獅子は蝶と戯れる~再会した若君に溺愛されています~

「私の妻になってくれないか?」

街で偶然出会った白銀の髪の青年に呼び止められた瞬間、私は心底驚いた。
「な。」
 燃える炎のような赤い瞳。
「な?」
 美しいという言葉がぴたりと当てはまる整った顔立ち。
「な。」
 そんな人が、私に突然求婚を?
「な?」
 それは――
「な。」
 運命と呼ぶにはほど遠い。
「何かの間違いです!」
 私はひらりと身を翻し、雑踏の中へと逃げ込んだ。

「おやおや。坊ちゃん、ネズミに逃げられてしまったようですねぇ。」
 お付きの老婆、糸がくすりと笑う。
「糸。彼女をネズミと呼ぶのはやめてくれ。あの子は…蝶だ。」
 青年は涼やかな眼差しで、彼女が去っていった方角を見つめ続ける。
「追いかけたらどうです。落とし物もあるようですし。」
 糸はそう言って、桜の刺繍が施された巾着袋を拾い上げた。

「求婚されるなら、真白のような猫の化身が良かったなぁ。」
 千代はふと、幼い頃に母が拾ってきた白猫のことを思い出した。
 腕の中で丸くなり、冬の夜には小さな体でそっと温もりをくれた、あの子。
「瞳の色だけは、さっきの方と同じだったなぁ。」
 燃えるような赤い瞳。
 けれどその猫は、ある日突然姿を消した。
 続くように母も亡くなり、父は子連れの女性と再婚した。
 義理の母と姉は、千代に向けるまなざしだけがいつも冷たかった。

「お塩とお砂糖を下さい。」
 商店でそう告げた瞬間、千代は息を呑んだ。
 銭を入れた巾着袋がない。
 血の気が引き、指先まで冷たくなる。
 落としたのだろう。しかし、それを信じてくれる者はいない。
 震えが止まらなかった。

 来た道を必死に戻ってみても、巾着袋はどこにも見当たらない。
 夕空は千代の胸の内と同じように橙色に沈み、彼女は帰るほかなくなった。
 家路は、ひどく重かった。

「盗人め!」
 予感していた通り、義母の平手が千代の頬を打った。
「申し訳ありません…巾着袋を落としてしまって。」
「嘘をつくんじゃない!」
 側にあった湯呑の茶が頭から浴びせられ、千代の瞳に涙が滲む。
「お母さま、身包み引っ剥がした方がよくなくて? 隠し持っているかもしれませんわ。」
「佳奈子、いいことを言うわね。」
 意地悪な義姉の提案に、義母はすぐ乗り気になった。
 千代は思わず一歩、後ずさる。
「私の着物はこれ一着しかありません。どうか…お許しください。お願いです。」
 必死に願い出るが、かちかちと奥歯が鳴るのを止められない。
「お黙り!」
 義母は千代の帯を乱暴に引き、着物を裂いた。
「いやあっ! お父さま、助けて!」
 千代の叫びは虚しく響く。父は見て見ぬふりをし、本へ視線を落としたままだ。
「抵抗するんじゃない!」
 義母の罵声が部屋に飛び散った。

 肌着姿のまま蔵に閉じ込められた千代は、ぼろぼろと涙をこぼした。
「ここでは誰も私を信じてくれない。助けてくれない。愛してくれない…。」
当たり前のことを口にしてしまった自分が、ますます情けなく思えてくる。他に行く場所などどこにもないというのに。
「もう、死んじゃいたい…。」
 嗚咽を繰り返す千代の耳に、ふいに天から声が降りてきた。
「だったら、私の元へ来ないか?」
 柔らかな声に、はっとして目を開ける。
 夜が明けていたらしく、蔵の扉が開き、久しぶりの日差しが目に眩しかった。
「千代。」
 助けに来てくれたのは父だった。
「お前に、縁談の話が来た。」

 父は煙草をふかしながら、義母へと静かに言った。
「縁談の席で肌着のままでは流石に困る。着物を用意してやってくれないか。」
「そうねぇ…ドブネズミに似合う着物を選ばなくちゃねぇ。」
 義母と義姉は面白がるようにクスクスと笑い合った。
 千代は正座したまま、膝の上で握った拳をぎゅっと強くした。
「今日、問屋を家に招くつもりだ。千代の着物もそこで見繕ってやってくれ。」
「お父さま、私の着物も買ってくださるの?」
千代が思わず顔を上げると、父はこれまで見せたことのない、にこやかな笑みを浮かべた。
「好きなだけ買いなさい。お前には孔雀家から縁談が来ているのだから。」
「お父さま…大好き!」

