大きな笑い声がして振り返ると、五人ほどの派手な男子達の中心に宮川はいた。離れていても華やかなオーラが伝わってくる。自分たちが世界の中心だ、と信じて疑わないような、明るい笑い声を聞いていると昔のことを思い出してしまう。嘲笑う声に、からかうような下劣な言葉。関係ない、と振り払おうとしても、微かな頭痛を感じはじめてしまい拳を握り締めた。近くを通った時、何かを言われないか心配で凝視してしまうと宮川と視線が合う。何か挨拶でもしようか迷った末、何も言葉が滑り降りてこなくて結局目を逸らしてしまった。
不可抗力とはいえ宮川が寝ているベッドに入り込んでしまったこと。そしてその上ぐいぐいと近づいてしまったこと。周りにばらされていないか不安で仕方なかったけど、あの日の言葉通り宮川は誰にも言っていないようだった。今の行動だってきっと感じが悪かったけど、宮川はそこまで気にしていないのかもしれない。このまま宮川は俺のことなんか忘れて、普段の生活に戻っていくのだろう。ぐるぐるとそんなことを考えていた矢先だった。
「小橋、なんかまた体調悪い?」
頭上から降る声に顔を上げると、友人といたはずの宮川が目の前に立っていた。端正な顔つきに長い睫毛。あの日近すぎる距離でじっくりと見て綺麗だと思ったけど、その時の印象と変わらず目を惹きつけられてしまう。見惚れてしまってすぐに返事をすることができなかった。
「大丈夫?」
「……だ、大丈夫。体調悪くないよ」
「そう? ならいいけど。この前と同じような顔色してたから」
この前、と言われて身構えてしまう。忘れていてほしかったのに、宮川の方から話題を出されてしまった。こちらを気にかける優しい言葉は少し甘い響きを含んでいて、あの日最後にかけられた言葉を思い出した。思い出すだけで顔から火が出そうになって、できればずっとしまっておきたい出来事だけど、忘れようとしても最後にかけられた甘い声がずっと脳裏に焼き付いて離れてくれなかった。
あの日以降、夜になると保健室での出来事をいつも思い出した。羞恥や後悔は時間が経つと和らいでいったけど、最後にかけられた言葉だけはずっと鮮明に脳内に焼きついていて、布団に入るたびに彼の言葉を反芻してしまった。寝れなかったらまた俺のところにきてもいいよ、という甘い響き。彼はきっと戯れに発しただけなのだろう。だけど彼の言葉がずっと脳裏に焼きついて、ふとした瞬間に何度も思い出してしまう。宮川とはあの日限りの付き合いだったはずなのに、自分だけがずっと彼の言葉を思い出して、しかも少し熱を帯びたような感情を持て余してしまっていることが後ろめたい。だけど止めることができなかった。
「大丈夫だよ。あの……この間は本当にごめん」
「別にいいってば、もう気にすんなよ。それより体育休まなくて大丈夫?」
「うん……問題ないよ」
「まあ、体調辛くなったりしたら俺のこと頼ってよ」
そんな言葉をかけた後、宮川は友人たちのもとへと戻っていった。宮川とはこれ以上関わらず他人でいなければいけないと思っていたのに、そんな言葉をかけられてしまっては心が揺らいでしまう。温かな言葉に心が解れていくような朗らかな気持ちと、近づきすぎてまた前のように迷惑をかけてはいけないという冷静な気持ち。相反する感情に挟まれてなんだか落ち着かない。宮川はきっと優しいし良いやつだ。だから宮川と談笑している友人達のように、普通に宮川と仲良くなれたらいいのに、きっとそれは叶わないと思うと心がすりつぶされそうになる。
あんなことをしたのに怒りもせず、きっと誰にも言わずに無かったことにしてくれようとしている。かけてくれた言葉だって、きっと俺のことを心配してくれてのことなのだろう。なのに仲良くすることに変に緊張してしまったり、自分と宮川とを比べて憂鬱になってしまったり、自分の不器用さが憎くて嫌になる。きっとこのまま近づくことはなく、ただ宮川に対して一方的に色々な感情をわだかまらせてしまうのだろう。宮川が俺の卑屈さやつまらなさに気づいてしまう前に、避けた方がいいのかもしれないなんて陰鬱な思考にすら陥ってしまう。
