生徒会室のドアの前、伸ばした手が止まる。
「相澤が言ってたの本当だったわ」
隙間から見えたのは星名の後ろ姿だった。このまま入っていいのか迷い、とりあえず様子を窺う。生徒会の話なら俺はいないほうがいいだろう。
「いままで気づかなかったけど、吉田ってすごい可愛い顔してるよな」
――俺の話?
なんで、と心臓が嫌な揺れ方をする。
「去年、なんで吉田がプリンセス部門にノミネートされたのかわからなかったけど、納得だわ」
いやいや納得しなくていいんだけど。このまま放っておくと今年は余計な一票(星名の分)が増えてしまいそうだ。それだけは阻止しなくては。
「おいっ、余計なこと」
「去年は相澤のおかげでノミネートされたけど、三位だっただろ。今年は優勝かもしれないな」
ドアを開けたのと、星名の言葉が聞こえたのはほぼ同時だった。
「吉田くん」
「吉田?」
相澤と星名が俺を振り返る。俺は入り口に立ったまま動けない。だって、いまのって。
「いやあ、俺ももっと早く気づいていたら入れてたんだけどな」
快活に笑った星名が、こちらへと歩いてくる。
「今年は俺も協力するな」
ぽんぽん、と大きな手で俺の肩を叩き、そのまま生徒会室を出ていく。「そんなことしなくていい」と言いたかったはずなのに、なにもできなかった。俺の意識は部屋の奥へ引きつけられてしまっていたから。
「……相澤」
相澤は俺を見つめたまま動かない。
「いまのって」
静かな室内で響くのは、俺の声と心臓の音。耳を内側から塞ぐように鼓動が鳴る。頭ではずっと星名の言葉が回り続けている。
――去年は相澤のおかげでノミネートされたけど、三位だっただろ。
「相澤のおかげって、どういう意味?」
――この『天使ちゃん』って、吉田らしいよ。
――えー、すっごい可愛いんだけど。
――ノミネートされるだけあるな。
風邪が治ってひさしぶりに登校したときの悪夢のような光景が蘇る。廊下にはプリコン候補者として写真が張り出され、昔のCMは知らないうちに拡散されていた。
「相澤が俺をノミネートさせるようにしたってこと?」
それは誤解だよ、と笑ってほしかった。星名が勘違いしているだけだよ、と。でも相澤は笑わない。それどころか、どこか悲しそうに顔を歪ませる。
「……狙ったわけじゃないんだ」
静かに息を吐き出した相澤が、ゆっくりと近づいてくる。
「でも、俺がきっかけになってしまったのは本当なんだ」
目の前で足を止めた相澤を見上げる。さらさらの前髪から覗く黒い瞳に俺の顔が映る。俺は自分でもどんな表情をしているのかわからない。
「ちゃんと話すから、聞いてほしい」
相澤が俺の両手を掬い上げる。掴むでも握るでもない。どうするかは俺の意思に委ねられていた。知りたいけど知るのがこわい。知ってしまったあと俺は相澤になにを思うのか。でも、もう逃げたくない。自分が傷つかないための理由を探してばかりいては、自分の望みさえ見えなくなってしまうから。
「――わかった」
俺は相澤を見つめたまま、自分から両手を握った。
昨日も使った椅子を机から引き出し、向かい合うようにして座る。一度離れた両手を俺から繋ぎ直す。ほんのわずか離していただけなのに、相澤の指先が冷たくなった気がした。
「アンケートが実施された日、僕はとても疲れていたんだ」
生徒会に入れるのは二年生からだったので、去年の相澤は文化祭実行委員をしていたらしい。
「大抵のことは余裕でこなす自信があるんだけどね。一緒にやっていた子は、そういう仕事があまり得意ではなかったみたいで」
「じゃあ、そいつは得意じゃないのに委員をやってたのか」
「ん、まあ、そうだね」
言葉を濁されたことで、逆に「そういうことか」と思い至る。相澤はモテる。少しでも近づこうと一緒に委員をやりたいやつはいっぱいいるだろう。
「アンケート用紙を配るのは任せていいということだったからお願いしたんだ。それで少しだけ眠気に負けていた時間があって」
――相澤くんは誰を書くのかな。
――相澤くんが可愛いって思うの誰なんだろう。
「そんな声が遠くに聞こえて、いつもなら聞こえないフリでもなんでもしたのだけど。夢と現実が曖昧な状態だったから、考えるより先に口が動いてしまったんだ」
――一番可愛いのは、吉田くんに決まってる。
「ずっと思っていたことだったから、自然と出てしまって」
「ずっと?」
