ただの事故ではない。
天使の言葉を聞いた瞬間、
それを否定する気は、もうどこかに消えていた。
あのチャラい男。
そして、あの妙に静かな女性。
おかしい。
そう思ったとき、もう一つの違和感に気づく。
――俺は、覚えている。
死んだことも、事故の瞬間も、
自分がバスに乗っていたことも。
なのに。
……なのに。
「……名前」
自分の名前が、出てこない。
思い出そうとすればするほど、空白だけが広がる。
存在はあるのに、輪郭が抜け落ちているような感覚。
その事実に気づいた瞬間、
疑問が一気に溢れ出した。
なぜ、あの女性は何も言わない?
なぜ、チャラ男はこんなにも感情を出せる?
そして――
なぜ、俺たちはここにいる?
「おい! 今のはどういうことだ!?」
思考を遮るように、チャラ男が天使へ詰め寄った。
さっきまでの軽さは消え、
顔には明確な“焦り”が浮かんでいる。
天使は、少しも動じない。
「おや。忘れているはずはないですよね」
その声には、わずかな嘲りが含まれていた。
「……あなたは、この二人を巻き込んで事故を起こしましたよね」
――――ッ
空気が、凍りつく。
「な……なにを――」
言葉を絞るよりも早く、チャラ男が取り乱した。
だが天使は、淡々と続ける。
「そもそもあなたは、この場所で“感情を維持しすぎている”」
「それだけ、生前での環境に恵まれていた証拠です」
わずかな間。
「……改めて、お察し申し上げます」
「てめぇ……ッ!!」
怒気を露わにするチャラ男。
その反応とは対照的に――
女性は、やはり動かない。
何も言わず、
何も変えず、
ただ、そこに立っている。
ふと脳裏に、事故の光景が蘇る。
――あの高級外車。
バスの前に割り込んできた、あの車。
……あれを運転していたのが、こいつ?
不思議なことに。
怒りも、憎しみも湧いてこなかった。
「こいつのせいで死んだ」
そんな単純な感情にはならない。
ただ。
加害者と被害者。
その構図が、静かに整理されただけだった。
まるで、他人事のように。
「あなた方は、生ある器を失ったエネルギー体」
天使の声が、再び響く。
「あなた方の言葉で言うならば――魂、という表現が適切でしょう」
魂。
その言葉が、奇妙なほどすんなりと受け入れられる。
「名前とは“器”に付与されるラベルに過ぎません」
「この場所では、無効な概念です」
だから、思い出せないのか。
「ここは“魂の再生”のための定義場」
天使は、少しもこちらを気にする様子もなく続ける。
──待て。
今の。
俺が考えていたことに対する答えじゃないか?
「……俺の考えてること、聞こえてるのか?」
思わず口に出す。
だが、天使はそれに直接は答えない。
「この場では、魂の因果律の均衡によって」
「次の行き先が決定されます」
……偶然か?
それとも。
「おや。この話は、お気に召しませんか?」
ぴたり、と天使の言葉が止まる。
そして。
ゆっくりと、こちらへ意識を向けた気がした。
「それでは」
「事故の経緯と――因果を」
「お話いたしましょうか?」
その瞬間。
背筋に、冷たいものが走った。