色々と考え込んでしまって、体育もその後の授業中もずっと虚で集中できなかった。暗い思考に埋め尽くされ、ずっと気持ちが沈んでいてなんだか頭痛もしてくる。昼休みに入っても食欲も湧かず、せめてスポーツドリンクでも買いにいこうと思い、怠さがまとわりつく体を動かして売店へと足を進めた。
渡り廊下に差しかかったところで声をかけられた。小橋、と呼ぶよく通る声に心臓が鳴る。視線の先には宮川がひとりで立っていた。宮川は何も悪くないけど、悩みの種でもある彼が目の前に現れたことに動揺してしまう。
「やっぱり体調悪い? なんか顔色良くない気がする」
「大丈夫だよ。体育の後水分取ってなかったからそのせいかも。飲み物でも買いにいこうと思って」
宮川は何も答えない。しばらく考え込んだ後に手首を掴まれた。シャツから覗く腕は鍛えられていて、まっすぐに伸びた血管が浮き出ていることにどきりとしてしまった。
「え、なに」
「ちょっと休んでた方がいいよ。穴場があるから小橋はそこでゆっくり休んでて」
その手を振り払うことができない。でもそれは嫌だからではなくて、向けられる声があまりにも柔らかくて、こちらを捉える視線が優しかったからだった。こんなにまっすぐに誰かに心配されたことなんてない。悩んでいたことも忘れて、ただ目の前を歩く宮川から視線が離せなくなってしまった。
しばらく手をひかれて連れてこられたのは北棟と南棟との間だった。そこは良い具合に陰になっていて、初夏の草の匂いを含んだ風が通り抜けていき涼しくて心地良かった。息を吸うと肺いっぱいを空気が満たして、頭の中にわだかまっていた薄暗い思いが溶けていく。促されてベンチに腰掛ける。人通りも少なくて、宮川の言う通り穴場かもしれない。
「少し待ってて」
その言葉に返事をする間もなく、宮川は走り去っていってしまった。体育の時も足が速かった彼は、あっという間に遠ざかって姿が見えなくなってしまう。自分のためにあんなにも全力で走ってくれていることが嬉しくて、しばらく噛みしめてぼんやりとしてしまった。
五分くらい経った後で宮川は戻ってきた。手にはビニール袋を持っているが、中身が詰まってパンパンに膨らんでいる。何が入っているのか、と問いかける前にその中身を取り出した。
「スポーツドリンクと、購買でパンも何個か買ってきた。好きなの食べていいよ。おすすめはこれかな……焼きそばパン。これ、すぐ売り切れるから今日は買えてラッキー。あ、あんまり食欲がなかったらゼリーも買ってきてるからそっちでも」
購買の焼きそばパンは確かに人気で、クラスメイトの何人かも売り切れで買えなかったと嘆いているのを見たことがある。ふっくらとしたパンにつやつやとしたソースがたっぷりとかかっているのを見ると、食欲は湧いていなかったのに急に空腹を感じはじめてしまう。
「ありがとう。食欲は問題ないよ。でもこれは宮川が食べた方がいいよ。せっかく買えたんだから」
「えー……どうしようかな……小橋に元気出してほしくて買ってきたんだけど、確かにめちゃくちゃ美味しそうに見えてきた……あ、半分こする?」
自然な流れで提案されたけど、それに対してどう返していいのか分からなかった。しばらく沈黙が広がる。さっきまで楽しそうだった宮川が、少し不安そうに眉を下げる。
「……ごめん、俺、グイグイいきすぎてるよな。でも、小橋と仲良くなりたいんだよ」
まっすぐに見つめながらそう告げられる。口調ははっきりとしていて、それが嘘偽りのない彼の本音であることが分かった。でも、そんな言葉を人から向けられるのは初めてで上手く言葉を返せなくなる。
