それから、僕たちはその後2度のテスト勉強会を開いて、期末テストへと備えた。始まってしまえば、5日間もあったテスト日程なんてあっという間で。
後ろの席の戸村君は、1つのテストが終わる度に「もう終わりだ...。」なんて言って嘆いていたけど、武井君はどの教科もまあまあだなって笑っていた。
そんなこんなですぐに学期末。テストの結果が出揃った。
僕は学年10位以内に入ることが出来たし、武井君もどうやら100位以内だったようだ。都築君はちょうど平均くらい。
そして、
「神様仏様滝沢様!!ありがとうございます!!」
無事に赤点を回避した戸村君が、これでもかと目を輝かせて僕に賛辞の言葉を送る。聞けば、全教科で赤点を一つも取らなかったのはこれが初めてとのこと。
「僕がっていうより、完全にやる気の問題でしょ...。」
勉強を教えてくれと言われたのが、ギリギリであるテスト1週間前だったため、テスト頻出の問題に限って教えた。僕的にはこんなので大丈夫かと教えながら心配したが、赤点を回避するだけならそれで良かったみたいだ。
とはいえ、教えた内容も問題集の答えレベルの解説だ。何とかなったのは、僕が教えたから出来たというよりは、戸村君の幸せ夏休み計画を成功させるためのやる気が、彼の集中力を上げたのだろう。
ともかく、これで何の憂いもない夏休みを送ることが出来る。補講に行く必要もないので、遊び放題である。
「さあお前ら、夏休みの予定決めるぞ!!」
張り切ってスマホを取り出す戸村君に、皆も今度こそちゃんと決めようかと、予定のすり合わせをし始めた。
武井君と戸村君は部活の練習予定が、都築君はバイトの予定があるようだったので、みんなが空いている日に、あれやこれやと予定を詰め込む。この調子なら、あの時戸村君が言っていた予定のほとんどが実現しそうだ。
********
夏休み、僕たちは毎週のように予定を入れた。
まずはホラーゲーム大会。
夏といえば心霊やホラーだという戸村君の発案で計画され、全員で都築君の家に泊まりに行った。
ホラーゲームが好きだという都築君は、ゲーム機やパソコンで色々なものを教えてくれた。戸村君は、言い出しっぺの割には怖いものが苦手らしく、ゲーム画面から大きな音がしたり何かが出てきたりする度に叫んでいた。けれどもやっぱりどこか楽しそうにしていた。武井君は、驚かしてくるタイプのギミックには平気そうな顔をしていたが、日本系ホラーなどの心霊系や不気味なアイテムなどには苦い顔をしていた。
...僕?僕は全部駄目でした。
それから、泊まった次の日にはスイカ割りをした。
都築君の家の庭でだけど。それでもスイカ割りはスイカ割りだ。レジャーシートを敷いて、少し小ぶりなスイカを置いて、手頃な棒がなかったので掃除用具の柄の部分を使ったが、目隠しをして振りかざせば、ちゃんとスイカ割りになる。
もちろん、そんな適当な棒では簡単には割れはしなかったのだが、大トリの武井君が見事に割ってくれた。さすが剣道部である。
ちなみに、最初から竹刀を使えば良かったのでは?と都築君が聞いていたが、竹刀は汚したくないとのことだった。それはそうだ。
翌週には近所の夏祭りに行った。
浴衣の女子が通りすがる度に、戸村君が何で男4人で夏祭りなんか来てるんだと後悔していたが、発案者も誘った人も自分だろうが。
全員私服での参加だったがそれなりに楽しんだ。出店で買い食いをしつつ、最後には花火を見た。
今世では花火は何度か見た事があったが、空に咲く花はやはり美しかった。
そしてその次はついに、僕が興味を引かれていたあの海に行くことになった。
駅前に集合して、海近くの駅まで電車とバスに乗って行くことにした。最寄りの駅に到着して、海岸近くに向かうバスを待つ。振り返ると、少し向こうの方に一面の青が見えた。
「海に行けるんだ...!」
海、だ。テレビや写真で見た景色が、すぐそこにある。どうしてこんなにもわくわくが止まらないのか。こうも心が揺さぶられるのは、何故なのか。
