プリンセスになりたくない俺は、準プリンスと付き合うことにした

「おはよう」
 翌朝も相澤は俺の家の前にいた。昨日「これから毎日迎えに行くね」とは言われたけど。こういう真面目さがプリンスには大事なのかもしれない。
 駅の改札を抜け、ホームで電車を待っていたときだった。
「吉田くんは、いままで付き合ったひといるの?」
「はっ、え、なんで」
 なんの脈絡もない唐突すぎる質問に驚きのあまり、声どころか体ごと跳ねる。相澤が俺の顔をじっと見つめた後、視線を手元へと移す。今日もしっかりと手は繋がれている。
「こういうの初めてって言ってたけど、付き合ったことないとは言ってなかったなって」
「ないに決まってるだろ」
「本当に? じゃあ、僕が初めての恋人なんだ」
 なんでそんなに嬉しそうに笑うのだろう。胸の内側がむず痒くなり、同時にチクッと針で刺されたような痛みが走る。自分は違うくせに、と。
「……俺は相澤と違ってモテないから」
「僕も吉田くんが初めてだよ」
 え、と見上げれば、一瞬で丸い瞳に吸い寄せられた。深い黒色は夜空のように美しい。だからだろうか、次第に胸の内側が落ち着かなくなっていく。決して嫌なわけではない。むしろ、なんていうか……。
「あっ、電車来たね」
 不意に解かれた視線を、思わず追いかけてしまう。
 ――僕も吉田くんが初めてだよ。
 相澤も初めてということは、慣れてはいないってことか。慣れていないのにここまで完璧にできるってすごいな。
「どうしたの? 笑ってるね」
「笑ってないし」
 ぶわりと風が吹きつけたタイミングで顔を背ける。俺が自然に笑うなんてあり得ない。きっと相澤の見間違いだ。

 昼休みになると、昨日と同じくスマートフォンがメッセージを受信した。内容を確認する前に廊下に出れば「吉田くん」と相澤が俺を呼ぶ。
「じゃあ、行こうか」
 手を繋ぎ、北校舎へと並んで歩き出す。
 ――あ、相澤会長。
 ――ほんとだ、じゃあ、隣にいる先輩が?
 渡り廊下のベンチでお昼を食べている女子たちの声が耳に届く。上履きの色は一年生の学年カラーだ。付き合っていることを公表したのは昨日だけど、すでにほかの学年にも伝わっているらしい。
 ――堂々としてていいね。
 ――わかる。
 向けられる視線は慣れないが、聞こえてくる言葉は悪いものではなかった。ときどき「なんで」「どうして」と困惑や戸惑いも聞こえなくはなかったが、そういうときは相澤が笑顔を向ければ静かになる。……俺も早く笑顔で黙らせる術を取得したい。
 相澤の「一週間だけ付き合う」という作戦は確実に俺と、俺の周りを変化させていた。
「なんか嬉しそうだね」
「えっ」
 くいっと腕を引かれ、自然と肩が触れ合う。咄嗟に体を引きかけるが、相澤の顔が近づくほうが早かった。
「僕と一緒にいられて嬉しいってこと?」
 耳へと直接落とされた言葉が心臓を直撃する。ドクッといままで体験したことのない強さで内側が叩かれる。
「ちょっ」
「どうなの?」
 声よりも息が先に触れ、思わず肩が縮む。
「それとも僕以外の理由でそんな顔をしているの?」
 すっと静かに剣を引くような冷たさが過る。なにか一つでも間違えてしまったら致命傷を負いかねない、そんな緊張が一瞬で体を巡る。唐突な変化に頭はついていかないのに、感覚だけが研ぎ澄まされる。もしかして、これは……。
「ねえ、どうなの?」
 気づけば渡り廊下を過ぎ、ひと気のない北校舎にたどり着いていた。しかもいつのまにか壁際に追い詰められている。視界は相澤の影で薄暗く、どこに視線を向けても相澤が重なる。こくっと唾を飲み込む音さえ大きく感じるほど静かだった。
「教えて?」
「――すげえ」
 じわりと熱が内側からにじみ出る。緊張ではなく興奮が広がっていく。だって、これは。
「やっぱ、相澤は本物だな」
「本物?」