「仲良くなりたい、って……嬉しいけど、俺と話しててもつまんないよ」
やっと絞り出せたのはそんな卑屈な台詞だった。変なことを言ってしまったと思うが、宮川は俺の台詞を特に気にする様子もない。そんなことないけど、と一言言った後、焼きそばパンを半分に割って差し出した。
「やっぱり半分こしていい? 次からは二つ買ってくるから」
次、という言葉に嬉しくも少し動揺してしまう。だけど宮川は相変わらず気にする様子もなく、大きく口を開けて焼きそばパンを頬張りはじめる。宮川の距離の近さにいちいち動揺してしまうけど、俺が難しく考えすぎているだけなのかもしれない。
「これうまい。早く食べたほうがいいよ」
その言葉を受けて、手元の焼きそばパンを宮川と同じように口に運んだ。一口食べた時、甘辛いソースは少し濃く感じられた。でもそこに柔らかいパンが絡むと丁度良くなる。人気とはいえ毎日すぐに売り切れてしまっているのは少し大袈裟なような気がしていたけど、それも頷けると思った。
「……おいしい」
思わずそう零すと宮川は綻ぶように笑った。柔らかい目元に、形のいい唇。どれを取っても綺麗で、隣にいることがとてつもなく贅沢なことのように思えた。焼きそばパンを一通り食べた後に宮川がこちらに視線を向ける。見惚れてしまっていたから、なんだか後ろめたくて少し胸が痛む。
「小橋のクラスに中学の時の友達がいてさ。あ、渡辺ってやつな。そいつから聞いたんだけど、小橋ってクラス委員もしてるし、成績も良いんだって? 小テストで分からないことがあった時にすっごく丁寧に教えてくれたって渡辺が言ってた」
渡辺、という明るいクラスメイトの顔を思い出した。一度席が隣になった時に彼が小テストで赤点を取り、少しだけ勉強を教えたことがあった。うまく教えられていたか心配だったけど、悪く思われてはいなかったことに安心した。
「クラス委員は誰もやりたがらなかったからやっただけだし、頭も良いわけじゃないよ。渡辺がそう言ってくれてたのは嬉しいけど……」
「誰もやりたがらないことをやるってだけですごいんだよ。それ聞いて、小橋ってすごく良いやつなんだろうなって思って。だからもっと話してみたかった」
「え、あ、ありがとう」
「保健室の時もさ、めちゃくちゃ律儀に頭下げてくるからびっくりしたよ。俺、小橋のこと知らなかったから最初はちょっとからかうみたいなテンションになっちゃってたのはごめん。嫌とかじゃ本当になかったし、もう気にしないでよ」
まっすぐな言葉が嬉しかった。色々なことを考えて思い悩んでしまう俺と違って、宮川は相手を安心させたり嬉しくさせる言葉をまっすぐに向けてくれる。こういう風に、人を不快にさせずに自然に距離を取れるのは宮川の魅力のひとつなのだろう。体育の時、友人の輪の中にいる宮川はずっと笑顔だった。周りの友人達も本当に楽しそうで、宮川が皆に慕われてることが伝わってきた。絶えず人が集まるのは彼の人間力故で、自分も色々と試行錯誤して頑張ってきたつもりだったけど、俺には絶対に手にすることのできないものだと感じた。
「でもさ、小橋は良いやつだし、律儀だし、頑張り屋なんだと思うけど……だから疲れちゃうのかなって。今日も顔色悪くて心配だった。あ、まだ授業始まるまで時間あるしちょっと寝てく? この辺り涼しくて気持ち良いから、ちょいちょい寝てる人見るんだよな。良かったら頭どうぞ」
そう言った後、自分の太ももを軽く叩く。何を意味しているのかすぐに理解ができなかったが、きっとここに頭を乗せて寝て良いということなのだろう。
「え、悪いよ……重いよ」
「大丈夫だよ。なんとなく、小橋眠いのかなって」