「お前海好きなの?」
「そう、なのかな?…初めて行くから分からないけど…!」
そわそわと落ち着かなげな僕を不思議に思ったのか、戸村君が僕に聞く。そう言われてみれば、好きなのだろうか。でも実物をちゃんと見た訳ではないのに、好きと言っていいのだろうか。
初めて行くから、こんなにも楽しみなのだろうか。海に何か思い入れなど、あっただろうか。
「え!?この歳で!?それはないっしょー!」
「あーー...、確かに?小さい頃は行ったのかも...?」
少なくとも物心付いてからの記憶にはない気がする。それか、まだ小さい頃に海に行って、その時に好きになったのかもしれない。
話しながらバスに乗って、遠くに見えていた海が段々と近付いてくる。少しだけ開いたバスの窓から入る風は、嗅いだこともない匂いがした。
「よっしゃあ、着いた!」
「うお、潮風凄いな〜。」
「海に来るのは久しぶりだな。」
先に降りていく三人の後を追って、バスから降りる。
降りた瞬間爽やかな風が吹いて、またあの匂いがした。飛んでいきそうになる帽子のつばを押さえる。
風が止んで、顔を上げるとそこには、あの青が僕の目の前に広がっていた。
「……!」
ザザ……ン、と波が押し寄せては引いていく。
どこまでも広がる青い海は、彼方遠くの水平線にまで届き、海と空の境界線からは、白い大きな雲が青い空に向かって背伸びしていた。
その瞬間、僕の脳裏である記憶が蘇った。
********
「この絵って、何の絵なの?」
「これは"海"の絵です。ルイス様。」
「うみ...?」
城の廊下に飾られた絵画を見て、まだ幼かった僕は従者に質問した。青い絵の具がふんだんに使われたその絵は、僕の目には大層不思議な絵に映った。
「どこにあるの?見れる?」
「直接見るのは難しいでしょう。」
「なんで?」
好奇心で聞いてみれば、従者は少し困ったような顔をした。
「我々の国には、無いものだからです。」
「…うみ、無いの?」
残念ながら、と肩を竦める従者。
僕はこの国の王子だから、欲しい本や道具はすぐに手に入れることが出来た。絵に描かれた果物が食べたいと言えば、翌日には食べることが出来たし、本に出てきた鳥を見たいと言えば、3日後には僕の部屋の鳥籠にいた。
それなのに、この"海"というものは、見ることすら叶わないと言う。残念そうに呟いた僕に、従者は慰めるように静かに言った。
「隣の国との戦争で勝てば、きっと手に入りますよ。」
「戦争...。」
海のない国だった。
四方を山や平原に囲まれたその国は、多くの国と接していた。
隣接する国々は大きな国ばかりで、内陸にある小さな国達は次々と大国に飲まれていったが、その国は違った。小さいながらも資源に恵まれ、気候も温暖で災害も少なく、豊かな土壌もあった。大陸で最も豊かといっても過言でなく、その有り余る資財をもってして、多くの国と外交を重ね、その地位を確かなものにしていった。全てが集う国、手に入らないものなどない国とさえ呼ばれた。
しかしその国に、海だけは無かった。
やがて力をつけた国は、より多くの利益を求めた。小さかったその国土をさらに大きくしようと考えた。しかし周りは大国に囲まれ、大陸の外に進出するにも、その手は大きく阻まれることになる。
国王は考えた。まずは大陸の外と繋がるためにも、港を手に入れなければならないと。隣の国達はみんな海に面していて、沢山の港を持っている。その港を我々の物にしなくてはならないと。
つまりは海を手に入れようと、隣国を相手に戦争を起こすことにしたのだった。それは僕が、ちょうど成人を迎えた頃だった。
この国の力をもってすれば、領土の差はあれども戦争をして勝つことはできるという見込みがあった。
しかし逆に、豊かな資源を持っていたこの国を狙う国も多くいた。隣国と海をめぐった戦いを始めれば、その隙を狙うように、多くの国も動き出した。
