傷付けた正解

体育館の中は梅雨時期ということもあり、6月初旬なのに蒸し暑かった。
俺が通ってた頃もこんなに暑かったかな?そんなことを考えながら、俺は自分が座る席を探した。一番後ろのブロックの下手側、壁側のパイプ椅子に座った。

しばらくすると吹奏楽部の生徒たちが一列に並んで壁側を歩きながら体育館に入ってきて立ち止まった。

俺はふと、横を見て驚いた。
3年間、担任ではなかったけど国語を教えてくれた谷山先生がいた。
歳はとっていたけど面影はあの頃のままだ。ショートカットなのも化粧が濃いのもあの頃のままだ。
吹奏楽部の生徒に指導をしているようだった。

懐かしさの中にある記憶が呼び起こされた。

壁にあの不正解の傷を付ける少し前のこと。企業が出張授業をしてくれることがあった。俺はデザイナーになりたかった。だから地元の広告会社の授業を選んだ。その授業のサポート役として後ろで見ていたのが谷山先生だった。

古新聞の写真を切ったり、貼ったりして"スピードに乗れ、動き出せ。"というキャッチコピーで自動車会社の広告を作るという授業だった。俺は、都会のビル群と高速道路の写真を貼り合わせ、その上にライオンや虎の写真を貼り付けて、高速道路を動物が走っているような広告を考えた。その作品を見た谷山先生が「すごくいいアイデアだね。キャッチコピーとも合っててプロでも通用しそう。大野くんはセンスあるね!」と褒めてくれた。俺はそれがすごく嬉しかった。その時、やっぱりデザイナーになりたいと思った。でも、三者面談では言い出すことができず、俺は自分の将来を不正解にしてしまった。だけど、谷山先生が言ってくれた言葉は忘れられなかった。

俺のことなんか覚えていないだろうな。
目が合っても気まずいので、俺は視線を前方のステージに向けた。

「大変、待たせしました!桜ヶ丘高等学校、吹奏楽部の登場です!」

司会の女子生徒がアナウンスすると、吹奏楽部の生徒たちは小走りに自分が担当している楽器についた。

体育館を大きな拍手が包んだ。

指揮台には谷山先生。手を高くあげ、勢いよく振り下ろす。
トランペットの音が鳴り響き吹奏楽部の演奏が始まった。

流行りのJ-Popから懐かしの曲からクラシックや映画のサントラなど、6曲が演奏された。

最後の曲が終わると、体育館を大きな拍手が包んだ。

谷山先生の合図で生徒たちはステージから去っていった。みんな本当に楽しそうで満足そうだった。俺にもこんな青春があったのだろうか?と考えると、そんなことはなく、後輩たちがまぶしく感じた。同時にほんの少し嫉妬のような感情も生まれた。

壁側で谷山先生と生徒たちはお互いを讃え合うようにハイタッチをしていた。その時、ひとりの女性が谷山先生に嬉しそうに駆け寄っていくのが見えた。谷山先生は驚いた顔をして女性を見た。俺の記憶も反応した。あれは俺と同級生で谷山先生のクラスの生徒だった齊藤さんだ。接点はあまりなかったけど廊下ですれ違うことは何度もあった。谷山先生と齊藤さんは久々の再会を喜び合うように楽しそうに笑っていた。

どんなに時が経っても教師と生徒の関係はずっと変わらない。その光景を見て俺は教師という仕事について考えさせられた。

長ければ3年間、生徒と毎日顔を合わせる。その成長を見守る。だけど、卒業という境界線を越えてしまえば次の日からは顔を合わせることはなくなる。もしかしたら、もう二度と会うことのない生徒もいるかもしれない。大半の生徒がそうだろう。でも、その3年間は人生の中でも色濃く記憶や思い出に残るかけがえのない時間ではないのか。事実、俺の心にはあの日、谷山先生が褒めてくれたことを今でも覚えている。教師という仕事はそんな特別な時間を生徒と悩み、喜びを分かち合える尊い仕事ではないのか。俺がきちんと生徒に向かい合っていなかっただけではないのか。俺は体育館を飛び出し校舎の階段を駆け上がりあの傷と向かい合った。

あの日、壁につけた傷。教師になるという選択肢に俺自身がつけた不正解の採点。でも、本当に不正解だったのか?俺はポケットから車のキーを取り出して、壁にあたるかあたらないかの距離であの傷を囲うように空中で○をそっと描いた。今からでも正解にできる。いや、してみせる。