昨日もしっかり眠れたわけでなく、そこに体育で走ったことによる身体的な疲れや、宮川のことでぐるぐると思い悩んでしまったことも相まって、確かに宮川の言う通り眠気と怠さを感じていた。数秒悩んだけど、宮川の言葉の通りに彼の太ももに頭を乗せ、膝を曲げてベンチに体が収まるように縮こめた。目を瞑ると背中に手を置かれ、宮川の手から熱が伝わってきて体温が一気に上がる心地がする。距離が近すぎるかもしれない。だけど宮川はいつもと何も変わらない様子だし、まだ友達と言えるのか分からないけど——そういう関係ならこれぐらいの距離感はおかしいものではないのかもしれない。何もかもが分からなくて、ただ速すぎる鼓動を宮川に悟られないようにすることに精一杯だった。
「授業始まる前になったら起こすよ」
少しトーンを落とした声が心地良い。目を閉じると、いろんな音が遠くで聴こえてくる。全てのことが別世界で起こっているような錯覚がした。自分が思っていたよりも疲れていたようで、すぐに眠気の波が来る。いつもはこんな風にスムーズに眠りに落ちることなんてできないのに、前に保健室で寝た時と同じように、滑り落ちるように意識が薄らいでいった。
「——海青」
ふと頭上から降り注いだ言葉に、全身を包んでいた眠気の波が飛んだ。思わず目を開くと宮川と目が合う。
「あっ……ごめん。起こしたな」
「いやっ……何かあった?」
「ごめん。なんでもなくて……ただ良い名前だなって。海に青って書くんだろ?」
家族以外の人間に下の名前を呼ばれたのは久しぶりだった。呼ばれることがあっても、「雰囲気に合っていない」だとか、「あんな暗い奴にこんな爽やかな名前なんて」だとかマイナスなことばかりだった。色々な負の言葉を向けられ続けて、自分でもこの名前を嫌いになりかけてしまっていた。
「ありがとう……あんまり似合ってないってよく言われるけどね」
お礼だけで留めておけば良かったのに、つい卑屈な言葉を吐いてしまった。宮川と仲良くするなら、卑屈な思考をなんとかしなければいけないと思うが、長い間色々なことを考えて、染みついてしまったものは簡単には変えられそうにもない。
「そうなの? いい名前じゃん」
「いや、なんか爽やかすぎるとか、暗いのにとか……」
「そんなことないと思うけど。でも確かに、小橋は真夏の海! というよりは、初夏とかの穏やかで綺麗な海って感じだよな」
笑顔で言われてどきりとした。嫌いになりかけていた、自分に似つかわしくない爽やかな名前。だけどこんな風にまっすぐに肯定されると、それを少し好きになれる気がした。沢山の幸せをくれる宮川は明るくて温かくて、俺とは違って「朝陽」という朗らかな名前がぴったりだと思った。
「ありがとう。宮川も……朝陽、っていい名前だよね」
「そう? こんな名前なのに朝が弱いから、中学の時はしょっちゅう部活の朝練に遅刻してからかわれてたけどな」
「何部だったの?」
「サッカー部。全然強豪とかじゃなかったけどな」
「そっか……だから脚が速いんだ」
「まあ、だいぶ鍛えられたかも。あ、だいぶ話し込んじゃったな。小橋ちょっとでも寝た方がいいよ。前にテレビで観たけど、十五分くらい寝るだけでもめちゃくちゃ効果あるんだって」
「……うん。分かった。少し寝ようかな」
もう少し話したい気持ちもあったけど、せっかく宮川が膝を貸してくれているのだからそれを無碍にするわけにはいかない。目を閉じると、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされて遠くの音や草木の匂いを鮮明に感じる。規則的に背中を撫でられるのが心地良くて意識が薄らいでいく。この前の保健室でも、宮川が側にいるといつもでは考えられないほどにスムーズに眠ることができた。声や匂いや体温、宮川が与えてくれる全てが心地良い。ずっと固くなっていた体も心もとろけて、絡まりあって解けなくなっていた色々なくらい思考も綺麗に緩んでいく。
