それから、どれだけ苦痛な前世の夢を見ても、僕は平気になった。
どんなに過去が辛くても、今が幸せなのだから気にする必要は無いと、思えるようになったから。
王子とは名ばかりの、国王の所有する駒の一つでしかなかったことも、最後は抵抗の余地なく殺されてしまったことも。前世の武井君が、どんな理由で僕を殺したのかさえも。今の僕にとっては、些細な出来事でしかなくなった。
今の僕には、僕を愛してくれる家族がいて、一緒に夏休みや学校生活を過ごす友達がいる。それに、行きたいと思った場所に自由に行くことも出来る。
そう思えば、なんだか何でも出来るような気がしてきた。
漠然と。けれども判然と。
前世では出来なかったことをもっと沢山したいし、行けなかった場所にも行きたい。押し込めていた色々な欲が、次から次へと溢れ始めた。
気付けば僕は、さらに欲張りになってしまったようで。
そのどの願望にも、ある存在がついて回った。
(できれば武井君と、一緒にやりたいな。)
沢山の大きな欲の中で生まれた小さな欲。しかしその小さな欲は、控えめながらに一番色鮮やかな欲でもあった。
きっと武井君は、僕がやりたいと言ったことは、きっと何でも「全部やろう」と優しいあの笑顔で肯定してくれる。僕が知らない場所へと連れて行ってくれて、知らない遊びは何でも教えてくれる。
武井君のことを考えれば考える程、心は温かくなって、気持ちはわくわくとして、頬は熱くなった。
(武井君とやりたいこと、いっぱいやろう。)
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そうして僕は、数あるやりたい事の中でも一番簡単で、一番すぐに実現出来そうな事を、武井君を誘って実行することにした。
「映画?ああ、今話題になってるやつか。勿論いいぞ。」
夏休みが明けてしばらくして、今まで散々に詰め込んだ予定が全部捌けた頃。部活が終わった武井君の所に向かい、差し入れとして調理部で作ったカップケーキを渡し、校門の所まで一緒に歩きながら映画に誘った。
映画に関しては、さすがに小学生の頃親と行った記憶があるので初めてではない。でも友達とだけで行くことは無かったため、これもやりたい事リストのうちの一つにあった。それともう一つ、目的がある。
案の定二つ返事で了承してくれる武井君。
さっそく予定を決めることにした。
「戸村と都築も誘うか?」
武井君の部活予定を聞いたところで、いつもの調子で武井君が言う。何の含みも思惑もない提案。四人でいることが当たり前になった今、それは当然の考えだった。
それも悪くはないけれど、そうなれば普段と同じだ。
僕は武井君と二人でお出かけ、というやつをやってみたかったのだ。これがもう一つの目的だ。
「ううん、二人がいい。」
珍しくそういう僕に、武井君は少し首を傾げるも、すぐにまた優しい笑みに戻って頷いた。
「そうか。分かった。」
こうして決まった週末の予定。
映画館は僕たちの住んでいる所の近くにも存在はしているが、せっかくだから大きな市街地の方に出て、そこで遊びつつ映画も見ようということになった。
市街地までは学校から電車で数駅かかる。当日は学校前に集合して、それから二人で電車に乗って映画館まで行く方針だ。
映画を見て、それから何をしよう。SNSで有名なカフェに行くのもいいし、商業施設を見て回るのも良い。考えるだけで、今から週末が楽しみで仕方なかった。
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「もしかして、待たせちゃった?」
「そんなことないぞ。…よし、行こうか。」
時間より少し前に校門についたが、既に武井君は居た。
武井君もいつも時間は守るタイプだから、武井君が来たらすぐに出発できるよう早めに来てみたが、逆に待たせてしまったようだ。
それでも武井君は何でもない顔で、むしろ僕が来たと分かった瞬間から笑顔で応えてくれて。
どうしよう。いつも見ているはずだし、二人きりだなんてよくある事のはずなのに、何故だか今日はその笑顔が、少しむず痒い感じがした。急いで走ってきた訳でもないのに、心拍数がいつもより速い気がする。なんだか落ち着かない。
「滝沢は、いつも学校まで電車だろ?途中下車させて悪かったな。」
「いやいや大丈夫!街まで行くなら、途中で降りてもそんなに値段変わらないから。」
そんな話をしながら、僕は先程通ったばかりの道と駅の入口を通る。僕の家の最寄り駅から市街地までは1本の電車で行くことができるが、その途中に学校があるのだ。