 家の応接間には、色とりどりの反物が広げられていた。
「お嬢様には、紅色の生地に菊の紋様をあしらった着物がお似合いになると思いますよ。艶やかで、お顔にもよく映えます。」
 そう勧められた佳奈子は満更でもない様子で、反物を抱えて鏡に向かい、あらゆる角度から自分を映していた。一方、千代は部屋の片隅で身を縮めていた。自分には選ぶ権利などない――その事実を誰よりも理解していた。

 想像していた通り、佳奈子の着物選びが終わると、義母は問屋の女性主人に何やら耳打ちをし、その日の支度はそれで終わった。
「黄金色の帯がよく似合っているよ。」
 父は嬉しそうに頬をゆるめる。艶やかに着飾った義姉の隣で、千代は浮かない表情をしていた。千代に与えられた着物は、黒一色だった。
「あんたには喪服がよくお似合いだわ。」
 佳奈子は実に愉快そうに笑う。千代は唇を噛みしめ、震える声を絞り出した。
「私のお相手は…どんな方なんですか、お父さま。」
「しし家?と言ったかな。知らん家柄の者だ。くれぐれも粗相のないようにな。さっさと出て行け。」
 父の冷たい言葉が、千代の胸に重く沈んだ。

 佳奈子の夫となるべく孔雀家の男性は、自ら実家を訪ねてくるのだという。
 その対照的に、私は――追い出されるように嫁ぎ先へ向かうことになった。

 けれど、どんな家であろうと、実家にいるよりはきっとましだ。そう信じたかった。
 紙に書かれた住所を頼りに電車を乗り継ぎ、さらに徒歩で一時間ほど歩く。
 山のふもとに建つその家は、想像以上に古く、そして大きかった。
 門の前には、小柄な老婆がひとり、待っていた。
「まあまあ…千代さま、でございますね。」
「…よろしくお願いします。」
 消え入りそうな声で挨拶すると、老婆はぱっと顔を輝かせた。
「私は糸と申します。坊ちゃんは千代さまにお会いできるのを、それはそれは心待ちにしておりましたよ。さあ、どうぞ中へ。」
 土間を抜け、奥へ進む。
 一室の前で糸は膝をつき、私もそれにならった。
「幸文さま。奥さまとなられる方がお見えになりました。」
「入れ。」
 低く落ち着いた声が響く。
 糸が静かに障子を開けるが、私は顔を上げられない。
 化粧もしていない。嫌われたらどうしよう――胸がきゅっと縮む。
「なぜ顔を伏せている。」
 あれ?どこかで聞いたことのある声だ。
「お初にお目にかかります。千代と申します。」

 意を決して顔を上げると、そこにいた青年は白銀の髪と赤い瞳を持つ、美しい人だった。
 片眉をわずかに吊り上げる。
「なぜ喪服を着ている。」
「えっ…。」
突っ込まれる覚悟はしていたが、こんなに早いとは思わなかった。
「誰かの喪に服しているわけではあるまい。」
「…恥ずかしながら、着物がこれしか持ち合わせておりませんで。」
 事実を告げると、幸文と名乗った青年はしばし考えるように黙し、やがて立ち上がって私のそばへ歩み寄った。
 背後に腕を回し、そっと包み込む。
「私の妻になってくれないか。」
「…そのために、この家に参りました。」
「嫌々なのか。」
「め、滅相もございません!ただ…。」
「ただ?」
「…私のどこがお気に召したのでしょうか。」
「すべてだ。」
 思いがけない返答に、言葉が喉で止まった。
「坊ちゃんったら。乙女心というものを、ご存じありませんねぇ。」
 糸が呆れたように言うと、幸文は慌てて身を引き、空になった手を見つめる。
 私は恥ずかしさで体が熱くなるのを抑えられない。
「千代さまは、まだ幸文さまのことを何もご存じないのですよ。順を追って説明なさるべきです。」
 糸がきっぱりと言い、私は幸文から視線をそらした。
「旦那様…今日は疲れました。寝させてください」
「あ、ああ。寝室はここだ。糸、布団の用意を。」
 糸は手を頬に当てて目を丸くした。
「まあ、千代さまったら。私は出過ぎたことを申しましたね。着物を脱ぐお手伝いをいたしますよ。」
「…え。」