一年生のときは同じクラスになっていないし、話したこともなかったはず。俺自身は常に気を張ってヤンキーらしくしていたはずで、可愛いと思われるような要素はなかったと思うのだが。
「うん。それで周りが急に吉田くんに興味を持ってしまって」
初めは冗談だと受け取られたが、そのうち誰かが『天使ちゃん』にたどり着いてしまった。そこからはあっという間だったという。
「良くも悪くもノリがいいクラスだったから。吉田くんをプリンセス部門にノミネートさせたら面白いんじゃないかって」
「……面白いって」
きっとそんなものだろうと思っていた。深くは考えず誰かが悪ノリした結果なのだろうと。だからこそ誰が言い出したのか、原因を作ったやつが許せなくて。今年は絶対に阻止してやると、相澤に協力を頼んだのに――その相澤こそが悪夢のきっかけだったなんて。
でも相澤なら止められたのではないか。相澤がひとことやめるように言えば、ここまでのことにはならなかったのではないか。相澤への信頼が高いからこそ結果への落胆が強く、裏切られた気がした。
だって、相澤も楽しんでいたということだろう。相澤は「ずっと」俺を可愛いと思っていたのだから。
「……俺がノミネートされて満足だった?」
「違う、僕は」
握っていた両手を振り払い、立ち上がる。後ろに倒れた椅子が静かな室内に音を響かせる。
「ずっと思ってたんだろ? 可愛いって。俺のこと馬鹿にしてたってことだろ?」
俺がしてきた努力は、相澤にとって「無駄な努力」にしか見えなかったってことじゃないか。
「違うよ。僕は馬鹿にしてなんか」
「同じだろ。俺のこと可愛いって思ってたんなら」
「それは」
俺を見上げたまま相澤が口を噤む。否定の言葉は出てこない。それが答えだった。
「じゃあ、俺に『プリンスにどうやったらなれるか教えてほしい』って言われて、内心笑ってた? そんなの無理だって思ってた?」
「そんなことない」
「じゃあなに? 罪悪感でもあった?」
「それは……なかったとは言えないけど、でも」
「もういいっ」
「吉田くん」
俺は伸ばされた手を初めて振り払った。
「もういい。もうやめよう」
特別だって言ったくせに。優しく見つめてきたくせに。いつだって笑いかけてくれたのに。全部申し訳なさからだったってことだろう。そんなのもういらない。
「もう十分だ。相澤はもう十分協力してくれたから。これ以上はいらない」
どうせ一週間の期限付きだ。終わりが決まっていたのだから、三日に短縮されようと大した問題じゃない。そう、初めからなにも「特別」なんかじゃなかった。
「――わかった」
「……っ」
俺は自分の希望通りになったのにちっとも嬉しくなくて。胸の奥が痛くてたまらなくて。俺は俺の望みをまた間違えたんだと気づいてしまう。
俺は相澤に「一週間は必要だからやめられない」と言ってほしかった。自分から終わらせると言いながら、いつものようになんだかんだ相澤に説得されてしまうのを期待していた。――でも、もう遅い。約束はいまこの瞬間に消えてしまった。俺が自分から断ち切ったのだ。
「吉田くん……」
俺は俯いたまま動けない。部屋を出なくてはと思うのに、視界はずっと向かい合う上履きを映す。
――きみが可愛いからいけないんだよ。
あの日かけられた呪いの言葉が頭を過ぎる。そうだ、全部俺が悪い。俺がこんな見た目じゃなければ何も起こらなかった。相澤に気づかれないくらい俺が上手くできていればこんなことにはならなかった。……俺が相澤に勝手に期待したから。理由なく受け入れてほしいなんて願ってしまったから。だからいま、こんなにも苦しい。
震えかけた唇をぐっと噛み締めると、視界にふっと影が落ちた。
「ごめんね」
ぽつりと足元に言葉が落ちてくる。
立ち上がった相澤が横を過ぎていく。
遠ざかる足音を俺はただ聞いていることしかできない。
「吉田くん」
こんなふうに名前を呼ばれるのも最後だろうか。そっと顔を上げれば、ドアの前で振り返った相澤と目が合う。俺がここに来てから初めて相澤が笑顔を見せた。
なにか言わないと。揺れた心のままに口を開きかけるが、俺が声に出すより早く、思いがけない言葉が耳に届いた。
「僕ね、小学生のとき車で連れ去られそうになったことがあるんだ」
「相澤が言ってたの本当だったわ」
隙間から見えたのは星名の後ろ姿だった。このまま入っていいのか迷い、とりあえず様子を窺う。生徒会の話なら俺はいないほうがいいだろう。
「いままで気づかなかったけど、吉田ってすごい可愛い顔してるよな」
――俺の話?
