調理部に入部した僕は、週に3回の放課後を家庭科室で過ごしている。
他の部員の生徒は皆女子で、少しだけ肩身の狭い思いをすることもあるが、料理をした経験が皆無の僕に付き添ってか、皆が僕に料理の仕方を優しく教えてくれた。
もちろん最初は簡単に出来るものから。ただし包丁を握ったこともなければフライパンに火をつけたこともない僕だ、最初もそうだが今だって苦戦を強いられている。
戸村君は女子に囲まれて羨ましいなどと口にしていたが、モテるモテないより、今のところの調理部での絵面は、慣れずに危なっかしいことをする子供を見張る大勢の母親たち、という状態だ。皆してハラハラした顔で僕を見守っている。
そんな僕でも出来るものを、と思われたのか今日作ったものは型抜きクッキーだった。刃物や火は使わないし、丸めて伸ばして型を抜いたら、並べてオーブンに入れて終わりだ。料理、というより図画工作でもしているような気分だった。
いっぱい作ることが出来たから、完成後に自分たちで食べたものを差し引いても、それでもたくさんのクッキーが余った。そのため、余った分のクッキーは袋に詰めて、各自お土産として持ち帰ることになった。
(うーん、我ながら上出来。)
型抜きクッキーだから失敗する要素なんてないのだが、それでも綺麗に出来たのなら嬉しいものは嬉しい。せっかくだから、誰か他の人にも見てもらいたいような気分だ。
(ん...?)
その時ふと、武井君の顔が思い浮かんだ。なぜか急に。
やはり隣の席だから普段からずっと見ている上に、夢でまであの顔を拝んでいるせいだろうか。ふとした時に思い出しやすい顔といえば武井君なのだろう。
(武井君は...、今はまだ部活中かな?)
別校舎の方にある剣道部の練習場へと目を向ける。そろそろ空は薄暗くなり始めているが、剣道部はまだ練習中だろうか。
明かりのついている別校舎へと引き寄せられるように向かった。
********
「.........。」
そぉーーっと、練習場の中を覗き込む。
どうやらまだ練習中のようだ。
(武井君は......、...いた。)
少し奥で竹刀を素振りしている。背が高い分やはり目立つ。そしてめちゃくちゃ姿勢が良いのもあって、見つけるのは簡単だった。
そういえば、武井君の練習中の姿をちゃんと見るのは初めてかもしれない。部活動見学の時にも少し見たが、あれは練習というより僕に見本を見せるためのオリエンテーションに近かったから。こうして、ただただ練習に打ち込んでいる姿は初めて見る。
道着は着ているが、面と防具は付けていない。
額に汗を浮かべながら、一心不乱に竹刀を振っている。
真剣な表情だ。いつもの上がっている口角と優しく細められた目はどこにやら。真っ直ぐに前を見据えて、一振一振、無駄のない所作で打ち込んでいる。
(あ......、)
その表情が、竹刀を振る姿が、夢で見た記憶の中の武井君と重なった。
険しい顔で剣を振りかざした、僕を殺したあの男。武井君と似ているだけで、全くの別人だと願っていたが、竹刀を握ったその姿は、やっぱりあの男と同じで。
武井君こそが僕を殺した人なのだと、見て見ぬふりをしていた事実が、突き付けられる。今の武井君は僕を殺すような人ではないが、きっと生まれ変わっただけで魂は同じなのだろう。
(本当に、なんで武井君は僕を殺したんだろう。)
そして何故、僕は最後の瞬間を抵抗することなく、武井君にその命を明け渡したのか。
しかし今は、考えたところでその答えは見付からない。武井君と前世の彼を比べるだけ無駄なのだろう。
ふぅ、と溜息をついて武井君から視線を外した。
(ん...?)
武井君に見入ってしまったためにすぐには気が付かなかったが、知らない間に僕の周りが少しザワついていた。
女子生徒数名が僕の方を見ながらヒソヒソと話している。耳をすませば、"王子が来てる"、"なんで王子いるの"などと聞こえてきた。え、僕本当に王子ってあだ名付けられてるの。
居た堪れなくなって、僕は扉から顔を出すのを止めて、後ろへと下がる。こんな所に部外者が居ても邪魔なだけだよな。
「えっと、あの、お邪魔しまし...」
「あ!もしかして武井君!?ちょっと待ってね、呼んでくる!」
「あ、いや、お構いなく......って、もう遅いか...。」
引き留める間もなく、その場にいた剣道部員が武井君を呼びに走っていってしまった。別に練習を邪魔したかった訳じゃ無いんだけどな。
それに、よく武井君を見てるって分かったな。と思ったが、そういえば部活動見学の時も武井君と一緒に来ていたのだから、それを知っている人からすれば大方予想はつくだろう。確かに、剣道部に武井君以外の知り合いが居ないのも事実だ。
どうしよう、武井君まで話が伝わってしまったみたいだ。
素振りを止めた武井君が、僕のことを伝えに来た部員の指し示しで、僕が来ているのに気が付いてしまった。
その瞬間、あの真剣な顔から一気に表情が変わり、僕がいつも見ているあの明るい笑顔になる。花が咲いたような、という形容詞が付きそうな程だ。
武井君は僕に向かって手を振っている。こうなったら仕方が無い。邪魔してしまったのは申し訳ないが、僕も手を振り返す事にした。
「どうしたんだ?滝沢、」
「ああ、いや、えーっと、」
すぐにこちらに向かってきた武井君。垂れた汗を道着の袖で拭っている。
どうしたんだと言われても、特別用事はなかったのだが。ただ何となく武井君の顔が思い浮かんで、何となく練習しているのを見に来てしまっただけなのだから。しかしここまで来て何もありませんでした、では練習を邪魔しただけになってしまう。
何か用事は無いかと、頭をフル回転させて考える。
(そうだ...!)
