
 毛布の上からおれの背中を擦りながら、微笑んだ。
「おれのこと受け容れようってモモが頑張ってくれたことはわかってるから」
 言葉が出ない。なにか話す代わりに、おれは純真の体に両腕を巻き付けて全身を預け抱きついた。
「ちょっと……あんまくっつくとまたやばくなっちゃうから」
 純真が笑う。あえてふざけたような口調をつくっているのは、おれを安心させ、自己嫌悪の念をすこしでも取り払おうという気遣いだとわかっていた。
 そのとき、おれははっきりと自覚した。
 純真が好きだ。