なんで、と心臓が嫌な揺れ方をする。
「去年、なんで吉田がプリンセス部門にノミネートされたのかわからなかったけど、納得だわ」
いやいや納得しなくていいんだけど。このまま放っておくと今年は余計な一票(星名の分)が増えてしまいそうだ。それだけは阻止しなくては。
「おいっ、余計なこと」
「去年は相澤のおかげでノミネートされたけど、三位だっただろ。今年は優勝かもしれないな」
ドアを開けたのと、星名の言葉が聞こえたのはほぼ同時だった。
「吉田くん」
「吉田?」
相澤と星名が俺を振り返る。俺は入り口に立ったまま動けない。だって、いまのって。
「いやあ、俺ももっと早く気づいていたら入れてたんだけどな」
快活に笑った星名が、こちらへと歩いてくる。
「今年は俺も協力するな」
ぽんぽん、と大きな手で俺の肩を叩き、そのまま生徒会室を出ていく。「そんなことしなくていい」と言いたかったはずなのに、なにもできなかった。俺の意識は部屋の奥へ引きつけられてしまっていたから。
「……相澤」
相澤は俺を見つめたまま動かない。
「いまのって」
静かな室内で響くのは、俺の声と心臓の音。耳を内側から塞ぐように鼓動が鳴る。頭ではずっと星名の言葉が回り続けている。
――去年は相澤のおかげでノミネートされたけど、三位だっただろ。
「相澤のおかげって、どういう意味?」
――この『天使ちゃん』って、吉田らしいよ。
――えー、すっごい可愛いんだけど。
――ノミネートされるだけあるな。
風邪が治ってひさしぶりに登校したときの悪夢のような光景が蘇る。廊下にはプリコン候補者として写真が張り出され、昔のCMは知らないうちに拡散されていた。
「相澤が俺をノミネートさせるようにしたってこと?」
それは誤解だよ、と笑ってほしかった。星名が勘違いしているだけだよ、と。でも相澤は笑わない。それどころか、どこか悲しそうに顔を歪ませる。
「……狙ったわけじゃないんだ」
静かに息を吐き出した相澤が、ゆっくりと近づいてくる。
「でも、俺がきっかけになってしまったのは本当なんだ」
目の前で足を止めた相澤を見上げる。さらさらの前髪から覗く黒い瞳に俺の顔が映る。俺は自分でもどんな表情をしているのかわからない。
「ちゃんと話すから、聞いてほしい」
相澤が俺の両手を掬い上げる。掴むでも握るでもない。どうするかは俺の意思に委ねられていた。知りたいけど知るのがこわい。知ってしまったあと俺は相澤になにを思うのか。でも、もう逃げたくない。自分が傷つかないための理由を探してばかりいては、自分の望みさえ見えなくなってしまうから。
「――わかった」
俺は相澤を見つめたまま、自分から両手を握った。
昨日も使った椅子を机から引き出し、向かい合うようにして座る。一度離れた両手を俺から繋ぎ直す。ほんのわずか離していただけなのに、相澤の指先が冷たくなった気がした。
「アンケートが実施された日、僕はとても疲れていたんだ」
生徒会に入れるのは二年生からだったので、去年の相澤は文化祭実行委員をしていたらしい。
「大抵のことは余裕でこなす自信があるんだけどね。一緒にやっていた子は、そういう仕事があまり得意ではなかったみたいで」
「じゃあ、そいつは得意じゃないのに委員をやってたのか」
「ん、まあ、そうだね」
言葉を濁されたことで、逆に「そういうことか」と思い至る。相澤はモテる。少しでも近づこうと一緒に委員をやりたいやつはいっぱいいるだろう。
「アンケート用紙を配るのは任せていいということだったからお願いしたんだ。それで少しだけ眠気に負けていた時間があって」
――相澤くんは誰を書くのかな。
――相澤くんが可愛いって思うの誰なんだろう。
「そんな声が遠くに聞こえて、いつもなら聞こえないフリでもなんでもしたのだけど。夢と現実が曖昧な状態だったから、考えるより先に口が動いてしまったんだ」
――一番可愛いのは、吉田くんに決まってる。
「ずっと思っていたことだったから、自然と出てしまって」
「ずっと?」
一年生のときは同じクラスになっていないし、話したこともなかったはず。俺自身は常に気を張ってヤンキーらしくしていたはずで、可愛いと思われるような要素はなかったと思うのだが。