そして思い出す。鞄の中に余り物のクッキーがあった事に。
「あの、これ!差し入れ!」
「ん?あぁ、わざわざすまんな。ありがとう。」
急いで取り出して見せれば、武井君は怪しむことなく受け取ってくれた。なんとか会いに来た理由になったみたいだ。
「来てくれた上に差し入れまで...、って、え、このクッキー...オレが貰っていいやつか?」
いかにも手作りですという見た目に気付いたのか、武井君はクッキーの袋の裏表をまじまじ見て確認している。もしかして、女子から貰ったものを横流しするような奴だと思われてる?
「え?うん。僕が作ったやつだけど、それでも良ければ...、」
「え!?これ滝沢が作ったのか!?」
なるほど。僕が作ったとは微塵も思わなかったということか。
武井君はらしくない大きな声を出して驚いている。
「そうだよ。さっき調理部で。いっぱい作ったから、お裾分けってことで...。」
呆然とクッキーを見つめる武井君。そんなに驚かれるとは思わず、少しだけ恥ずかしくなってくる。僕がクッキーを作るって、そんなに意外だろうか。
「そ、そうか...。うん、有難くいただくよ。」
すると、やっと武井君も納得してくれたのか、いつものあの笑顔が戻ってきた。
「さっき部員のみんなと食べたから、味は問題ないよ。」
そう言うと、武井君はさっそく興味が湧いたのか、僕の目の前で袋を開け始めた。そうして星型のクッキーを一つつまみ上げると、一口でぱくりと頬張った。
(あっ、もう今食べるの...!?口に合うかな...!?)
不味くないのは分かっているけれど、自分の作ったものを人に食べてもらうって、こんなにもドキドキするものなんだな。自分で渡しておいて今更ではあるが、目の前で食べられるとなると緊張もする。
しかしそんな心配は杞憂だったようで、ハラハラと見守る僕を見て武井君はまた優しく微笑んでくれた。
「...うん、美味いな。滝沢も部活、頑張ってやってるんだな。」
「...っ、」
その言葉に、僕は一瞬にして呼吸が止まるのを感じた。
そうだ、僕が欲しかったものはその言葉だったのだ。
初めて上手く作ることが出来たものを、誰かに見せたいと僕は思った。それは、頑張った自分を誰かに認めて貰いたいからだった。
承認欲求を満たせるのなら誰でも良かったのかもしれない。でも、あの時武井君の顔が浮かんだのは、この優しい笑顔が見たかったからだろう。他でもない武井君に、頑張ったと褒めて貰いたかったから。
だって今、こんなにも嬉しい。
「...!うん...!まだ大したもの作れないけど...。」
何だか顔面が熱いような気がする。
自分が今どんな顔をしているのか分からなくて、思わず視線を逸らして下を向く。
「いやぁ、まさか調理部の王子様が作ったクッキーが食べれるなんてな。役得ってやつか?」
すると武井君は、揶揄うように笑ってまた一つクッキーを口に入れる。それ喉渇かない?