 まさかの。まさかのまさかの展開。
 私のほうから夜伽を申し込んでしまった…!しかも、まだ日も沈んでいないというのに。
「寝たいのだろう。私の腕の中で眠れ。」
 そろそろと布団に潜り込むと、幸文と目線がばっちり合ってしまった。
 …気まずい。
「そう怯えるな。襲いはしない。」
 私は糸が出ていった障子を見つめながら、小刻みに震えていた。
「そんなに寒いのか?それとも…そんなに私が怖いのか?あの家でされてきたことを思えば、温かい布団の中で一夜を過ごせるだけマシだろう。」
 それは…そうだ。けれど。
「蔵の中で一晩過ごすなど、考えただけで私は寒い。」
「何故それをご存知で?」
 幸文は長い指先で私の髪に触れた。
「私は獅子家の一族の者だ。前世は猫だった。真白のことは忘れてしまったか?」
 私の腕の中で丸くなっていた猫。突然姿を消した猫。それが…。
「あなた、真白なの!?」
 自分でも驚くほど大きな声が出てしまったようで、幸文は耳を指で塞いでいる。
「すぐに信じろとは言わない。だが私は君を見て、一目で千代だと分かったぞ。」
 ため息をつき、幸文は私のおでこにそっと口づけた。
「明日は街で買い物をしよう。」

 貴族の中でも随一の権力と財力を誇る孔雀家。その家に嫁ぐことができたのは、まさしく天の思し召しに違いない。
 出来の悪い義妹もどこかへ嫁いでいき、今やこの家の主は私だ。
「明夫さま、街でお買い物がしたいわ。」
 甘い声でそう囁けば、碧色の瞳をした旦那様はたちまち私に夢中になる。
「何が欲しいんだい?」
「旦那様とデートがしたいの。」
 私は猫家の血筋。甘えることなど、呼吸のように自然だ。
「ダメ?」
「明日は仕事が入ってたんだけど…仕方ないね!」
 ほら、やっぱり。
 私に逆らえる者なんて、この世にひとりもいないのだわ。

「これはパフェというんだよ。牛乳でできたソフトクリームというものが乗っているんだ。美味しいだろう?」
 深緑の袴を履いた旦那様と甘味処へ入った私は、ふと窓の外に目を向けて息を呑んだ。
「佳奈子?どうかしたのかい。」
 そこには、白銀の髪を持つ美しい男性と並んで歩く千代の姿があった。
 桜色の着物をまとい、まるで春の花のように微笑んでいる。
 ――喪服はどうしたの。あの女には喪服がお似合いだというのに。
「ああ、獅子家の幸文さまか。ちょっと挨拶してくる。」
「えっ、ちょっ…明夫さま、待って。」

風鈴の音色に耳を澄ませる千代の隣で、幸文は簪を手に取り、どこか難しい顔をしていた。
「旦那様、」
「名前で呼んでくれ。」
「…幸文。」
 呼んだ途端、千代の頬がほんのり赤く染まる。
「どうした。」
 幸文の手がそっと千代の頭に触れた、その瞬間だった。
「獅子様! こんな場所でお会いできるとは光栄です。」
「ん?」
 声の主は、派手な着物をまとった女性を連れた孔雀家の者だった。癖のある波打つ髪と碧色の瞳――孔雀家の血筋だと一目で分かる。
「明夫か。久しぶりだな。帝都学園の卒業式以来か。」
「妻とデートの真っ最中でね。」
「こちらもだ。奇遇だな。」
「お互い伴侶を持つとは、年を取ったものだ。」
 二人は楽しげに笑い合う。その後ろで、佳奈子が千代を鋭い目で睨みつけていた。
「明夫さま、もう行きましょ。」
「え?」
「この女、嫌いだわ。」
「私の妻がか?」
 幸文の背に隠れるように後ずさる千代へ、佳奈子はとげとげしい視線を向ける。
「おい、佳奈子。失礼なことを言うな。獅子家の奥方だぞ。」
「…勝てないの? 明夫さまは、この男に勝てないの?」
「孔雀が獅子に敵うわけがないだろう。頭を下げろ。すまないね、幸文。」
 佳奈子の頭を押さえつけながら、明夫は苦笑を浮かべた。
「謝るなら、妻の千代にだ。実家にいた頃、妻はひどい嫌がらせを受けていたようでね。」
 幸文の冷たい視線に、佳奈子は屈辱で拳を握りしめ、爪が食い込むほどだった。
「私はいいんです、幸文。もう行きましょう。」
「甘味処でパフェを食べるのをおすすめするよ。」
 明夫は機嫌よく微笑んだ。
「ありがとうございます。」