眠りの直前、おやすみ、と柔らかい声で告げられた。ふわふわと海を漂うような感覚。温かくて気持ちよくて、ずっとこのままでいたくなってしまう。だけどその言葉を皮切りにゆっくりと意識は途切れていった。
不可抗力とはいえ宮川が寝ているベッドに入り込んでしまったこと。そしてその上ぐいぐいと近づいてしまったこと。周りにばらされていないか不安で仕方なかったけど、あの日の言葉通り宮川は誰にも言っていないようだった。今の行動だってきっと感じが悪かったけど、宮川はそこまで気にしていないのかもしれない。このまま宮川は俺のことなんか忘れて、普段の生活に戻っていくのだろう。ぐるぐるとそんなことを考えていた矢先だった。
「小橋、なんかまた体調悪い?」
頭上から降る声に顔を上げると、友人といたはずの宮川が目の前に立っていた。端正な顔つきに長い睫毛。あの日近すぎる距離でじっくりと見て綺麗だと思ったけど、その時の印象と変わらず目を惹きつけられてしまう。見惚れてしまってすぐに返事をすることができなかった。
「大丈夫?」
「……だ、大丈夫。体調悪くないよ」
「そう? ならいいけど。この前と同じような顔色してたから」
この前、と言われて身構えてしまう。忘れていてほしかったのに、宮川の方から話題を出されてしまった。こちらを気にかける優しい言葉は少し甘い響きを含んでいて、あの日最後にかけられた言葉を思い出した。思い出すだけで顔から火が出そうになって、できればずっとしまっておきたい出来事だけど、忘れようとしても最後にかけられた甘い声がずっと脳裏に焼き付いて離れてくれなかった。
あの日以降、夜になると保健室での出来事をいつも思い出した。羞恥や後悔は時間が経つと和らいでいったけど、最後にかけられた言葉だけはずっと鮮明に脳内に焼きついていて、布団に入るたびに彼の言葉を反芻してしまった。寝れなかったらまた俺のところにきてもいいよ、という甘い響き。彼はきっと戯れに発しただけなのだろう。だけど彼の言葉がずっと脳裏に焼きついて、ふとした瞬間に何度も思い出してしまう。宮川とはあの日限りの付き合いだったはずなのに、自分だけがずっと彼の言葉を思い出して、しかも少し熱を帯びたような感情を持て余してしまっていることが後ろめたい。だけど止めることができなかった。
「大丈夫だよ。あの……この間は本当にごめん」
「別にいいってば、もう気にすんなよ。それより体育休まなくて大丈夫?」
「うん……問題ないよ」
「まあ、体調辛くなったりしたら俺のこと頼ってよ」
そんな言葉をかけた後、宮川は友人たちのもとへと戻っていった。宮川とはこれ以上関わらず他人でいなければいけないと思っていたのに、そんな言葉をかけられてしまっては心が揺らいでしまう。温かな言葉に心が解れていくような朗らかな気持ちと、近づきすぎてまた前のように迷惑をかけてはいけないという冷静な気持ち。相反する感情に挟まれてなんだか落ち着かない。宮川はきっと優しいし良いやつだ。だから宮川と談笑している友人達のように、普通に宮川と仲良くなれたらいいのに、きっとそれは叶わないと思うと心がすりつぶされそうになる。
あんなことをしたのに怒りもせず、きっと誰にも言わずに無かったことにしてくれようとしている。かけてくれた言葉だって、きっと俺のことを心配してくれてのことなのだろう。なのに仲良くすることに変に緊張してしまったり、自分と宮川とを比べて憂鬱になってしまったり、自分の不器用さが憎くて嫌になる。きっとこのまま近づくことはなく、ただ宮川に対して一方的に色々な感情をわだかまらせてしまうのだろう。宮川が俺の卑屈さやつまらなさに気づいてしまう前に、避けた方がいいのかもしれないなんて陰鬱な思考にすら陥ってしまう。
