大事な話があると両親に言われたとき、ぼくはドイツ語の勉強をしていた。
ジークムント・フロイトの「夢判断」を原著で読んでみたかったからだ。
集中していたところで中断するのは好かないが、両親の頼みは聞かなければならない。
ぼくは本を閉じて階下へ向かった。
「真琴、よく聞いて。友達をつくったほうがいいわ」
ふたり揃って大真面目な顔をしているから何ごとかと思った。
またその話か。
「そうだね。努力はしてるよ」
「これまでの努力じゃ足りない。観察や考察はやめて、そろそろ実証に移行して欲しいの」
「……してるよ」
「だったら今日喋った子の名前を教えて?」
ぼくは返答に窮した。数秒ほど記憶を探って、適当なクラスメイトの名前を名簿から参照する。
「夢野航樹くん」
「夢野くん……そう。どんなことを話したの? 互いをなんて呼んでるの?」
こういうときは間髪入れずに答えちゃいけない。考えているように思える間もだめだ。思い出すといった素振りが必要となる。
「えっと……具体的な内容は思い出せないな。他愛もない話だから。クラスメイトのこととか、夢野くんの読んでいる本の話とか」
「夢野くんも本が好きなのね」
ぼくは夢野の様子を参照した。
進んで読書をしている素振りはない。ぼくと共通する性質や趣味は思い当たらない。
しかし、彼は目立つ。二年で同じクラスになったが、毎日視界に入るし声もよく通る。だから誰よりも記憶が鮮明で、虚偽に利用しやすい。
「ぼくが貸したんだ。普段はあまり読まないみたい」
「……そう。なにを貸したの?」
彼ならなにを読むだろう?
——まったくわからない。
「『ソクラテスの弁明』だよ」
疑わしげな顔を向けられて、失敗したとぼくは慌てた。
「えっと、ぼくは夢野くんと呼んでる。夢野くんは鈴白って呼んでくれている。まだ友達になって日が浅いんだ」
これは事実だった。一度だけ呼ばれたことがある。いや、二度か……もっとあった気もする。
考えていると、なぜ夢野を挙げたのかの理由が見えてきた。
彼が一番ぼくに話しかけてくれていた。
授業や行事に必要なときを除けば、唯一かもしれない。
「だったらいいんだけど……社会に出たら今までとは同じようにはいかないの」
「そうだ。他人と関わっていかなきゃならない。少しは他人に興味を持つようにしていきなさい」
両親は高校を卒業したあとのことを心配している。大学、就職と人と関わることが増えていく。
両親や教師、店員くらいしかろくに会話をしたことのないぼくに不安を抱いているのだろう。
懸念は十分に理解できる。
であるなら、虚偽を事実に変えつつ、友人とはなにかの検証をしてみよう。彼なら適任だ。
「おはよう。夢野くん」
ぼくは次の日に早速、夢野に声をかけてみた。
夢野は驚いた顔で二秒ほど制止したあと、くしゃりと笑みになった。
「はよ。どうした? まさかクリーニングタグとかついてた?」
夢野は襟足あたりに手を伸ばして、探るような動きをした。
「ついていない。挨拶しただけだ」
「よかった。何日このままだったんだろって、めっちゃビビった」
夢野を選んでよかった。
とりあえず挨拶からとの予定で、上手く行かなければすぐに去ろうとしたのだが、話をつなげてくれている。
彼は優しい。推測の正しさに満足して、検証を続けることにした。
共通した興味の確認だ。
「『ソクラテスの弁明』を読んだ経験は?」
「へっ?」
「『ソクラテスの弁明』だ」
「……なんだっけ、それ……聞いたことあるような……」
「倫理の授業の際に出てきた。夢野くんは『面白そう』だと言っていた」
「ガチで? 俺そんなこと言ったっけ?」
「……なるほど」
どうやら場の空気を盛り上げるための言葉だったらしい。
倫理の教師は生徒の感心を買おうと必死になるタイプなので、気遣ってやったのだろう。
「あ、ちょっと待って。それって、弟子が師匠の思想を書いたやつ? 処刑されるときの」
「概ねそのような形式といえる」
「だったら言ったかも。面白そうって思った。読みやすいって言ってたし、ソクラテスってかっこいいとか思って」
「同感だ。ならば読んでみるか?」
ぼくは目を丸くした夢野に文庫本を差し出した。声をかけるまえに準備していた。
「……これ、鈴白の?」
「そうだ。返却はいつでも構わない。ぼくはもう読み終えている」
「ガチ? ……ありがとう。てか、このために声かけてくれたの?」
「そうだ。他にも理由がある」
「えっ、なに?」
「ぼくと友達になって欲しい」
夢野は驚きっぱなしだった。けれど不快そうな印象は受けなかった。どちらかと言えば、意表を突かれたが喜ばしいといった感情を読み取れた。
ぼくは満足した。
夢野ならぼくを拒否したりはしないと思った。
おそらくだが、夢野がだめなら、ぼくに友人はできない。
彼ほど分け隔てなく人と接することのできる生徒はいないからだ。
多くの人に好かれていて、いつも陽気で場の空気を明るくさせる。彼を観察し、対話することによって学んでいこうと思う。