 ひらひらと手を振る明夫の隣で、佳奈子は険しい顔をしていた。
「…何よ。」
「えっ?」
「何よ、あの女! 獅子家とかいう偉い家に嫁ぐなんて!」
 佳奈子の剣幕に、明夫は眉をひそめる。
「一体あの子は君の何なんだい?」
 佳奈子は、血を吐くような声で言い捨てた。
「…義理の妹よ。」
「義理の妹? へぇ、すごいね。獅子家に嫁ぐなんて!」
 その一言が、佳奈子の堪えていた何かを決壊させた。
 ぱん、と乾いた音が響き、明夫の頬がわずかに揺れる。
 周囲の空気が一瞬で凍りついた。
 佳奈子は自分のしたことに気づき、顔を青ざめさせる。
「ご、ごめんなさい…明夫さま。ちょっと、カッとなって…。」
「カッとなって、ね。」
 冷ややかな視線が佳奈子を射抜き、彼女の肩が小さく震えた。
「今日はもう帰りましょう。家の者に頼んで、明夫さまの好物を並べさせますね。」
 佳奈子は必死に言葉を重ね、明夫の機嫌を取り戻そうとするように、あれこれと話しかけ続けた。
 
 夢の中で、獅子が眠っていた。私は蝶となり、その上をひらりひらりと舞い続ける。

「おはようございます、千代さま。」
 朝日が差し込み、部屋を淡く照らしている。隣には幸文の姿がない。
「坊ちゃんはお仕事へお出かけになられました。朝食をご用意いたしましたので、どうぞ召し上がってくださいませ。」
 千代は味噌汁をひと口すする。
「…美味しい。」
「それはようございました。この糸、腕によりを振るって作りましたので。卵焼きは坊ちゃんのお好みに合わせて甘口にしてあります。もしお口に合わなければ、すぐ作り直します。」
 卵焼きを一口かじり、千代はふわりと笑みを浮かべた。
「美味しいです。」
 そう言って箸を置き、ふと糸へ尋ねる。
「一つ、お聞きしたいことがあって…。」
「はい。糸に分かることであれば、何なりと。」
「幸文は、どんなお仕事をしているのですか?」
 糸の動きがぴたりと止まった。
「言えないなら、言えないで構いません。すみません、余計なことを聞いてしまって。」
「坊ちゃんは、不器用なところがございまして…。どうか、ご本人にお尋ねくださいませ。あと、こちらを。」
 糸がそっと差し出したのは、桜の刺繍が施された巾着だった。
「それ…以前、私が失くしたものです…!」
「これがきっかけで、千代さまは肌着姿で蔵に閉じ込められるという仕打ちを受けられたのですよね。」
「どうして…それを?」
「坊ちゃんにお尋ねください。夜にはお戻りになります。」 
 
 肌着姿で部屋をうろうろしていると、
「ただいま、帰った。」
 という幸文の声がして、どぎまぎとした。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。
「千代?」
 部屋に入って来た幸文に、思わず抱き着いた。刹那、幸文は少し驚いたように目を瞬く。
「どう…した?」
「実家に帰省させて下さい。」
「…は?」
 心底驚いたというように、幸文は千代の肩を持つ。
「あの家でされてきた事を忘れたのか?」
「でも、返さなくちゃいけないものがあるんです。」
 枕元に置かれた桜の刺繍が施された巾着に、幸文の目がいく。
「中にお金が入っています。私の物ではありません。水谷家の物です。」
 ため息混じりに、幸文は髪をかき上げる。
「その金の何千倍を私が払ったと思っている。」
「…え?」
「千代があの家から逃げ出せれるように縁談を持ち掛け、既に結納金もしっかりと納めたのだ。それを今更…。」
 千代はもじもじとした様子で、幸文を見上げる。
「幸文は何の仕事で、そんなに稼いでるんですか?」
「孔雀家と基本一緒だ。知らないのか。」
 千代はこくりと頷く。幸文はかつて今までにない深いため息をついた。
「簡単に言えば悪霊払いだ。主に他者の夢の中に入り込み、そこに住まう悪霊を払うことで対価を得ている。時には現実世界でも変化することはある。ちなみに言うと、千代も同じような力を持っているのだぞ。」
「…はい?」
「千代は蝶家の血筋を引いている。姿は違えど獅子とはまた違う形で悪霊を払うことができるんだ。だから自分の何が気に召したなどと二度と尋ねるなよ。疲れた。もう寝る。」
 どこか幼さを感じさせるふてくされっぷりで床についた幸文は、すやすやと寝息をたて始めた。千代はその背中にそっと手を触れる。確かな温もりが、そこにはあった。