色々と考え込んでしまって、体育もその後の授業中もずっと虚で集中できなかった。暗い思考に埋め尽くされ、ずっと気持ちが沈んでいてなんだか頭痛もしてくる。昼休みに入っても食欲も湧かず、せめてスポーツドリンクでも買いにいこうと思い、怠さがまとわりつく体を動かして売店へと足を進めた。
渡り廊下に差しかかったところで声をかけられた。小橋、と呼ぶよく通る声に心臓が鳴る。視線の先には宮川がひとりで立っていた。宮川は何も悪くないけど、悩みの種でもある彼が目の前に現れたことに動揺してしまう。
「やっぱり体調悪い? なんか顔色良くない気がする」
「大丈夫だよ。体育の後水分取ってなかったからそのせいかも。飲み物でも買いにいこうと思って」
宮川は何も答えない。しばらく考え込んだ後に手首を掴まれた。シャツから覗く腕は鍛えられていて、まっすぐに伸びた血管が浮き出ていることにどきりとしてしまった。
「え、なに」
「ちょっと休んでた方がいいよ。穴場があるから小橋はそこでゆっくり休んでて」
その手を振り払うことができない。でもそれは嫌だからではなくて、向けられる声があまりにも柔らかくて、こちらを捉える視線が優しかったからだった。こんなにまっすぐに誰かに心配されたことなんてない。悩んでいたことも忘れて、ただ目の前を歩く宮川から視線が離せなくなってしまった。
しばらく手をひかれて連れてこられたのは北棟と南棟との間だった。そこは良い具合に陰になっていて、初夏の草の匂いを含んだ風が通り抜けていき涼しくて心地良かった。息を吸うと肺いっぱいを空気が満たして、頭の中にわだかまっていた薄暗い思いが溶けていく。促されてベンチに腰掛ける。人通りも少なくて、宮川の言う通り穴場かもしれない。
「少し待ってて」
その言葉に返事をする間もなく、宮川は走り去っていってしまった。体育の時も足が速かった彼は、あっという間に遠ざかって姿が見えなくなってしまう。自分のためにあんなにも全力で走ってくれていることが嬉しくて、しばらく噛みしめてぼんやりとしてしまった。
五分くらい経った後で宮川は戻ってきた。手にはビニール袋を持っているが、中身が詰まってパンパンに膨らんでいる。何が入っているのか、と問いかける前にその中身を取り出した。
「スポーツドリンクと、購買でパンも何個か買ってきた。好きなの食べていいよ。おすすめはこれかな……焼きそばパン。これ、すぐ売り切れるから今日は買えてラッキー。あ、あんまり食欲がなかったらゼリーも買ってきてるからそっちでも」
購買の焼きそばパンは確かに人気で、クラスメイトの何人かも売り切れで買えなかったと嘆いているのを見たことがある。ふっくらとしたパンにつやつやとしたソースがたっぷりとかかっているのを見ると、食欲は湧いていなかったのに急に空腹を感じはじめてしまう。
「ありがとう。食欲は問題ないよ。でもこれは宮川が食べた方がいいよ。せっかく買えたんだから」
「えー……どうしようかな……小橋に元気出してほしくて買ってきたんだけど、確かにめちゃくちゃ美味しそうに見えてきた……あ、半分こする?」
自然な流れで提案されたけど、それに対してどう返していいのか分からなかった。しばらく沈黙が広がる。さっきまで楽しそうだった宮川が、少し不安そうに眉を下げる。
「……ごめん、俺、グイグイいきすぎてるよな。でも、小橋と仲良くなりたいんだよ」
まっすぐに見つめながらそう告げられる。口調ははっきりとしていて、それが嘘偽りのない彼の本音であることが分かった。でも、そんな言葉を人から向けられるのは初めてで上手く言葉を返せなくなる。
「仲良くなりたい、って……嬉しいけど、俺と話しててもつまんないよ」
やっと絞り出せたのはそんな卑屈な台詞だった。変なことを言ってしまったと思うが、宮川は俺の台詞を特に気にする様子もない。そんなことないけど、と一言言った後、焼きそばパンを半分に割って差し出した。
