たゆたうマリンブルー

 僅かな違和感が生まれたかと思うと、それは一気に体を蝕んでいく。最初は少しの頭の痛みだった。でも一度自覚してしまうと、転がり落ちるようにそれはどんどん酷くなっていった。息をして落ち着こうとするけど、脈と連動するように痛みも波打っていく。一時間目は耐えた。二時間目もなんとか耐えた。だけど三時間目の途中で、視界もなんだかぼやけるほどに頭痛は酷くなってしまった。このままでは倒れてしまうかもしれない。数々の経験からそれを察して、できるだけ周りから目立たないようにゆっくりと立ち上がった。痛みに視界が覚束ない中でなんとか脚を進める。できるだけ注目を浴びないようにしたつもりだけど、授業中に立ち上がってしまってはじろじろと見られることは避けられない。何人かの視線が背中に刺さっているのを感じて、息苦しさから痛みが増幅するのを感じた。
「すいません、頭が痛くて」
 そう口を開くのが精一杯だった。顔色はきっと最悪で、だから全く疑われなかったのだろう。保健室にはひとりで行けるか、という教師からの問いに頷いて教室を出る。廊下に出て息をついた。白黒する視界を深呼吸で整えて、なんとか足を進めていく。

 保健室に着いてすぐベッドに案内された。目隠しのためのカーテンを開けて、白くぴんと張られたシーツに崩れ落ちるように身を埋めた。目を瞑ると脈打つような痛みをはっきりと感じる。呼吸を整えるけど、いくら息を吸ってもなんだか息が苦しい。穴が空いたザルのように、酸素が全て自分の体から抜けていってしまう心地がした。もう何度も経験した感覚。この後はきっと意識を失うように眠りに落ちて、少し眠れば痛みはきっとマシになる。あと少しの辛抱だ。そう言い聞かせて、ただ息を整えることに集中した。
「……大丈夫か?」
 低く静かな声がして、規則正しく背中を撫でられる。その手の動きに合わせて呼吸をすると、乱れていた息が正しく整えられていくのを感じた。心地良い甘い匂いと、体全体を包んでくるほのかな熱。緩いまどろみの中、何にも抗わず身を任せる。子供の時、家族で海に行った時のことをなぜか思い出した。ただぼんやりと浮かんでいるのが心地良くて、時間が経つのも忘れてずっと海に浸かっていた。優しい手つきは、そのときの心地よさを彷彿とさせて思考がふわふわと覚束なくなってくる。
 心も体も芯から和らぐような優しい手の動きも、耳元を掠める穏やかな声もきっと夢なのだろう。そう思いつつも少しでも縋りつけるものが欲しくて、声が聞こえる方へと体を寄せた。また背中が撫でられ、その度に波打っていた痛みが凪いでいく。このままずっと身を任せていたい。久しぶりに感じた、穏やかに眠りへと落ちていく感覚。ずっとこんな風にたゆたっていたい。身を任せているうちに心地よく意識は落ちていって、細い糸で繋がっていた意識もやがて途切れた。
 