「結局…行くのか。」
「はい。」
「一人でも…行く気か。」
「はい。」
 しゃんと背筋を伸ばした千代の肩を、糸が軽く突いた。
「坊ちゃんはね、こう見えて結構照れ屋さんなんですよ。心配で心配で、自分も付いて行きたいと言わんばかり。」
 糸の茶目っ気ある声に、千代はくすりと笑った。
「お仕事があるなら致し方ありません。お金を返すだけですし。」
 コホンと咳払いして、幸文は片眼をつぶる。
「気を付けるんだぞ。」
「はいっ。」
 千代は深く頭を下げ、駅へ向かった。
 電車に揺られながら、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。
 懐かしいはずの故郷なのに、胸の奥には重たい石が沈んでいるようだった。

 本当は二度と戻るつもりはなかった。
 けれど、お金を返せば、きっと何かが終わる。
 そう思えば、少しだけ心が軽くなる気がした。
 
 実家の最寄り駅に着くと、風の匂いが昔の記憶を呼び起こす。
 家の前に立つと、呼び鈴がやけに古びて見えた。
 押す指がわずかに震える。
――チリン。
 呼び鈴が鳴った瞬間、家の中から女性の悲鳴が上がった。
「何事ですか?」
 思わず下駄を脱ぎ捨てて室内へ駆け込むと、そこには信じがたい光景が広がっていた。
 大きな孔雀が、部屋いっぱいに羽根を広げていた。
 青と緑の光沢が乱れ、床には羽根が散乱している。
 侍女達が必死になだめているが、孔雀は涙を溜めた瞳で威嚇するように立ち尽くしていた。
「明夫さま、冷静になられて下さい!」
 侍女の声は震えている。
 その中で、佳奈子だけがふんぞり返り、唾を吐いた。
「何よ、偉いさま気取っちゃって。孔雀家が聞いて呆れる。」
「どうしたの?」
 千代が仲裁に入ろうとした瞬間、佳奈子の手が飛んだ。
 ぱしん、と乾いた音が室内に響く。
「アンタのせいよ! 獅子家という名家に嫁ぐなんて、身分にそぐわぬ行為をするから水谷家に不幸が降りかかるのよ!」
「私の…せい?」
 千代は頬を押さえながら周囲を見渡した。
 穴の開いたふすま、割れた花瓶、昼食らしきものが床に散乱し、孔雀の羽根が舞っている。
 孔雀は震えながらも、懸命に羽根を広げていた。
「佳奈子、何をしたの?」
「私は、別にっ…。」
「怒らせたんだろ。」
 やれやれとため息をつきながら現れたのは、幸文だった。
「獅子さまっ!」
 佳奈子は嬉々として飛びつこうとしたが、幸文は軽く身をかわし、千代の手を取った。
「大丈夫か?」
「…はい。」
 千代の声はかすかに震えていた。
 幸文はそっと千代の手を包み込み、孔雀の方へ視線を向ける。

 孔雀のその瞳には、怒りよりも悲しみが濃く宿っていた。
 佳奈子は気に入らないとばかりに、他の者達を睨みつける。
「どうして千代なんかを庇うのよ…!」
 その声は嫉妬と焦りで震えていた。
 しかし、千代は佳奈子を見つめ返すことができなかった。
 胸の奥で、何かがきしむように痛んでいた。
 孔雀の羽根が、ふわりと千代の背に触れた。
 
「この場をどうして欲しい?小娘。」
幸文の声音は、孔雀の羽根を震わせるほど低く響いた。
「こっ、小娘?この私のことを言ってるの?」
「他に誰がいる。」
 千代は思わず胸の前で拳を握りしめた。幸文が千代の耳元で、
「大丈夫か?」
 と囁く。千代はこくりと頷いた。
 佳奈子は辺りを見回した。
「わ…私だって猫家の一族だわ!」
 ポンッ、と軽い破裂音がして、白い煙がふわりと立ち上る。煙の中から、ころんとした三毛猫が姿を現した。丸い瞳はつぶらで、しかしその奥に小さな炎のような気迫が宿っている。
 とことこと孔雀へ近寄り、ちいさな体を精一杯大きく見せようと尻尾を逆立てた。
「猫…?」
「何処までも愚かな小娘だ。」
 三毛猫はシャーッと威嚇し、背を丸める。しかし孔雀は一歩も退かない。むしろ、涙を溜めた瞳でじっと見返してくる。威嚇されても怯えず、ただ必死に何かを訴えようとしているようだった。