「やっぱり半分こしていい? 次からは二つ買ってくるから」
次、という言葉に嬉しくも少し動揺してしまう。だけど宮川は相変わらず気にする様子もなく、大きく口を開けて焼きそばパンを頬張りはじめる。宮川の距離の近さにいちいち動揺してしまうけど、俺が難しく考えすぎているだけなのかもしれない。
「これうまい。早く食べたほうがいいよ」
その言葉を受けて、手元の焼きそばパンを宮川と同じように口に運んだ。一口食べた時、甘辛いソースは少し濃く感じられた。でもそこに柔らかいパンが絡むと丁度良くなる。人気とはいえ毎日すぐに売り切れてしまっているのは少し大袈裟なような気がしていたけど、それも頷けると思った。
「……おいしい」
思わずそう零すと宮川は綻ぶように笑った。柔らかい目元に、形のいい唇。どれを取っても綺麗で、隣にいることがとてつもなく贅沢なことのように思えた。焼きそばパンを一通り食べた後に宮川がこちらに視線を向ける。見惚れてしまっていたから、なんだか後ろめたくて少し胸が痛む。
「小橋のクラスに中学の時の友達がいてさ。あ、渡辺ってやつな。そいつから聞いたんだけど、小橋ってクラス委員もしてるし、成績も良いんだって? 小テストで分からないことがあった時にすっごく丁寧に教えてくれたって渡辺が言ってた」
渡辺、という明るいクラスメイトの顔を思い出した。一度席が隣になった時に彼が小テストで赤点を取り、少しだけ勉強を教えたことがあった。うまく教えられていたか心配だったけど、悪く思われてはいなかったことに安心した。
「クラス委員は誰もやりたがらなかったからやっただけだし、頭も良いわけじゃないよ。渡辺がそう言ってくれてたのは嬉しいけど……」
「誰もやりたがらないことをやるってだけですごいんだよ。それ聞いて、小橋ってすごく良いやつなんだろうなって思って。だからもっと話してみたかった」
「え、あ、ありがとう」
「保健室の時もさ、めちゃくちゃ律儀に頭下げてくるからびっくりしたよ。俺、小橋のこと知らなかったから最初はちょっとからかうみたいなテンションになっちゃってたのはごめん。嫌とかじゃ本当になかったし、もう気にしないでよ」
まっすぐな言葉が嬉しかった。色々なことを考えて思い悩んでしまう俺と違って、宮川は相手を安心させたり嬉しくさせる言葉をまっすぐに向けてくれる。こういう風に、人を不快にさせずに自然に距離を取れるのは宮川の魅力のひとつなのだろう。体育の時、友人の輪の中にいる宮川はずっと笑顔だった。周りの友人達も本当に楽しそうで、宮川が皆に慕われてることが伝わってきた。絶えず人が集まるのは彼の人間力故で、自分も色々と試行錯誤して頑張ってきたつもりだったけど、俺には絶対に手にすることのできないものだと感じた。
「でもさ、小橋は良いやつだし、律儀だし、頑張り屋なんだと思うけど……だから疲れちゃうのかなって。今日も顔色悪くて心配だった。あ、まだ授業始まるまで時間あるしちょっと寝てく? この辺り涼しくて気持ち良いから、ちょいちょい寝てる人見るんだよな。良かったら頭どうぞ」
そう言った後、自分の太ももを軽く叩く。何を意味しているのかすぐに理解ができなかったが、きっとここに頭を乗せて寝て良いということなのだろう。
「え、悪いよ……重いよ」
「大丈夫だよ。なんとなく、小橋眠いのかなって」
昨日もしっかり眠れたわけでなく、そこに体育で走ったことによる身体的な疲れや、宮川のことでぐるぐると思い悩んでしまったことも相まって、確かに宮川の言う通り眠気と怠さを感じていた。数秒悩んだけど、宮川の言葉の通りに彼の太ももに頭を乗せ、膝を曲げてベンチに体が収まるように縮こめた。目を瞑ると背中に手を置かれ、宮川の手から熱が伝わってきて体温が一気に上がる心地がする。距離が近すぎるかもしれない。だけど宮川はいつもと何も変わらない様子だし、まだ友達と言えるのか分からないけど——そういう関係ならこれぐらいの距離感はおかしいものではないのかもしれない。何もかもが分からなくて、ただ速すぎる鼓動を宮川に悟られないようにすることに精一杯だった。