「うん。それで周りが急に吉田くんに興味を持ってしまって」
初めは冗談だと受け取られたが、そのうち誰かが『天使ちゃん』にたどり着いてしまった。そこからはあっという間だったという。
「良くも悪くもノリがいいクラスだったから。吉田くんをプリンセス部門にノミネートさせたら面白いんじゃないかって」
「……面白いって」
きっとそんなものだろうと思っていた。深くは考えず誰かが悪ノリした結果なのだろうと。だからこそ誰が言い出したのか、原因を作ったやつが許せなくて。今年は絶対に阻止してやると、相澤に協力を頼んだのに――その相澤こそが悪夢のきっかけだったなんて。
でも相澤なら止められたのではないか。相澤がひとことやめるように言えば、ここまでのことにはならなかったのではないか。相澤への信頼が高いからこそ結果への落胆が強く、裏切られた気がした。
だって、相澤も楽しんでいたということだろう。相澤は「ずっと」俺を可愛いと思っていたのだから。
「……俺がノミネートされて満足だった?」
「違う、僕は」
握っていた両手を振り払い、立ち上がる。後ろに倒れた椅子が静かな室内に音を響かせる。
「ずっと思ってたんだろ? 可愛いって。俺のこと馬鹿にしてたってことだろ?」
俺がしてきた努力は、相澤にとって「無駄な努力」にしか見えなかったってことじゃないか。
「違うよ。僕は馬鹿にしてなんか」
「同じだろ。俺のこと可愛いって思ってたんなら」
「それは」
俺を見上げたまま相澤が口を噤む。否定の言葉は出てこない。それが答えだった。
「じゃあ、俺に『プリンスにどうやったらなれるか教えてほしい』って言われて、内心笑ってた? そんなの無理だって思ってた?」
「そんなことない」
「じゃあなに? 罪悪感でもあった?」
「それは……なかったとは言えないけど、でも」
「もういいっ」
「吉田くん」
俺は伸ばされた手を初めて振り払った。
「もういい。もうやめよう」
特別だって言ったくせに。優しく見つめてきたくせに。いつだって笑いかけてくれたのに。全部申し訳なさからだったってことだろう。そんなのもういらない。
「もう十分だ。相澤はもう十分協力してくれたから。これ以上はいらない」
どうせ一週間の期限付きだ。終わりが決まっていたのだから、三日に短縮されようと大した問題じゃない。そう、初めからなにも「特別」なんかじゃなかった。
「――わかった」
「……っ」
俺は自分の希望通りになったのにちっとも嬉しくなくて。胸の奥が痛くてたまらなくて。俺は俺の望みをまた間違えたんだと気づいてしまう。
俺は相澤に「一週間は必要だからやめられない」と言ってほしかった。自分から終わらせると言いながら、いつものようになんだかんだ相澤に説得されてしまうのを期待していた。――でも、もう遅い。約束はいまこの瞬間に消えてしまった。俺が自分から断ち切ったのだ。
「吉田くん……」
俺は俯いたまま動けない。部屋を出なくてはと思うのに、視界はずっと向かい合う上履きを映す。
――きみが可愛いからいけないんだよ。
あの日かけられた呪いの言葉が頭を過ぎる。そうだ、全部俺が悪い。俺がこんな見た目じゃなければ何も起こらなかった。相澤に気づかれないくらい俺が上手くできていればこんなことにはならなかった。……俺が相澤に勝手に期待したから。理由なく受け入れてほしいなんて願ってしまったから。だからいま、こんなにも苦しい。
震えかけた唇をぐっと噛み締めると、視界にふっと影が落ちた。
「ごめんね」
ぽつりと足元に言葉が落ちてくる。
立ち上がった相澤が横を過ぎていく。
遠ざかる足音を俺はただ聞いていることしかできない。
「吉田くん」
こんなふうに名前を呼ばれるのも最後だろうか。そっと顔を上げれば、ドアの前で振り返った相澤と目が合う。俺がここに来てから初めて相澤が笑顔を見せた。
なにか言わないと。揺れた心のままに口を開きかけるが、俺が声に出すより早く、思いがけない言葉が耳に届いた。
「僕ね、小学生のとき車で連れ去られそうになったことがあるんだ」