やがて戦火は広がっていき、多数の国と戦争状態へとなっていった。あれ程豊かにあった資源は戦争へと費やされてどんどん消えていき、隣国との資源のやり取りをする交渉も難しくなっていった。
直接戦いに巻き込まれることはなくとも、外交の仕事を任されていた僕も戦争の渦中には居たようなものだった。
隣国との和平交渉に、輸出入の交渉、同盟や牽制、その他諸々。正しく道具として国王のために働いた。無茶な交渉を成功させるために、どんな屈辱も耐えたし、何だってした。
それでも状況が良くなることはなかった。周辺諸国は同盟を組み、かつての栄光の国を手に入れるべく、僕らの国を取り囲んだ。海のないこの国に、逃げ場なんてものはなかった。この頃にはもう、何のために戦っていたのかさえ僕は分からなくなっていた。
────でも、そう、海が見たかったのだ。
あの絵の具の青を、どこまでも続く水平線を、大陸の外へと繋がる自由を。
海を求めて戦った前世の記憶を、僕は思い出した。
「おーい!なにしてんだ滝沢ー!行くぞー?」
「……!」
名前を呼ばれて、僕の意識が現実に引き戻される。
ほんの僅かな、一瞬の白昼夢だった。
思い出した前世の記憶で、僕が海に心惹かれていた理由が分かった。
「あ、ごめん!今行く!」
慌ててみんなの元へと駆け寄る。
夢にまで見た海はもうすぐそこで。よく晴れた空の下、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
********
「...海、来れて良かったな。」
「そうだね。」
傾いた太陽が、僕達を茜色に染める。
微笑んだ武井君の海の色みたいな眼も、今だけは太陽に染まって見えた。
青いと思っていた海は、近付いてみれば透明で。
恐る恐る足を入れてみれば、冷たすぎない温度が心地良かった。大きく響いていた寄り返す波の音は、何度も聞いているうちに、耳馴染みの良い音楽のように僕を包んだ。
初めて見た海は、僕が思っているよりも大きくて、綺麗で、静かで、優しくて。何だか武井君のようだな、と僕に向かって笑いかける彼を見てそう思った。
「夏休み、楽しかったか?」
夏休みはまだしばらくあるのに、武井君が何かを懐かしむような声色で僕に問いかけた。
「うん。楽しいよ。」
スイカ割りも、夏祭りも。都築君の家に泊まったのも、みんなでアイスを食べたり、ボードゲームをしたり、夜までくだらない話をするのだって、全部楽しかった。もちろん、今もだ。
独りだった小中学生の時はもちろん、前世を含めても、こんなに楽しいのは今が初めてだ。
「滝沢が楽しんでくれて、良かったよ。」
夕陽に照らされてか、武井君の笑顔がいつもより眩しい。
自分の事のように喜ぶ彼は、今の僕が感じている楽しさを、与えた側だということを知っているだろうか。
今僕がここに居られるのは、間違いなく武井君のお陰だ。
四人でつるむようになったのも、二人と僕との間を武井君が取り持ってくれたから。人との会話に慣れない僕がちゃんと話に混ざれるように、いつだって率先して僕に手を差し伸べてくれた。最初の一歩が踏み出せない僕に、一番最初に声を掛けてくれた。
「...ありがとう、僕に良くしてくれて。」
初めて作ったクッキーを、美味しいといって褒めてくれた。やり方の分からないゲームを教えてくれて、お菓子を分けてくれた。部活動が決まらない僕に付き添って、色んな体験を一緒にしてくれた。隣の席で、いつだって僕を気にかけてくれた。
「礼なんて、別にいいんだ。」
感謝してもしきれない程の恩があるのに、武井君は謙遜してまた微笑む。
「滝沢が喜んでくれるなら、オレも嬉しいからさ。」
普段から周囲へと分け隔てなく見せられている、この世で一番優しいその笑顔。
今だけは、それが僕だけに、真っ直ぐに向けられる。
風が吹いて、武井君の髪が揺れる。
左の目の上にある傷が見えた。
「ねぇ、どうして──...」
───僕を殺したの?