「授業始まる前になったら起こすよ」
少しトーンを落とした声が心地良い。目を閉じると、いろんな音が遠くで聴こえてくる。全てのことが別世界で起こっているような錯覚がした。自分が思っていたよりも疲れていたようで、すぐに眠気の波が来る。いつもはこんな風にスムーズに眠りに落ちることなんてできないのに、前に保健室で寝た時と同じように、滑り落ちるように意識が薄らいでいった。
「——海青」
ふと頭上から降り注いだ言葉に、全身を包んでいた眠気の波が飛んだ。思わず目を開くと宮川と目が合う。
「あっ……ごめん。起こしたな」
「いやっ……何かあった?」
「ごめん。なんでもなくて……ただ良い名前だなって。海に青って書くんだろ?」
家族以外の人間に下の名前を呼ばれたのは久しぶりだった。呼ばれることがあっても、「雰囲気に合っていない」だとか、「あんな暗い奴にこんな爽やかな名前なんて」だとかマイナスなことばかりだった。色々な負の言葉を向けられ続けて、自分でもこの名前を嫌いになりかけてしまっていた。
「ありがとう……あんまり似合ってないってよく言われるけどね」
お礼だけで留めておけば良かったのに、つい卑屈な言葉を吐いてしまった。宮川と仲良くするなら、卑屈な思考をなんとかしなければいけないと思うが、長い間色々なことを考えて、染みついてしまったものは簡単には変えられそうにもない。
「そうなの? いい名前じゃん」
「いや、なんか爽やかすぎるとか、暗いのにとか……」
「そんなことないと思うけど。でも確かに、小橋は真夏の海! というよりは、初夏とかの穏やかで綺麗な海って感じだよな」
笑顔で言われてどきりとした。嫌いになりかけていた、自分に似つかわしくない爽やかな名前。だけどこんな風にまっすぐに肯定されると、それを少し好きになれる気がした。沢山の幸せをくれる宮川は明るくて温かくて、俺とは違って「朝陽」という朗らかな名前がぴったりだと思った。
「ありがとう。宮川も……朝陽、っていい名前だよね」
「そう? こんな名前なのに朝が弱いから、中学の時はしょっちゅう部活の朝練に遅刻してからかわれてたけどな」
「何部だったの?」
「サッカー部。全然強豪とかじゃなかったけどな」
「そっか……だから脚が速いんだ」
「まあ、だいぶ鍛えられたかも。あ、だいぶ話し込んじゃったな。小橋ちょっとでも寝た方がいいよ。前にテレビで観たけど、十五分くらい寝るだけでもめちゃくちゃ効果あるんだって」
「……うん。分かった。少し寝ようかな」
もう少し話したい気持ちもあったけど、せっかく宮川が膝を貸してくれているのだからそれを無碍にするわけにはいかない。目を閉じると、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされて遠くの音や草木の匂いを鮮明に感じる。規則的に背中を撫でられるのが心地良くて意識が薄らいでいく。この前の保健室でも、宮川が側にいるといつもでは考えられないほどにスムーズに眠ることができた。声や匂いや体温、宮川が与えてくれる全てが心地良い。ずっと固くなっていた体も心もとろけて、絡まりあって解けなくなっていた色々なくらい思考も綺麗に緩んでいく。
眠りの直前、おやすみ、と柔らかい声で告げられた。ふわふわと海を漂うような感覚。温かくて気持ちよくて、ずっとこのままでいたくなってしまう。だけどその言葉を皮切りにゆっくりと意識は途切れていった。