「武井君はいつも自転車だもんね。」
「ああ、遊びに行く時くらいしか乗らないな。」
今日も学校までは自転車で来たようだ。自転車は学校の駐輪場に停めてきたらしい。
そこでふと、武井君の家の位置を思い出す。
「あれ、武井君も同じ方向じゃなかった?遠くない?」
「いや、いいトレーニングになる。」
中学校の学区は離れていたが、武井君も僕と同じ西区から来ているはずだ。学校まではそれなりに距離があるはずだが、体力のある武井君には問題無いらしい。
駅のホームで電車を待つ。数分待っていれば、電車はすぐに来た。
「うわ、結構混んでるな。」
「そう?いつもこんな感じだよ?」
休みの日と言えど、市街地と郊外を結ぶ電車はそれなりに混んでいる。通勤通学ラッシュの時間程ぎゅうぎゅう詰めではないが、満員電車と呼べる程の混み具合。
慣れた僕はどうと言うことはないが、普段あまり電車に乗らない武井君はドン引きといった表情だった。
「ふふっ、」
「何笑ってるんだ。」
「いや、武井君のそんな顔、初めて見たと思って。」
どんな時でもにこにこと笑顔を絶やさない武井君。そんな彼の引き攣った顔に、思わず笑ってしまう。
「さ、乗るよ。」
「お、おう…。」
珍しく僕がリードする形で武井君を引き連れる。
少し躊躇った様子の武井君だが、いざ僕が乗れば覚悟を決めたのか、同じように人混みへ飛び込んだ。
「……。」
「……。」
市街地までは数駅。その間の時間はこうして黙って立っているしかないが、少し我慢すればいいだけの話だ。
幸いにも、僕は他の人より身長はある方だから、人混みだとしても頭が出ている分、いくらかマシだ。武井君は僕よりも背が高いから、もっと楽なはずだ。まあ、天井が低い電車内では、そちらの方が窮屈なくらいだろう。
そうしてしばらく電車の揺れと、人混みの揺れに身を任せていた時、ある変化に気付いた。
(ああ、またか。)
僕の太腿に、誰かの手が触れている。
それは、思わず当たってしまったという手の甲の感触ではなく、意志を持って触っているという手のひらの感触で。
生温かいその手は電車の揺れに従いながら、僕の太腿や尻の辺りをゆらゆらと擦った。
(どこにでも居るんだな。こういう人。)
不快感はあったが、それだけだ。
反撃する程の怒りも湧かなければ、取り立てて騒ぐ程の気力もない。満員電車では良くあること。そういうものだとさえ思っていた。
男の脚や尻を触って楽しいのだろうか。それとも、どさくさに紛れて触れるのなら誰でもいいのか。
かなりの頻度でそういうの遭遇してしまうと、いやでも慣れてしまう。どうせ、バレるのを恐れてなのだろうが、それ以上に接触がエスカレートすることもない。
降りるまでの少しの時間、気にしなければいいだけの話だ。
知らない人の手が当たっているという、ちょっとした不快感を。
(あと二駅か。)
降りる駅までほんの数分。考え事でもして気を逸らしていればいいだけ。そう思って目を閉じた瞬間だった。
「ぅ、……っ、」
後ろで聞こえた誰かの呻き声。そして離れた手の感触。そして少し上から聞こえた低い声。
「次の駅で降りるぞ。」
「え?う、うん?」
それは間違いなく武井君であったが、いつもと声のトーンが違った。有無を言わさないという雰囲気を感じて、降りるつもりのない駅だったが、大人しく武井君の言う通りにすることにした。
プシューーッ、ガチャンッ
扉の開く音が大きくなる。それと同時に、目の前にいる人達を掻き分けて前に出る。
押し出されるようにホームへと降りれば、すぐ後ろで武井君も電車を降りている。そして何故かその右手で、知らない男の人の腕を掴んでいた。
「え?」
誰その人。
その駅で降りたのは僕達三人だけ。それもそうだ、他の乗客達は皆市街地を目指して乗っているのだから。
意図が掴めなくて、武井君の顔を伺ってみれば、見た事もない表情で怒っていた。
「な、なん…で…」
状況が分からなくて困惑する僕を他所に、武井君は無言で男性を掴んだまま、ホームの隅へと向かう。男性も顔が真っ青だ。とても武井君と知り合いといった様子じゃない。
電車が出発して、辺りは閑散とする。ホームの出口には人が居たが、人の居ないホームの隅へと武井君は向かう。
武井君と彼に引きずられていく男性の後を、よく分からないままについて行ってみれば、武井君は壁に向かってその男性を投げた。
「え!?!?」
びっくりして声を上げるが、その直後にそれよりも衝撃的な光景を目の当たりにした。
「ヒィッ!?」
───ドカッ!!!