思わず喉まで出かかったその言葉。途中で気付いて、息を止めるようにして心の奥へと押し込めた。
僕の幸せを願う武井君が、僕を殺した張本人だと、一体誰が思うのだろうか。
「何か言ったか?」
「ううん、何でもない。」
途中まで音になってしまった言葉は、波に攫われたようで彼の耳には届いていなかった。
その質問をして得られる利益は、今の僕には無いだろう。
武井君に前世の記憶があろうが、なかろうが。
もういいんだ。
前世で僕が生きる理由だったものは、今目の前にある。
それだけで、充分だった。
「また来たいな、海。」
「…そうだな、また来年も行こう。」
滅多にない僕からの誘い文句に、一瞬だけ面食らった武井君はその海の眼を細めて、それから水平線の彼方を見つめながら、未来の約束をしてくれた。
後ろの席の戸村君は、1つのテストが終わる度に「もう終わりだ...。」なんて言って嘆いていたけど、武井君はどの教科もまあまあだなって笑っていた。
そんなこんなですぐに学期末。テストの結果が出揃った。
僕は学年10位以内に入ることが出来たし、武井君もどうやら100位以内だったようだ。都築君はちょうど平均くらい。
そして、
「神様仏様滝沢様!!ありがとうございます!!」
無事に赤点を回避した戸村君が、これでもかと目を輝かせて僕に賛辞の言葉を送る。聞けば、全教科で赤点を一つも取らなかったのはこれが初めてとのこと。
「僕がっていうより、完全にやる気の問題でしょ...。」
勉強を教えてくれと言われたのが、ギリギリであるテスト1週間前だったため、テスト頻出の問題に限って教えた。僕的にはこんなので大丈夫かと教えながら心配したが、赤点を回避するだけならそれで良かったみたいだ。
とはいえ、教えた内容も問題集の答えレベルの解説だ。何とかなったのは、僕が教えたから出来たというよりは、戸村君の幸せ夏休み計画を成功させるためのやる気が、彼の集中力を上げたのだろう。
ともかく、これで何の憂いもない夏休みを送ることが出来る。補講に行く必要もないので、遊び放題である。
「さあお前ら、夏休みの予定決めるぞ!!」
張り切ってスマホを取り出す戸村君に、皆も今度こそちゃんと決めようかと、予定のすり合わせをし始めた。
武井君と戸村君は部活の練習予定が、都築君はバイトの予定があるようだったので、みんなが空いている日に、あれやこれやと予定を詰め込む。この調子なら、あの時戸村君が言っていた予定のほとんどが実現しそうだ。
********
夏休み、僕たちは毎週のように予定を入れた。
まずはホラーゲーム大会。
夏といえば心霊やホラーだという戸村君の発案で計画され、全員で都築君の家に泊まりに行った。
ホラーゲームが好きだという都築君は、ゲーム機やパソコンで色々なものを教えてくれた。戸村君は、言い出しっぺの割には怖いものが苦手らしく、ゲーム画面から大きな音がしたり何かが出てきたりする度に叫んでいた。けれどもやっぱりどこか楽しそうにしていた。武井君は、驚かしてくるタイプのギミックには平気そうな顔をしていたが、日本系ホラーなどの心霊系や不気味なアイテムなどには苦い顔をしていた。
...僕?僕は全部駄目でした。
それから、泊まった次の日にはスイカ割りをした。
都築君の家の庭でだけど。それでもスイカ割りはスイカ割りだ。レジャーシートを敷いて、少し小ぶりなスイカを置いて、手頃な棒がなかったので掃除用具の柄の部分を使ったが、目隠しをして振りかざせば、ちゃんとスイカ割りになる。
もちろん、そんな適当な棒では簡単には割れはしなかったのだが、大トリの武井君が見事に割ってくれた。さすが剣道部である。
ちなみに、最初から竹刀を使えば良かったのでは?と都築君が聞いていたが、竹刀は汚したくないとのことだった。それはそうだ。
翌週には近所の夏祭りに行った。
浴衣の女子が通りすがる度に、戸村君が何で男4人で夏祭りなんか来てるんだと後悔していたが、発案者も誘った人も自分だろうが。
全員私服での参加だったがそれなりに楽しんだ。出店で買い食いをしつつ、最後には花火を見た。
今世では花火は何度か見た事があったが、空に咲く花はやはり美しかった。
そしてその次はついに、僕が興味を引かれていたあの海に行くことになった。
駅前に集合して、海近くの駅まで電車とバスに乗って行くことにした。最寄りの駅に到着して、海岸近くに向かうバスを待つ。振り返ると、少し向こうの方に一面の青が見えた。