 千代は胸が締め付けられた。孔雀の羽根は乱れ、部屋は荒れ果てている。猫の叫び声、割れた花瓶、散らばる昼食の残骸。すべてが、孔雀の混乱と恐怖を物語っていた。
「私もかつては、あのような存在だったな。」
 幸文がぽつりと呟いた。視線は孔雀ではなく、もっと遠い、もっと深い場所を見ている。
「真白は優しかった、です。」
千代は努めて明るく微笑んだ。あの白猫の温もりを思い出しながら。
「だが、無力だった。」
 幸文の声は静かだが、どこか痛みを含んでいた。
 幸文は続けた。
「あのような猫では、守ることができない。寒い夜、腕の中で丸くなることはできても、危険から君を遠ざけることはできない。」
 三毛猫がシャーッとさらに強く威嚇した。まるで「そんなことない。」と言っているように。
 孔雀は羽根を広げたまま震えている。涙がぽたりと床に落ちた。
 千代は三毛猫を見つめ、孔雀を見つめ、そして幸文を見つめた。
 
「幸文さま。」
 そっと呼ぶと、幸文はゆっくりと千代に視線を戻した。

 三毛猫がぴたりと動きを止めた。孔雀も羽根を少しだけ下ろす。
 幸文の瞳が揺れた。
「…千代。夢の中だけではなく現実の世界で私が化けるのを許してほしい。」

 炎が咆哮とともに形を成した瞬間、空気そのものが震えた。幸文の指先から灯った小さな火は、まるで意思を持つかのように渦を巻き、円環を描きながら膨れ上がり、やがて炎の羅針盤となって空間を支配する。
 中心から、ゆっくり、しかし確実に足音が響いた。のっしりと踏み出したのは、獅子。
 炎でできたその獅子は、ただの幻ではない。熱と怒りと、幸文の心の奥底に沈んだ何かを抱えたまま、世界に姿を現した。
 獅子は大きく口を開け、咆哮した。
 火の粉が爆ぜ、侍女たちが悲鳴を上げて後ずさる。畳の上に落ちた火の粉が瞬く間に燃え広がり、母屋の梁がぱちぱちと音を立てた。
「幸文。」
 千代の声は震えていた。
 炎の獅子は孔雀を踏み倒し、三毛猫を跳ね飛ばし、ただ暴れ狂う。幸文の瞳は焦点を失い、まるで自我がどこかへ飛んでしまったかのようだった。
「幸文!もう止めて!」
 叫びは必死だった。
 けれど、炎の轟音にかき消されて届かない。獅子はさらに暴れ、母屋の柱が火に包まれ、天井が赤く染まる。
 熱気が押し寄せ、千代の頬に涙が伝う。
 その姿がゆらりと揺れたのは、炎のせいだけではなかった。
 獅子の動きが、一瞬止まった。
 千代の涙が光を受けてきらりと輝いた瞬間、炎の獅子の瞳がそれを捉えたのだ。まるで、千代の涙が炎の中にひとつの道を作ったかのように。
 獅子の咆哮が低くなり、炎の輪郭が揺らぐ。
 千代は息を呑む。
 炎の獅子が、ゆっくりと千代の方へ顔を向けた。
 その瞳の奥に、確かに幸文の影が揺れていた。
――届いている。
 千代の声は、炎の奥の幸文に届いている。
 だが、炎はまだ収まらない。
 獅子は苦しむように吠え、母屋の天井が崩れ落ちる音が響いた。

 千代は一歩、前へ踏み出した。
 炎の熱が肌を刺す。
 それでも、迷わずに。
「幸文。帰ってきて。」
 その声は、炎の中で唯一、静かに響いた。
 千代は一匹の蝶と化し、獅子の周りをひらりひらりと舞い続ける。
 薄桃色の羽根が朝の光を受けてきらめき、獅子の荒ぶる気配を少しずつ削いでいく。

 獅子は低く唸りながらも、その小さな蝶を追うように首を傾け、前足を伸ばし、まるで戯れる子猫のように後を追いかけた。
 蝶が右へ舞えば右へ、左へ舞えば左へ。
 その動きは次第に獅子の荒気を鎮め、瞳の奥に残っていた獣の光がゆっくりとほどけていく。