他者とコミュニケーションを取るにはどうすべきかということを。
ジークムント・フロイトの「夢判断」を原著で読んでみたかったからだ。
集中していたところで中断するのは好かないが、両親の頼みは聞かなければならない。
ぼくは本を閉じて階下へ向かった。
「真琴、よく聞いて。友達をつくったほうがいいわ」
ふたり揃って大真面目な顔をしているから何ごとかと思った。
またその話か。
「そうだね。努力はしてるよ」
「これまでの努力じゃ足りない。観察や考察はやめて、そろそろ実証に移行して欲しいの」
「……してるよ」
「だったら今日喋った子の名前を教えて?」
ぼくは返答に窮した。数秒ほど記憶を探って、適当なクラスメイトの名前を名簿から参照する。
「夢野航樹くん」
「夢野くん……そう。どんなことを話したの? 互いをなんて呼んでるの?」
こういうときは間髪入れずに答えちゃいけない。考えているように思える間もだめだ。思い出すといった素振りが必要となる。
「えっと……具体的な内容は思い出せないな。他愛もない話だから。クラスメイトのこととか、夢野くんの読んでいる本の話とか」
「夢野くんも本が好きなのね」
ぼくは夢野の様子を参照した。
進んで読書をしている素振りはない。ぼくと共通する性質や趣味は思い当たらない。
しかし、彼は目立つ。二年で同じクラスになったが、毎日視界に入るし声もよく通る。だから誰よりも記憶が鮮明で、虚偽に利用しやすい。
「ぼくが貸したんだ。普段はあまり読まないみたい」
「……そう。なにを貸したの?」
彼ならなにを読むだろう?
——まったくわからない。
「『ソクラテスの弁明』だよ」
疑わしげな顔を向けられて、失敗したとぼくは慌てた。
「えっと、ぼくは夢野くんと呼んでる。夢野くんは鈴白って呼んでくれている。まだ友達になって日が浅いんだ」
これは事実だった。一度だけ呼ばれたことがある。いや、二度か……もっとあった気もする。
考えていると、なぜ夢野を挙げたのかの理由が見えてきた。
彼が一番ぼくに話しかけてくれていた。
授業や行事に必要なときを除けば、唯一かもしれない。
「だったらいいんだけど……社会に出たら今までとは同じようにはいかないの」
「そうだ。他人と関わっていかなきゃならない。少しは他人に興味を持つようにしていきなさい」
両親は高校を卒業したあとのことを心配している。大学、就職と人と関わることが増えていく。
両親や教師、店員くらいしかろくに会話をしたことのないぼくに不安を抱いているのだろう。
懸念は十分に理解できる。
であるなら、虚偽を事実に変えつつ、友人とはなにかの検証をしてみよう。彼なら適任だ。
「おはよう。夢野くん」
ぼくは次の日に早速、夢野に声をかけてみた。
夢野は驚いた顔で二秒ほど制止したあと、くしゃりと笑みになった。
「はよ。どうした? まさかクリーニングタグとかついてた?」
夢野は襟足あたりに手を伸ばして、探るような動きをした。
「ついていない。挨拶しただけだ」
「よかった。何日このままだったんだろって、めっちゃビビった」
夢野を選んでよかった。
とりあえず挨拶からとの予定で、上手く行かなければすぐに去ろうとしたのだが、話をつなげてくれている。
彼は優しい。推測の正しさに満足して、検証を続けることにした。
共通した興味の確認だ。
「『ソクラテスの弁明』を読んだ経験は?」
「へっ?」
「『ソクラテスの弁明』だ」
「……なんだっけ、それ……聞いたことあるような……」
「倫理の授業の際に出てきた。夢野くんは『面白そう』だと言っていた」
「ガチで? 俺そんなこと言ったっけ?」
「……なるほど」
どうやら場の空気を盛り上げるための言葉だったらしい。
倫理の教師は生徒の感心を買おうと必死になるタイプなので、気遣ってやったのだろう。
「あ、ちょっと待って。それって、弟子が師匠の思想を書いたやつ? 処刑されるときの」
「概ねそのような形式といえる」
「だったら言ったかも。面白そうって思った。読みやすいって言ってたし、ソクラテスってかっこいいとか思って」
「同感だ。ならば読んでみるか?」
ぼくは目を丸くした夢野に文庫本を差し出した。声をかけるまえに準備していた。
「……これ、鈴白の?」
「そうだ。返却はいつでも構わない。ぼくはもう読み終えている」
「ガチ? ……ありがとう。てか、このために声かけてくれたの?」
「そうだ。他にも理由がある」
「えっ、なに?」
「ぼくと友達になって欲しい」
夢野は驚きっぱなしだった。けれど不快そうな印象は受けなかった。どちらかと言えば、意表を突かれたが喜ばしいといった感情を読み取れた。
ぼくは満足した。
夢野ならぼくを拒否したりはしないと思った。
おそらくだが、夢野がだめなら、ぼくに友人はできない。
彼ほど分け隔てなく人と接することのできる生徒はいないからだ。
多くの人に好かれていて、いつも陽気で場の空気を明るくさせる。彼を観察し、対話することによって学んでいこうと思う。
他者とコミュニケーションを取るにはどうすべきかということを。