「海に行けるんだ...!」
海、だ。テレビや写真で見た景色が、すぐそこにある。どうしてこんなにもわくわくが止まらないのか。こうも心が揺さぶられるのは、何故なのか。
「お前海好きなの?」
「そう、なのかな?…初めて行くから分からないけど…!」
そわそわと落ち着かなげな僕を不思議に思ったのか、戸村君が僕に聞く。そう言われてみれば、好きなのだろうか。でも実物をちゃんと見た訳ではないのに、好きと言っていいのだろうか。
初めて行くから、こんなにも楽しみなのだろうか。海に何か思い入れなど、あっただろうか。
「え!?この歳で!?それはないっしょー!」
「あーー...、確かに?小さい頃は行ったのかも...?」
少なくとも物心付いてからの記憶にはない気がする。それか、まだ小さい頃に海に行って、その時に好きになったのかもしれない。
話しながらバスに乗って、遠くに見えていた海が段々と近付いてくる。少しだけ開いたバスの窓から入る風は、嗅いだこともない匂いがした。
「よっしゃあ、着いた!」
「うお、潮風凄いな〜。」
「海に来るのは久しぶりだな。」
先に降りていく三人の後を追って、バスから降りる。
降りた瞬間爽やかな風が吹いて、またあの匂いがした。飛んでいきそうになる帽子のつばを押さえる。
風が止んで、顔を上げるとそこには、あの青が僕の目の前に広がっていた。
「……!」
ザザ……ン、と波が押し寄せては引いていく。
どこまでも広がる青い海は、彼方遠くの水平線にまで届き、海と空の境界線からは、白い大きな雲が青い空に向かって背伸びしていた。
その瞬間、僕の脳裏である記憶が蘇った。
********
「この絵って、何の絵なの?」
「これは"海"の絵です。ルイス様。」
「うみ...?」
城の廊下に飾られた絵画を見て、まだ幼かった僕は従者に質問した。青い絵の具がふんだんに使われたその絵は、僕の目には大層不思議な絵に映った。
「どこにあるの?見れる?」
「直接見るのは難しいでしょう。」
「なんで?」
好奇心で聞いてみれば、従者は少し困ったような顔をした。
「我々の国には、無いものだからです。」
「…うみ、無いの?」
残念ながら、と肩を竦める従者。
僕はこの国の王子だから、欲しい本や道具はすぐに手に入れることが出来た。絵に描かれた果物が食べたいと言えば、翌日には食べることが出来たし、本に出てきた鳥を見たいと言えば、3日後には僕の部屋の鳥籠にいた。
それなのに、この"海"というものは、見ることすら叶わないと言う。残念そうに呟いた僕に、従者は慰めるように静かに言った。
「隣の国との戦争で勝てば、きっと手に入りますよ。」
「戦争...。」
海のない国だった。
四方を山や平原に囲まれたその国は、多くの国と接していた。
隣接する国々は大きな国ばかりで、内陸にある小さな国達は次々と大国に飲まれていったが、その国は違った。小さいながらも資源に恵まれ、気候も温暖で災害も少なく、豊かな土壌もあった。大陸で最も豊かといっても過言でなく、その有り余る資財をもってして、多くの国と外交を重ね、その地位を確かなものにしていった。全てが集う国、手に入らないものなどない国とさえ呼ばれた。
しかしその国に、海だけは無かった。
やがて力をつけた国は、より多くの利益を求めた。小さかったその国土をさらに大きくしようと考えた。しかし周りは大国に囲まれ、大陸の外に進出するにも、その手は大きく阻まれることになる。
国王は考えた。まずは大陸の外と繋がるためにも、港を手に入れなければならないと。隣の国達はみんな海に面していて、沢山の港を持っている。その港を我々の物にしなくてはならないと。
つまりは海を手に入れようと、隣国を相手に戦争を起こすことにしたのだった。それは僕が、ちょうど成人を迎えた頃だった。
この国の力をもってすれば、領土の差はあれども戦争をして勝つことはできるという見込みがあった。
しかし逆に、豊かな資源を持っていたこの国を狙う国も多くいた。隣国と海をめぐった戦いを始めれば、その隙を狙うように、多くの国も動き出した。
やがて戦火は広がっていき、多数の国と戦争状態へとなっていった。あれ程豊かにあった資源は戦争へと費やされてどんどん消えていき、隣国との資源のやり取りをする交渉も難しくなっていった。
直接戦いに巻き込まれることはなくとも、外交の仕事を任されていた僕も戦争の渦中には居たようなものだった。