「咄嗟に壁際に追い詰めたり、空気を変えたり、手を出さなくても強いのをわからせて。敵か味方かを見極める術みたいな。物語によっては王子様って命狙われたりするもんな」
「……じゃあ、そんな本物のプリンスである僕と一緒にいられて吉田くんは嬉しいってこと?」
 剣が鞘に収められた代わりに、相澤の指先が顎にかかる。そっと肌を撫でられ、自然と顔が上を向く。
 長い睫毛の向こう、深い黒色の瞳が俺を映す。吸い込まれそうなのに、反対に熱を注がれているようでもあって。ドクドクと鼓動が戻ってくる。鋭さも冷たさも感じないのに、間違えてはいけないと思うのは同じだった。
「……嬉しいよ」
 踏み外さないよう慎重に言葉を選ぶ。嘘も誤解もあってはならないと今だけは強く感じる。
「相澤は俺にとって手本とすべき憧れの存在で、優秀な協力者で、同じ目的を共有する仲間で、一緒にいると俺の周りはどんどんいいほうに変わっていく。そんなの」
 顎にあった指が唇に重なる。そっと表面を押し込まれる。
「――うん。わかった」
 間違えなかったということでいいのだろうか。
「僕も、吉田くんと一緒にいられて嬉しいよ」
 ふっと影が遠ざかり、指が離れていく。唇のうえだけでなく、繋いでいた手からも。
「生徒会室、そこの角だから」
 相澤がポケットから鍵を取り出し、くるくるとキーホルダーを回す。開けるには鍵が必要だから手を離した。それはとても自然な動作のはずなのに、どうしてだか俺の心臓は不安定な鼓動を刻み続ける。
 ――僕も、吉田くんと一緒にいられて嬉しいよ。
 同じでいいはずなのに。同じだと言われて嬉しいと思えないのはどうしてだろう。俺は相澤になんて言ってほしかったのだろう。
「吉田くん」
 足を止めた相澤が振り返る。ドアはすでに開けられていた。
「着いたよ」
 手を繋ぎ直すことなく、相澤がひとり先に入っていく。ただそれだけのことに、どうして俺の胸はざわつくのだろう。

 生徒会室には長机が二つ、長辺を合わせて置かれていた。ホワイトボードと本棚は壁に寄せられ、カーテンを開ければ明るい。こざっぱりとしていて居心地は悪くなさそうだけど。
「これは?」
 お昼を食べるために誘われたはずなのに、机の上にはプリントの束が積まれていた。
「僕の仕事だよ」
 とりあえず、とプリントから一番離れた端の席へ誘導される。角を挟むように相澤も座る。この並びは、正面より近く、隣より視界に入る位置なのだと、初めて気づく。
「本当は昨日片づけるつもりだったんだけど、吉田くんと一緒に帰っちゃったから」
「俺のせいかよ」
「『せい』というよりも『ため』が正しいかな」
「ため?」
 両手を合わせてからお弁当箱の蓋を外す。今日は猫の形のおにぎりが並んでいる。玉子焼きに唐揚げにほうれん草のグラタン、カラフルな中身に男子高校生らしさはない。
「僕の仕事を『吉田くんが手伝ってくれた』ってみんなに言ったら、プリコンに影響すると思うんだよね――お弁当、すっごい可愛いね」
 反射的に体で隠すが、いまさら遅いのは自分でもわかる。
「隠さなくても盗ったりしないよ」
 大丈夫だよ、と相澤が肩のうえで手を弾ませる。体温が移るほどではないはずなのに、触れられた部分がじわりと熱くなる。
「吉田くんがひとりでお昼食べてる理由ってそれ? 昨日は違ったよね」
「母親がすきなときにやってるだけだから」
「やめほしいって言わないの?」
「べつに。母親の趣味だし」
「そっか」
 ふわりと柔らかな声だった。重さのない羽で撫でられたような。そうか、俺は油断したわけじゃなくて、相澤だったから見せていたのか。相澤はバカにしたり、揶揄ったりしないと知っていたから。
 体を起こし、改めてお弁当と向き直る。
「相澤、なんか食べたいのある?」
 相澤がパンの袋を両手で持ったまま、こちらを振り向く。
