検証実験の結果、予期せぬ感情が芽生えました

 月曜日になった。
 ぼくは覚悟ができないままだった。
 早めに登校したからか、夢野の姿はなかった。
 とりあえずは胸をなでおろし、気持ちを落ち着かせようとお気に入りの哲学書を開いた。
 しかし、目が滑ってまったく頭に入ってこない。

「航樹のやつ、インフルになったらしい」

 突然、刈谷の声が耳に入ってきた。

「ガチ? だから金曜は調子悪そうだったのかな?」
「かもな。昼も元気なかったしな」

 続いて聞こえた声で、ぼくはどきりと心臓を跳ねさせた。
 週末悩んだすべては、思い過ごしだったのだろうか。
 
 ——かもしれない。
 
 いつもなら反証可能性をひとつずつつぶしていき、妥当なところで答えを出すよう徹底していた。
 しかし今のぼくはなんの根拠もない刈谷たちの言葉を鵜呑みにした。安堵に身を委ねて悪かろうか。

 翌日も夢野は欠席だった。
 インフルエンザであれば当然だ。いつ発熱したかに寄るが、火曜に登校してくるのは可能性として低い。
 だからと安堵したままだったぼくだが、時を追うごとにそわそわとして落ち着かなくなってきた。
 夢野の話によれば、ご両親は多忙で夕食づくりもままならないほどだ。兄弟たちは全員学生で、学校へ行っているはずだ。もしくは同様に罹患している可能性もある。
 ともすれば高熱を出している状態で、誰の看病も受けていない可能性が考えられる。

 ぼくは心配でたまらなくなった。
 インフルエンザに罹るとひどく辛い。
 喉が乾いても取りに立ち上がれないし、トイレにもやっとだ。
 ぼくが罹患したときは母の世話に頼りきりだった。汗をかけばタオルと着替えを用意してくれ、食欲が出てくるとすぐにおかゆをつくってくれた。
 夢野はそんな世話もなく、ひとりで苦しんでいる。

 彼の柔らかな笑みが苦痛に歪んでいると思うと、授業に集中できなくなった。

「体調が優れないので、早退の許可をいただきたいのですが」

 ぼくは生まれて初めてサボるという体験した。
 自分がするなんて想像もしていなかった。
 あっけなくも疑われず、ぼくは午前最後の授業を残して夢野の家へ急いだ。
 電車に乗ったあと、看病の方法をネットで調べた。
 スーパーに寄って手当たり次第の飲み物や経口タイプの栄養食品を購入した。
 そこでふと夢野に連絡していないことに思い至った。

 なんて送ればいい?
 ぼくは両親ともろくにメール送り合わない。
 夢野とも毎日学校で顔を合わせていて、連絡する必要に駆られたことがなかった。
 
 文面を考えているうちにマンションへ到着し、インターホン前で慌てて入力した。

『今ロビーにいる。必要と思われる品を購入してきた』

 簡潔かつ目的も告げている。
 これでいい、とぼくは送信し、インターホンを鳴らして待った。

 二分ほどしてスピーカーから気だるそうな夢野の声が聞こえてきた。

『……はい』
「ぼくだ。鈴白だ。メールは見たか?」
『…………えっ?』

 やはり、だいぶ体調が悪いらしい。
 驚きの声がしたっきり、いっさいの声と物音が聞こえなくなってしまった。

「開けてくれないか?」

 返事はなかったが、ドアが開いた。
 ぼくは袋の持ち手を握りしめ、夢野の部屋へ向かった。
 頭のなかで看病のあらゆるシミュレーションをしながらだ。

「……いきなりすぎない?」

 迎え入れてくれた夢野は汗びっしょりで、顔色は真っ赤だった。息も切れている。
 支えねばと、とっさにぼくは彼の腕を取り、自分の肩に回した。
 夢野は身体をびくつかせて少し抵抗を見せたが、ぼくが構わず部屋へ向かい出すと諦めたように身体を預けてきた。

「看病に来た」
「それはわかるけど、理由がわかんないんだって」
「友達だからだ」
 
 ベッドに寝かせてやると、困惑した瞳がぼくを見上げた。

「ぼくは夢野くんと友達のつもりだ。……友達とは可能な限り助けになるものだろう? 着替えはどこに仕舞ってある?」

 キョロキョロとすると、夢野の噴き出す声が聞こえた。

「クローゼットのなか、プラスチックケースの下から二番目だけど、自分でやるからいいよ」
「とんでもない。寝ていたほうがいい」

 ぼくはさっそく引き出しを探って、下着らしきシャツとトランクスを引っ張り出した。
 他人の下着を触るのは生まれて初めてだ。
 奇妙な緊張感を覚えつつ夢野に渡すと、恥ずかしげな目を向けられた。
 看病のシミュレーションでは、手伝うべきとある。
 けど、夢野がシャツを脱ぐと肌があらわになる。
 ぼくは体温が上昇するのを自覚して、立ち上がった。

「購入してきたものを冷蔵庫へ仕舞ってくる。とりあえずはポカリスエットでいいだろうか?」
「……ああ。ありがとう」

 部屋を出ても心臓がバクバクとしていた。
 看病をするために来たというのに、のっけからこれじゃダメだ。
 キッチンへ来たぼくは、断りもせず米を研ぎ出した。いつもの癖で、頭が回っていなかった。
 さらにはスープをつくろうと野菜を引っ張り出し、鍋に火をかけながらカットし始めた。
 そのとき、ふらついた足取りで夢野がやってきた。

「……なにつくってるの?」
「おかゆだ。あとスープも……」

 そこでようやくぼくは気がついた。

「勝手に済まない。ご両親は不在だろうと思って」
「いいよ。ひとりじゃ何にもできなかったし、腹減ってたんだ……だから嬉しい。ありがとう」

 夢野はダイニングテーブルに腰を下ろして、真っ赤な顔で微笑んだ。
 ぼくは胸が締め付けられたみたいになった。
 包丁を持つ手が震え、慌てて視線を落とすとキャベツが赤く染まり始めていた。
 数秒ほど思考が停止し、指を切ったことに気がついて急いで蛇口をひねる。

「どうした?」
「大したことではない」
「指切った?」
「……食材を無駄にして済まない」
「そんなのどうでもいいよ。どれくらい深い? 絆創膏でなんとかなるかな?」

 夢野はリビングのチェストをゴソゴソとやって、ふらついた足でぼくの横へやってきた。

「済まない。きみに迷惑をかけてしまった」
「友達には迷惑をかけるものじゃん。いいから手貸して」

 夢野は立っているのもやっとのはずだ。なのに、丁寧にぼくの指に絆創膏を貼ってくれた。
 ぼくは泣いてしまいそうだった。
 情けなさが理由の大半だが、嬉しくて胸がいっぱいだった。
 夢野とまた会話をできたこと、笑顔を向けてもらえたこと。
 友達と言ってくれたこと。

「料理はとりあえずいいよ。だるいから部屋に連れて行ってくれる?」

 夢野が覗き込んできて、ぼくは頷いた。
 すると堪えきれずに涙が頬に伝っていった。
 夢野の瞳は心配げに揺れたが、口元の笑みは暖かさに満ちたままだった。

 この笑みが大好きだ。
 ずっと見ていたい。いつもぼくに向けていて欲しい。
 そのためにはどうしたらいい?