2026年6月8日(月) 吹田中学校

俺は次の授業をするため、担当するクラスに向かっていつものように廊下を歩いていた。

「大野先生、なんか元気そうじゃん。なんか、いいことあった?さては、彼女ができたとか。」

堀田がからかうように声をかけてきた。

「こら、大人をからかうな。でも、いいことはあったよ。」
少し間を置き、俺は少し照れながら答えた。

「えっ?何?」
堀田が前のめりに聞いてくる。

「教えなーい。」
俺はいつもからかわれていることへの仕返しをするように言った。

「げぇ、ケチっ!」
と言いながらも堀田は笑ってくれた。
俺もつられて笑った。

「でも、よかったじゃん。先生、最近元気なさそうだったし。」
堀田が嬉しそうに言ってくれた。

「ありがとな。ほら、授業に遅れるぞ。」
そう言うと堀田は俺に小さく手を振って走っていった。」

「廊下は走るなよ!」
という俺の声に堀田は後ろ手で手を振りながら、走るのをやめて早歩きで教室に向かっていった。

俺は心の中でもう一度「ありがとな。」とつぶやいた。

次の授業では教室の一番後ろの窓側の席に佐藤が座っていた。佐藤には佐藤なりの解釈があって導き出した正解に不正解の赤線を引いてしまったことに後ろめたさのようなものを感じて授業中、佐藤の顔を見る度に胸が少し痛くなった。

授業が終わり教室から出ると「大野先生」と小さな声がした。振り向くと申し訳なさそうにしている佐藤がいた。

「どうした?」
俺が聞き返す。

「先生、その、僕のお母さんが先生に色々言っちゃってごめんなさい。悪気はないんです。ただ、僕のことをすごく心配してて、過保護になってるっていうか。」
佐藤が胸の中にある思いを必死に伝えようとしているのが分かった。過保護な母親。俺の母親とは少しタイプが違うけど佐藤もあの頃の俺と同じことで悩んでいたんだ。俺は佐藤に共感した。

「人間って難しいよな。それぞれ、正解を持ってて誰かにとっては正解、でも誰かにとっては不正解だったりする。だから佐藤くんのお母さんは間違っていないし、佐藤くんは自分で考えて先生に謝ってくれた。人を思いやる心があるってことはすごいことだよ。」
俺は微笑みながら佐藤の顔を見た。佐藤は照れるように顔をほんの少し下に向けた。

「先生の方こそごめんな。この間のテスト、佐藤くんの回答をちゃんと理解しようともせず不正解にして。これからは生徒がどう思っているかをちゃんと考えながら採点するようにするよ。」

佐藤はそんなことないです。というように首を左右に振った。

「僕はお母さんが先生にテストのことで文句を言ったことが悪いことだとずっと思っていました。だから、今日先生にちゃんと謝れてよかったです。」

俺は自分の目頭が熱くなっていることが分かった。でも、泣いてはいけないと思い佐藤の目を見て話した。

「佐藤くんは自分の中で間違ってると思ったことにちゃんと向き合って、先生に謝ってくれた。佐藤くんは自分が感じていた不正解を正解に変えられたんだ。それに俺は気にしてないよ。勇気を出して、伝えてくれてありがとう。」

佐藤は「ありがとうございます。」と言って、俺に一礼して教室の中に戻っていった。

7月11日(土)
東野球場

俺は母校の高校野球の応援のため、地元の野球場に来た。学生の頃はあれだけ面倒だった野球応援が今は清々しく感じる。

チケットを買い、母校の応援スタンドで見やすそうな席を探した。どこに座ろうかと歩いていると「一真?」とすれ違いそうになった男が声をかけてきた。俺は驚いて立ち止まって振り返る。一瞬、戸惑ったが声の主はクラスメイトだった新田だった。成人式の日の夜に開催された同窓会以来の再会だった。髪型や服装はすっかり変わっているけど、顔を見てすぐに分かった。

「おぉ!久しぶりだな!びっくりしたよ。」
俺は右手を少し挙げながら言った。

「久しぶりだな!びっくりしたのはこっちだよ。お前、毎年来てたっけ?」
新田が明るい声で聞いてきた。

「いや、卒業してからは初めてだな。」

「急にどうしたんだよ。」

「実は今、教師をやってて。生徒を見てる内に青春っていいなと思って。ここに来れば、青春をまた感じられるかなと思って。」
同級生に教師をやっていることを言うのは少し気恥ずかしかった。

「なんだよそれ。お前が教師?似合わねぇ。」
新田が茶化すように言った。俺も仕返しのつもりで聞き返す。
「そういう、お前は何やってるんだよ。」
「警察官。」
新田も恥ずかしそうに言った。

「お前だって似合わないじゃん。」
俺も笑いながら言い返す。

俺たちはお互いに顔を見合わせた。
そして、笑った。
高校生に戻ったみたいだった。

ふと頭の中で「主題歌」のサビの歌詞が聴こえてきた。
"人生の名シーンにはいつだって
一緒に笑ってくれる人がいる"

試合開始を告げるサイレンが球場に響き渡った。
球児たちが一斉にグラウンドへ走り出す。

俺は自分の教師人生に向かって叫んだ。
「プレイボール!」