隣国との和平交渉に、輸出入の交渉、同盟や牽制、その他諸々。正しく道具として国王のために働いた。無茶な交渉を成功させるために、どんな屈辱も耐えたし、何だってした。
それでも状況が良くなることはなかった。周辺諸国は同盟を組み、かつての栄光の国を手に入れるべく、僕らの国を取り囲んだ。海のないこの国に、逃げ場なんてものはなかった。この頃にはもう、何のために戦っていたのかさえ僕は分からなくなっていた。
────でも、そう、海が見たかったのだ。
あの絵の具の青を、どこまでも続く水平線を、大陸の外へと繋がる自由を。
海を求めて戦った前世の記憶を、僕は思い出した。
「おーい!なにしてんだ滝沢ー!行くぞー?」
「……!」
名前を呼ばれて、僕の意識が現実に引き戻される。
ほんの僅かな、一瞬の白昼夢だった。
思い出した前世の記憶で、僕が海に心惹かれていた理由が分かった。
「あ、ごめん!今行く!」
慌ててみんなの元へと駆け寄る。
夢にまで見た海はもうすぐそこで。よく晴れた空の下、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
********
「...海、来れて良かったな。」
「そうだね。」
傾いた太陽が、僕達を茜色に染める。
微笑んだ武井君の海の色みたいな眼も、今だけは太陽に染まって見えた。
青いと思っていた海は、近付いてみれば透明で。
恐る恐る足を入れてみれば、冷たすぎない温度が心地良かった。大きく響いていた寄り返す波の音は、何度も聞いているうちに、耳馴染みの良い音楽のように僕を包んだ。
初めて見た海は、僕が思っているよりも大きくて、綺麗で、静かで、優しくて。何だか武井君のようだな、と僕に向かって笑いかける彼を見てそう思った。
「夏休み、楽しかったか?」
夏休みはまだしばらくあるのに、武井君が何かを懐かしむような声色で僕に問いかけた。
「うん。楽しいよ。」
スイカ割りも、夏祭りも。都築君の家に泊まったのも、みんなでアイスを食べたり、ボードゲームをしたり、夜までくだらない話をするのだって、全部楽しかった。もちろん、今もだ。
独りだった小中学生の時はもちろん、前世を含めても、こんなに楽しいのは今が初めてだ。
「滝沢が楽しんでくれて、良かったよ。」
夕陽に照らされてか、武井君の笑顔がいつもより眩しい。
自分の事のように喜ぶ彼は、今の僕が感じている楽しさを、与えた側だということを知っているだろうか。
今僕がここに居られるのは、間違いなく武井君のお陰だ。
四人でつるむようになったのも、二人と僕との間を武井君が取り持ってくれたから。人との会話に慣れない僕がちゃんと話に混ざれるように、いつだって率先して僕に手を差し伸べてくれた。最初の一歩が踏み出せない僕に、一番最初に声を掛けてくれた。
「...ありがとう、僕に良くしてくれて。」
初めて作ったクッキーを、美味しいといって褒めてくれた。やり方の分からないゲームを教えてくれて、お菓子を分けてくれた。部活動が決まらない僕に付き添って、色んな体験を一緒にしてくれた。隣の席で、いつだって僕を気にかけてくれた。
「礼なんて、別にいいんだ。」
感謝してもしきれない程の恩があるのに、武井君は謙遜してまた微笑む。
「滝沢が喜んでくれるなら、オレも嬉しいからさ。」
普段から周囲へと分け隔てなく見せられている、この世で一番優しいその笑顔。
今だけは、それが僕だけに、真っ直ぐに向けられる。
風が吹いて、武井君の髪が揺れる。
左の目の上にある傷が見えた。
「ねぇ、どうして──...」
───僕を殺したの?
思わず喉まで出かかったその言葉。途中で気付いて、息を止めるようにして心の奥へと押し込めた。
僕の幸せを願う武井君が、僕を殺した張本人だと、一体誰が思うのだろうか。
「何か言ったか?」
「ううん、何でもない。」
途中まで音になってしまった言葉は、波に攫われたようで彼の耳には届いていなかった。
その質問をして得られる利益は、今の僕には無いだろう。
武井君に前世の記憶があろうが、なかろうが。
もういいんだ。
前世で僕が生きる理由だったものは、今目の前にある。
それだけで、充分だった。
「また来たいな、海。」
「…そうだな、また来年も行こう。」
滅多にない僕からの誘い文句に、一瞬だけ面食らった武井君はその海の眼を細めて、それから水平線の彼方を見つめながら、未来の約束をしてくれた。
