プリンセスになりたくない俺は、準プリンスと付き合うことにした

「いってきます」
 ドアを開けても朝の日差しは感じられなかった。雲が重く空を埋め尽くし、どこを見てもうっすらと暗い。
 昨日まではあんなにいい天気だったのに。門扉へと手をかけ、誰も立っていないことにきゅっと胸が痛くなる。ひとりでいるほうが当たり前で、元に戻ったにすぎないのに。
 駅へと向かって進みながら、昨日の相澤との会話を思い出す。
 ――僕ね、小学生のとき車で連れ去られそうになったことがあるんだ。
 衝撃的な言葉だったのに、どこかすんなりと受け入れられてしまったのは同じ経験をしていたからだろう。けれど、続いた言葉には驚きを隠せなかった。
 ――僕は吉田くんのおかげで助かったんだよ。
 ――俺? 俺のおかげって?
 ――だって、あのとき車の外で吉田くんが必死に抵抗してみんなを守ってくれてたでしょ。
 小学生。連れ去り。車の外。急速にパズルが組み上がっていく。
 ――じゃあ、あのとき先に車にいたのが相澤だったのか?
 ――うん。だから、ありがとう。
 ――でも、あれは俺のせいで。
 ――違うよ。
 穏やかだった相澤の声が、鋭さを持ってはっきりと響く。
 ――悪いのはあの大人で、吉田くんのせいじゃない。
 そのときの光景を思い出すようにゆっくりと瞬きを挟んだ相澤が、まっすぐ俺を見る。眩しそうな笑顔で。
 ――吉田くんはみんなにとってのヒーローだったよ。
 ――ヒーロー……? 俺が?
 ずっと俺のせいだと思ってきた。俺が悪いのだと。それなのに、相澤は少しも揺らぐことなく視線を向けてくる。
 ――うん。吉田くんは誰よりも強くて格好いいヒーローだよ。僕なんかよりもずっとプリンスだった。最初からずっと。
 ――でもさっきはずっと可愛いと思ってたって。
 ――みんなの前で可愛いと言ってしまったのは本当にごめん。でも、僕の本心だから否定することはできないんだ。
 相澤の表情はどこか寂しそうで、それでいて誇らしそうでもあって。   
 ――吉田くんは、僕の初恋だから。
 きゅっと上がった両頬が赤く色づいて見えたのは、西日のせいだったのだろうか。
 駅前の風景が目の前に広がる。緑色の葉を広げる街路樹。急ぎ足で駅舎に向かう靴音。揃った制服は昨日も一昨日も一緒だった。
 改札を抜け、ホームで列に並ぶ。到着のアナウンスのあと押し出された風が体を撫でていく。雨の予感を含んだ生温い空気は少し息苦しい。
 吊り革に掴まれば、窓の景色が流れていく。遠くの山の色、ビルの看板、一瞬で過ぎていく建物……なんでもない、いつもの、風景の要素でしかないそれらがいまははっきりと感じられる。
 ――二日だけだった。相澤と一緒に登校したのは。そのたった二日の間に俺は自分が多くのことを見過ごしてきたのだと思い知った。景色も人も、自分の気持ちさえも、俺は見えていなかった。
「……相澤」
 こぼれた名前は走行音に掻き消される。手のひらを握っても自分の体温しかなくて。それがひどく寂しかった。

 昇降口で上履きに履き替えていると、不意に肩を叩かれた。
「おはよう、吉田」
「あっ、え、おはよう星名」
 俺に挨拶をくれるのは相澤だけだったから、驚きと戸惑いで声が揺れてしまう。星名の声が大きいのもある。
「一限、化学かあ」
「あ、ああ」
 とても自然に足が並び、ふたりで教室へと向かう形になる。同じクラスなので普通のことだけど、その普通がいままでなかった俺はどこに視線を向けていいかわからない。階段を踏む上履きと踊り場の掲示板を意味もなく往復してしまう。
「吉田はいまのほうがいいな」
 最後の段を踏みしめたところで、星名が振り返る。
「いつも眉間にシワ寄せてこわい顔してただろ」
 ぎゅっと星名が眉間にシワを寄せてから「うん、いまのほうがいい」と明るく笑う。そうだ、常に表情に気をつけていたのに。あれ、俺、いつから……。
「昨日はごめんな」
「昨日?」
「『可愛い』って言って悪かった」
 え、と戸惑いながら見つめれば、星名が申し訳なさそうに眉を下げる。
「吉田がそんなに嫌がってるって知らなくてさ」
「……なんで」
「相澤に言われたんだよ。俺だけじゃなくて去年のクラスメイトだったやつらにも言ってるらしいぞ」
「相澤が」
「ああ、勝手に盛り上がったのは周りだけど、発端になった責任感じてるんじゃないのか」
「なんで、いまさら」
「それはほら、あれだろ」
 星名が廊下の掲示板を指差す。文化祭のお知らせとともに大きく書かれているのは「プリコン」の文字。
「まあだから今年は大丈夫だろ」
 大丈夫というのはプリンセス部門にノミネートされないという意味で。そうであれば俺はわざわざプリンスを目指す必要もない。願ったり叶ったりじゃないか。
 それなのに窓の向こうの空と同じように、俺の胸は重苦しいままだ。

 相澤効果はすごかった。休み時間のたび、俺の元には去年の相澤のクラスメイトが次々謝りに来た。その光景をクラスのみんなが見ていて、星名が理由を説明するので、自然と「吉田をプリンセス部門にノミネートしてはいけない」という空気が作られる。本当に今年はもう大丈夫だろう。
 昼休みに入り、雨が降り始めた。
 窓を無数の雨粒が流れていく。外はどんより暗いからこそ教室内の明るさが目立つ。
「吉田、このあとヒマ?」
 お弁当をどこで食べようかと悩んでいると、不意に声をかけられた。顔を上げた先にいたのは、クラスのなかでも目立つ男子のグループだった。
「体育館でバスケやらね?」
 彼らが毎日昼休みにサッカーやバスケをギリギリまで楽しんでいるのは知っているけど、でも。
「なんで俺」
「だって体育のときすげえ上手かったじゃん」
 そうそう、とまわりも頷く。
「一緒にやろうぜ」
 きゅうっと胸が絞られ、熱くなる。ずっと望んでいた。こんなふうに話せる相手がほしかった。可愛いとか可愛くないとか、俺のせいでトラブルに巻き込まれるとか関係なくて。
 ヤンキーになんてならなくても、プリンスを目指さなくても、俺を俺のまま受け入れてほしかった。――願いはもう叶っていた。
「あ、あのさ、それ明日でもいいか?」
「明日?」
「ああ、今日はどうしても行かなきゃいけないところがあって」
「そうなんだ。全然いいよ」
「ありがとう」
 安堵とともにふわりと柔らかな風が胸に生まれる。俺にかけられた呪いはとっくに解けていた。俺はいま笑えているのだろう。俺の顔を見たひとたちが少し驚いたような顔をしているから。でも、足りない。相澤にもらった笑顔には足りない。星名と話すことができても、クラスメイトに話しかけられても、白川と仲直りできても。たったひとり、相澤が隣にいないだけで心から笑うことができない。
「じゃあ、明日また誘って」
 クラスメイトたちを残して教室を出る。俺はプリンセスじゃないけど、呪いを解くだけ解いて去るプリンスなんて許してたまるか。