 まどろみの海でずっと浮かんでいたけど、だんだんと意識は覚醒していく。ベージュのカーテンが視界に入り、ここが保健室のベッドであることに気づく。ずっと寝ていたからか少し体が痛む。寝返りを打った途端、体に何かがぶつかった。ほのかに温かくて、なんだかいい匂いがする。まだぼんやりとした視界の中誰かと視線が合った。
「ひ、人?!」
「いや、第一声がそれ?」
 弾かれたようにベッドから離れる。俺の焦りとは裏腹に、ベッドの上の主は全く焦ることなくそこに居座り続けていた。少し茶色がかった髪は乱れていたが、撫でつけるとすぐに綺麗に整った。
「な、なんでここに」
「それはこっちのセリフだよ。俺が寝てたらお前がいきなりベッドに入りこんできたんだよ」
 人を痴漢みたいに、と不満そうに続ける。思考がどんどんクリアになってきて、少し前のことを鮮明に思い出す。痛みと眩暈に耐える中感じた心地良い体温。そして低くて耳触りのいい声。夢ではなくて現実だったのだろう。でもなんでこんなに近くに他人がいるのか分からず、焦りから鼓動はずっと速いままだ。
「俺が入り込んだ……?」
「そう。先生と話してただろ。一番左のベッドに入って、って言われてたのに、お前は一番右のここに入り込んできたんだよ」
 本来俺が寝るはずだったベッドの方向を指差しながら言う。眠りにつく前の記憶を思い出した。保健の先生から、確かに一番左、と言われた記憶がある。ただ頭痛が酷くて思考力が鈍っていて、一番先に目についたベッドに反射的に転がり込んでしまった。
 目の前の彼は呆れたような視線をずっとこちらに向けている。淡い色の瞳に、意志の強そうな眉。端正な顔立ちには見覚えがあった。隣のクラスの宮川朝陽。クラスの中でも目立つグループにいて、皆から慕われている印象があった。そんな相手にこんな失態を犯してしまうなんて。
「……ごめん」
 謝って済むものではないかもしれない。だけど謝らないわけにはいけない。そう思ってただ頭を下げた。羞恥心から頬が熱くなり涙腺が緩む。どんな言葉をかけられるのか、周りに言いふらされたりしないか。様々な最悪の事態を想像してしまい息が詰まった。鼓動がひたすらに速くて、握りしめた拳には汗が滲み喉が渇く。
「別に良いけどさ、そういうアピールかと思った」
 さっきまで遠かった声が目の前で聞こえる。顔を上げた先、からかうような笑みをたたえて、試すような視線を宮川はこちらに向けていた。先程よりも距離が近くて、眠りの中で感じたのと同じ甘い匂いがした。記憶を呼び覚まして鼓動が一気に速まり、息が苦しくなるのを感じる。
「可愛かったんだけどな。ぎゅっと抱きついてきたりして」
「う、嘘」
「嘘じゃないよ。全く身動きが取れなかった」
 からかうような響きに全身が熱くなる。背中に汗が這って、それが余計に不快を呼ぶ。よく知らない隣のクラスの、しかも男に抱きつかれるなんてきっとすごく不快だっただろう。羞恥と申し訳なさで視線を合わせられなかった。
「……普段あんまり寝れてなくて寝不足で、だから全くそんなつもりはなくて、不可抗力というか……とにかくごめん」
 何を言っても言い訳にしかならなくて、自分がどんどん情けなくなる。頭を下げたけど、どんな言葉をかけられるか分からなくて緊張から体が強張った。拳を握りしめると、伸びかけた爪が手のひらに食い込んで鈍い痛みが走る。
「別にいいよ。体調悪いんだろうなって分かってたし。それに嫌とかじゃなかったし、誰にも言ったりしない。だからそんなに思い詰めないでよ。からかったみたいになったのはごめん」
 俺の緊張とは反して、あっけらかんと言い放つ。軽い口調からは、その言葉が嘘だとは感じられなかった。
「ほ、本当?」
「体調悪かったんだろ。目の下のクマを見れば嘘じゃないって分かるよ。寝不足?」
 指が目元に触れ、柔らかい手つきでなぞられた。くすぐったさに肌が粟立ち、かけられた言葉に頷くことすらできなくなる。他人とこんなに近い距離感で接するなんて初めてかもしれない。まるで時間が止まったかのように、撫でられた指の感覚を鮮明に感じる。
「……ちゃんと眠れないのは辛いよな」
 零れ落ちるようにしみじみと呟かれて何も返せなかった。優しい響きに頬に熱が集まる。こちらを思いやるような言葉を向けられるなんて思ってもみなかった。怒ったり気持ち悪がられたりしても仕方ないことをしてしまったのに、こんなに穏やかな声をかけてくれる。彼の寛大さには感謝しないといけないし、きちんと言葉にして礼を言わないといけないのに、動揺から声も出ずただ立ち尽くすことしかできなかった。
「眠れなかったらまた俺のところに来てもいいよ。じゃあ、俺は教室に戻るから」
 耳元でそう言った後に離れていく。ひとり残された後も、静寂の中動けずにずっとただ佇んでいた。甘さを含んだ声が耳を掠めて、余韻でずっと耳が熱い。きっと冗談で発したであろう彼の言葉。さっきまで身を潰されそうなほど羞恥と後悔を感じていたのに、今はその甘い言葉が脳内を埋め尽くしてしまっていた。

 夜、自室のベッドに入って息をつく。今日のことを思い出すと、恥ずかしすぎて叫び出したいような衝動に駆られた。眠れていないのも、それで頭痛を起こしたのも避けられなかった。でもそれでこんなにも恥ずかしい思いをしたり、誰かに迷惑をかけることはしたくなかった。宮川はきっと誰かに言いふらしたりしない。クラスも違うし、宮川のことはあまり知らないけど、かけられた言葉や行動に嘘は込められていない気がした。だけど動揺していることには変わりなく、後悔や羞恥が頭を満たしてぐるぐると渦巻いている。時間を戻したいなんて、叶うはずもないのにそんなことを考えてしまう。
 今日のこの突拍子のない行動のように、これまでも無意識のうちに誰かを不快にさせることが多かったのかもしれない。「嫌なことを言われたりされたりするのは、お前に原因があるんじゃないか」中学の時、担任からかけられた言葉を思い出した。いつかそう言われた日から、もうそうならないようになるべく隙を作らないようにしていた。なのにそれが一気に崩れ落ちてしまった気がする。早く忘れたいし、忘れてほしい。今日の出来事を宮川がすぐに記憶の片隅に追いやってくれる事を願いながら、早く眠れるように思考をシャットアウトしようと目を瞑る。でも考えないようにしようとしても、自分の取ってしまった突拍子もない行動と、そして宮川から最後にかけられた言葉を思いだしてしまう。気がつけば色々な逡巡が脳内に湧き出てしまい、結局眠りに落ちるまでにはかなりの時間がかかった。