 そして――。

 蝶がふわりと池の上を横切った瞬間、獅子は勢い余ってそのまま庭の池へ落下した。
 水面が大きく跳ね、朝の静寂を破るように波紋が広がる。

 千代は池の縁に降り立ち、両手を広げて人間の姿へ戻る。
 水しぶきの中で、幸文もまた獅子の姿を解き、人間の姿へ戻った。
 肩まで濡れた衣が肌に張り付き、彼は苦しげに咳き込む。

「大丈夫ですか。」
 千代は裾を濡らすのも構わず、池の中へ膝をつくように身を乗り出した。
 幸文は額の水を払うように手を振り、短く息を吐く。
「水は苦手だ。」
 その声はいつもの落ち着いた調子ではなく、どこか幼い弱さを含んでいた。
 千代は思わず息を瞬く。
「…獅子でも、苦手なものがあるのですね。」
 幸文はむっとしたように眉を寄せたが、すぐに視線を逸らした。
 池の水面が揺れ、二人の影が波に合わせて震える。
「炎の獅子の本能だ。濡れると力が鈍る。」
 言い訳のようなその言葉に、千代はふっと笑みをこぼした。
 幸文はその笑みを見て、さらに不機嫌そうに顔を背ける。
 だが――。
 千代がそっと手を伸ばし、幸文の濡れた頬に触れた瞬間、彼はわずかに肩を震わせた。
 冷たい水の感触の中で、千代の指先だけが温かい。

「戻ってきてくれて、よかったです。」
 その一言に、幸文はゆっくりと千代の方へ視線を戻した。
 濡れた黒髪の隙間から覗く瞳は、獅子ではなく、人としての彼の色をしていた。

 池の水面はまだ揺れている。
 だがその揺れは、先ほどまでの荒々しさではなく、どこか穏やかな波紋へと変わっていた。
 一方、孔雀や三毛猫と化していた明夫や佳奈子も、ようやく元の人間の姿へと戻ったようだった。侍女達は火を消そうと必死で水桶を回し、濡れた畳の上を走り回っている。焦げた匂いがまだ鼻を刺し、家のあちこちからぱちぱちと小さな火の名残が音を立てていた。

「派手にやり過ぎたか。」
 幸文が額に手を当てて苦笑すると、千代は肩を支えながら小さくため息をついた。
「やり過ぎです。」
 そのまま歩き去ろうとした千代の前に、佳奈子がずかずかと詰め寄った。
「ちょっと!どうしてくれるのよ、私の家が焼け落ちてしまったわ!」
「孔雀を明夫に戻してやっただろう。」
 幸文はぐったりとした様子で言い返すが、佳奈子は怒りで眉を逆立て、今にも噛みつきそうな勢いだった。
「よけいな――」
「佳奈子。」
 手を上げようとした佳奈子の腕を、明夫が素早く掴んで止めた。佳奈子は悔しそうに唇を噛む。
「ありがとうございました、獅子さま。」
「礼には及ばない。」
 千代はふと地面に落ちていた巾着に気づき、それを拾い上げて佳奈子へ差し出した。
「失くしていたお金が入っています。」
「これっぽっちの銭で、どうやって家を建て替えろって言うの!?」
 佳奈子は巾着を叩き落としそうな勢いで叫んだ。侍女達がびくりと肩を震わせる。
「佳奈子。」
 明夫はボロボロになった巾着をそっと手に取り、千代へ向けて穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。」
 その優しさが余計に癇に障ったのか、佳奈子はぎりぎりと歯ぎしりしながら地団駄を踏んだ。
「何よ!何よ!何よ!すべて台無しじゃない!」
 泣き叫ぶような声が、焼け焦げた梁に反響する。
「佳奈子、ごめんな。僕が自我を失くしたのが全てのきっかけだ。でも――」
 明夫の瞳がぎらりと光り、佳奈子は息を呑んだ。
「きっかけは君がワガママを言うからだよ。」
 その言葉は鋭く、しかしどこか哀しみを含んでいた。佳奈子は唇を震わせ、うつむいた。
「私が悪かったって言えばいいんでしょ…。」
「反省してくれるなら、それで良いんだよ。」
 明夫はそっと佳奈子の肩に手を置いた。佳奈子はその手を振り払うこともできず、ただ悔しさと情けなさの入り混じった表情で立ち尽くした。

 千代はその様子を見つめながら、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
 家は焼け、孔雀は泣き、佳奈子は崩れ、明夫は責任を背負い、幸文は疲れ果てている。
 それでも――誰もが、どこかで「やり直したい」と願っているように見えた。