男性の小さな悲鳴と、それから少し遅れて聞こえた、大きな打撃音。
武井君が、目の前の男性の顔を殴ったのだ。それはもう、盛大に。
バタッと人が倒れる音に、ハッとする。武井君は男性の胸ぐらを掴むと、また拳を構えている。僕は慌てて武井君の腕を掴んだ。
「ちょちょちょっ…ダメだよ殴ったら!!」
僕は武井君から男性を引き剥がそうとした。
一体どうしたというのだろうか。こんなに怒っている武井君は見た事がない。あの優しい武井君が、人を殴るだなんて。
「止めんな!!お前はコイツの被害者だ!!」
頭に血が上っている武井君が、男性を解放しようとする僕に向かって、普段からは想像も出来ない声で怒鳴った。
その一言で、僕はやっと状況を理解した。
どうやら、武井君に殴られた男は、電車内で僕の脚を触っていた奴だったようだ。武井君は、僕が被害にあったと思っているから、こんなに怒っているらしい。
「僕は大丈夫だから!!」
触られただけで、大きな被害は受けていないと武井君に訴えかける。ちょっと不快な思いをしただけ。それだけだ。
「ね?怪我してないよ?無事だから!」
「……、」
僕の必死の無事アピールと説得に、武井君は冷静になったのか、腕から力が抜けた。その瞬間、掴まれていた男は手から抜け出し、転がるように走って行ってしまった。
それを目で追う武井君。だが、力が抜けたまま返ってこないのか、しばらく愕然とした後に、よろよろとその場にしゃがみ込んだ。
「お前は、そういう奴だった…、いつも……。」
「?」
溜息と一緒に吐き出された、武井君の消え入りそうな声。
"いつも"の後に続く言葉は聞き取れなかったが、武井君が落ち着くまでは聞き返せそうにない。
頭を抱えている武井君。僕はどうして良いか分からず、その様子を見守るばかりだ。
「…あんなことされて、平気なのか?」
武井君は、忌々しそうなジト目でこちらを見る。その顔も、初めて見るものだ。慣れない武井君の雰囲気に、どぎまぎしつつも何とか口を開く。
「いや、いつもだし…、慣れちゃって……、」
「……。」
そう言うと、武井君の表情はさらに険しくなった。会話の選択肢を間違えたようだ。
でも、本当に、武井君がそんなに怒るほどの事では無いんだと、伝えたいがそれを言えばさらに彼は怒るかもしれない。どうすれば大丈夫だと伝えられるだろうか。
そんな事を考えていると、武井君はホームの床に向かって、今までで一番大きな溜息を付いた。
「…オレも電車で通学する。」
「え?」
満員電車に嫌そうな顔をしていた武井君が、電車で通学しようと決めるだなんて、一体どういう風の吹き回しか。
僕のキョトンとした表情を見てか、武井君は少しだけ僕を睨むようにして宣言した。
「滝沢が乗る駅から、オレも一緒に電車に乗って通学することにした。」