「いいの?」
「ひとつだけなら」
「じゃあ、玉子焼きがいいな」
 玉子焼きを箸で摘み上げたところで気づく。
「相澤、箸ないよな」
「大丈夫だよ」
 手掴み? と疑問に思いつつ、蓋の上へ向けたところで手首を掴まれる。
「そっちじゃなくてこっち」
 もう一方の手で指し示された先、相澤が大きく口を開けていた。
「……放り込めってか」
「食べさせて」
 仕方ない、と口のなかに着地させると、箸を抜き取る寸前きゅっと唇が窄まる。すぐに離れたものの指先に残された感覚は消えてくれない。
「んー、美味しい。ありがとう」
「……ん」
「吉田くん? 食べないの?」
 箸の先を見つめたまま停止していたことに気づき、急いでお弁当箱の中から唐揚げを摘む。これは、あれだ。昨日のストローと同じ。気にしてはいけないやつ。
 唐揚げを口に放り込み、奥歯で噛みしめる。じゅわっと肉汁とともに油が染みだし、下味の塩味とともに広がる。美味しいな、と緩んだ心の隙間、不意に声が蘇った。
 ――僕は結構気にするタイプだよ。吉田くんが特別なだけで。
「……んっ」
「え、なに? どうしたの?」
 振り返った相澤になんでもないと首を振る。ちょっと油が口の中で跳ねただけで、喉が詰まったわけじゃない。
「お茶飲む?」
 丁寧にキャップまで外されたペットボトルを差し出されるが、首を振って断る。
「……そう」
 相澤はそれ以上なにも言わなかった。俺は咀嚼を繰り返し、飲み込んだところで、ようやく息を吐き出す。なんで思い出してしまったのだろう。いや、なんでこんな動揺しているのだろう。相澤の「特別」はプリコンのための関係でしかないのに。
「吉田くん」
「なに」
 相澤の薄い唇が弧を描き、きゅっと口角が上がる。
「もしかして気にしちゃった?」
「なにが」
 ぱっと視線を逸らしたことで、自分が相澤の口元を見てしまっていたことに気づく。いや、べつに、たまたまだし。気にしているわけじゃないし。
「吉田くん」
「なに?」
「手、貸して」
「手?」
 思いがけない言葉に、振り返ってしまう。正直、いま話が変わったのはありがたい。
「左手でいいから」
「なに? 手相でもみてくれんの?」
 これもプリンスとして持っておきたい特技だろうか。いろんなひとと話すきっかけになるだろうし。きっとそう、そうに違いない。
「違うよ」
 落とされた言葉を追いかけるように、相澤の顔が下を向く。ちゅっと小さなリップ音が手首の内側で鳴る。手の甲にされたときとは違う。皮膚の薄さが感覚を鮮やかにする。心臓とは離れているはずなのに、心臓が揺さぶられ、熱が広がっていく。
 振り払えなかった。
 強く掴まれているわけではないのに、動けない。相澤が俺を見上げる。きっと俺の頬は赤くなっているだろう。見えなくてもわかる。そんなの相澤に見られたくない。でも、どうしても視線を外すことができない。ここで逃げたら、また手を離されてしまう気がして。どうして離されたくないのか。どうして嫌なのか。理由なんてわからないけど。もう間違えたくない。
「吉田くん、知ってる?」
「……なにを?」
「キスする場所に意味があるって」
「意味?」
「手の甲は敬愛、手首は――」
 最後まで言わずに、相澤が目を細める。
「なんだと思う?」
「俺が知るわけないだろ」
 どうしてだろう、俺の声は小さく震えていた。
「じゃあ、宿題ね」
「宿題?」
「意味を知らずにするより、わかったうえでするほうがいいでしょ」
「俺もするってこと?」
 プリコンのため。実践が大事だから。「もちろん」と相澤は笑うのだと思っていた。だから。
「――きっとね」
 曖昧な答えが、予想外に心臓を擦る。
「この仕事は放課後やろうか」
 プリントへと向けられた相澤の視線を追いながら、俺は自分の手を握りしめる。手首を掴む相澤の手を握ることはできないから。