 焦げた風が吹き抜け、羽根の名残がひらりと舞った。

 湯舟に浸かる幸文の濡れた髪を櫛で梳きながら、千代はそっとため息をついた。湯気がふわりと立ち上り、二人の間に柔らかな白い幕をつくる。
「佳奈子は…何をして明夫さまをあんなに追い詰めたんでしょう。」
「――あの小娘のことだ。聞かずとも大体想像はつくだろう。」
 幸文は肩まで湯に沈めたまま、気怠げに目を閉じる。千代はその横顔を見つめ、胸の奥が少しだけ痛んだ。
 彼がこうして弱った姿を見せるのは珍しい。湯から上がった幸文は、案の定くしゃみを連発し、体は火照り、額にはじんわりと汗が滲んでいる。
「坊ちゃんが風邪を引くとは、久方ぶりですねぇ。」
 糸が苦笑しながら布団を整える。千代はその横で、糸が作った卵粥をすくい、ふぅふぅと息を吹きかけて幸文の口元へ運んだ。
「…ん。」
 幸文は素直に口を開ける。千代はその様子に思わず頬を緩める。
 糸は微笑ましく二人を見守っていたが、ふと何かを察したように背筋を伸ばした。
「余計なことを言ってしまいそうなので、私はこれにて失礼します。」
 そう言うと、糸はさっさと部屋を出て行ってしまった。
 残された二人の空気は、湯気のように柔らかく、どこか甘い。
「もう一口。」
 幸文が、普段の威厳とは程遠い甘えた声を出す。
 「口を開けて下さい。どちらが獅子でどちらが蝶なのか分からぬ状態ですよ、今。」
「もう一口。」
「待って下さい。私のふぅふぅが追い付きません。」
千代は慌てて粥を冷ましながら、幸文の額に手を当てる。熱い。
 その熱が、千代の胸の奥までじんわりと広がっていく。
――こんなにも、彼は人間らしい。

 廊下を静かに歩きながら、糸はくすくすと笑った。
 障子越しに聞こえてくる二人の声が、あまりにも仲睦まじい。
「坊ちゃんにお似合いの方だわ。」
 糸は袖口で口元を隠し、嬉しそうに目を細めた。
 その足取りは、いつもより少しだけ軽かった。 

「側にいてほしい。」

 その一言に、千代は胸の奥がぎゅっと締め付けられた。心の中では――風邪をうつす気ですか、と文句のひとつも言いたかった。けれど幸文が池に落ちたのは自分のせいで、幸文が無茶をしたのも周りを助けるためだ。
 だから、拒む理由などどこにもない。
 幸文の手をそっと取ると、同じ布団に身を沈めた。熱があるのか、いつもよりその体温は高く、触れたところからじんわりと熱が伝わってくる。
「側にいてくれるか。」
「今いるではありませんか。」
「何故怒っている?」
 千代は小刻みに震えながら、絞り出すように答えた。

「無茶をなさるからです。」

頬に一粒、涙がこぼれ落ちる。幸文は驚いたように目を見開き、長い指先でその涙をそっと拭った。
 そして、ふっと柔らかく笑う。
「心配をかけた。」
「もう獅子になどならないで下さい。私も…いつでも止められるかどうか分かりません。」
「そう言われても、悪霊を追い払う時は獅子にならないといけないしな。」
「孔雀と三毛猫も悪霊なのですか?」
「ああするしか止めようがなかったんだ。」
「その後、暴走して家を一件丸焼きにされたんですよ。佳奈子が怒る理由も分からなくはありません。少なくとも私の実家でもあったんですよ。」
 幸文は苦い顔をして、千代の手を握り直した。
「ここに居てくれ、千代。」
 その声は、獅子の咆哮とは違う。
 ただひとりの女性を求める、弱くて、必死で、温かい人間の声だった。
 千代は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
 この人は、強くて、怖くて、時に暴走する。
 けれど――自分を必要としてくれる。
 その事実が、何よりも嬉しかった。

 幸文は千代の手を自分の胸元へ引き寄せ、そっと額を寄せる。
「助け、守り、愛すると誓うから。」
 その言葉は、夜気の中で静かに響き、二人の間に落ちていく。
 千代は目を閉じ、幸文の温もりに身を預けた。
「…私も、あなたを支えます。どんな時でも。」
 布団の中で、二人の指が絡む。
 その結び目は、ほどけることのない契りのように、静かに、確かに結ばれていった。

永久にも似た契りを、二人は結ぶ。
 獅子と人。
 強さと弱さ。
 孤独と救い。
 そのすべてが重なり合い、ひとつの未来へと続いていく。
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