「武井君までその呼び名知ってんの...。」
「まあ有名だからな!」
クラスの女子が呼び始めた"王子"というあだ名は、知らない間に学年全体へと浸透してしまったみたいで、さらには僕が調理部に入部したのがバレた瞬間、今度は"調理部の王子"と一部で言われるようになったらしい。全部都築君からの情報だ。
「あ、そういえば、そろそろテスト勉強期間だよね。武井君はいつまで部活あるの?」
未だにクッキーをもぐもぐと食べる武井君を見ているのが何だか恥ずかしくなってきて、あとは"王子"の話題からも話を逸らしたくて、パッと思いついた話題を振る。
「ああ、確か来週から休みだったような。滝沢もか?」
「いや、僕は明日から休み。」
やっぱり運動部は文化部よりもテスト前はギリギリまで練習があるようだ。もしかして大会とかも近いのだろうか。だとしたら、余計に長居はお邪魔になってしまうかもしれない。
「そっか。じゃあ、部活頑張ってね。」
そろそろ周りの視線も痛くなってきたところだし、この辺で部外者は退散することにしよう。
「ん?あぁ、そろそろ終わりだから、もう少し待ってくれれば...、」
そんな僕に気を使ったのか、武井君は他の部員の様子と時計を一瞥する。
けど、邪魔になると悪い以外にも、この場を後にしたい理由があった。
「いや、大丈夫!目的果たせて満足したから!」
「お?おぉ、そうか。なら良かった。気を付けて帰れよ。」
上機嫌で言い放った僕に、武井君もそれ以上食い下がることなく、手を振ってくれた。それに僕も手を振り返して、さっと練習場を後にした。
熱くなった頬を早くどうにかしなくては、と考えながら。
他の部員の生徒は皆女子で、少しだけ肩身の狭い思いをすることもあるが、料理をした経験が皆無の僕に付き添ってか、皆が僕に料理の仕方を優しく教えてくれた。
もちろん最初は簡単に出来るものから。ただし包丁を握ったこともなければフライパンに火をつけたこともない僕だ、最初もそうだが今だって苦戦を強いられている。
戸村君は女子に囲まれて羨ましいなどと口にしていたが、モテるモテないより、今のところの調理部での絵面は、慣れずに危なっかしいことをする子供を見張る大勢の母親たち、という状態だ。皆してハラハラした顔で僕を見守っている。
そんな僕でも出来るものを、と思われたのか今日作ったものは型抜きクッキーだった。刃物や火は使わないし、丸めて伸ばして型を抜いたら、並べてオーブンに入れて終わりだ。料理、というより図画工作でもしているような気分だった。
いっぱい作ることが出来たから、完成後に自分たちで食べたものを差し引いても、それでもたくさんのクッキーが余った。そのため、余った分のクッキーは袋に詰めて、各自お土産として持ち帰ることになった。
(うーん、我ながら上出来。)
型抜きクッキーだから失敗する要素なんてないのだが、それでも綺麗に出来たのなら嬉しいものは嬉しい。せっかくだから、誰か他の人にも見てもらいたいような気分だ。
(ん...?)
その時ふと、武井君の顔が思い浮かんだ。なぜか急に。
やはり隣の席だから普段からずっと見ている上に、夢でまであの顔を拝んでいるせいだろうか。ふとした時に思い出しやすい顔といえば武井君なのだろう。
(武井君は...、今はまだ部活中かな?)
別校舎の方にある剣道部の練習場へと目を向ける。そろそろ空は薄暗くなり始めているが、剣道部はまだ練習中だろうか。
明かりのついている別校舎へと引き寄せられるように向かった。
********
「.........。」
そぉーーっと、練習場の中を覗き込む。
どうやらまだ練習中のようだ。
(武井君は......、...いた。)
少し奥で竹刀を素振りしている。背が高い分やはり目立つ。そしてめちゃくちゃ姿勢が良いのもあって、見つけるのは簡単だった。
そういえば、武井君の練習中の姿をちゃんと見るのは初めてかもしれない。部活動見学の時にも少し見たが、あれは練習というより僕に見本を見せるためのオリエンテーションに近かったから。こうして、ただただ練習に打ち込んでいる姿は初めて見る。
道着は着ているが、面と防具は付けていない。
額に汗を浮かべながら、一心不乱に竹刀を振っている。
真剣な表情だ。いつもの上がっている口角と優しく細められた目はどこにやら。真っ直ぐに前を見据えて、一振一振、無駄のない所作で打ち込んでいる。
(あ......、)
その表情が、竹刀を振る姿が、夢で見た記憶の中の武井君と重なった。
険しい顔で剣を振りかざした、僕を殺したあの男。武井君と似ているだけで、全くの別人だと願っていたが、竹刀を握ったその姿は、やっぱりあの男と同じで。
武井君こそが僕を殺した人なのだと、見て見ぬふりをしていた事実が、突き付けられる。今の武井君は僕を殺すような人ではないが、きっと生まれ変わっただけで魂は同じなのだろう。
(本当に、なんで武井君は僕を殺したんだろう。)
そして何故、僕は最後の瞬間を抵抗することなく、武井君にその命を明け渡したのか。
しかし今は、考えたところでその答えは見付からない。武井君と前世の彼を比べるだけ無駄なのだろう。
ふぅ、と溜息をついて武井君から視線を外した。
(ん...?)
武井君に見入ってしまったためにすぐには気が付かなかったが、知らない間に僕の周りが少しザワついていた。
女子生徒数名が僕の方を見ながらヒソヒソと話している。耳をすませば、"王子が来てる"、"なんで王子いるの"などと聞こえてきた。え、僕本当に王子ってあだ名付けられてるの。
居た堪れなくなって、僕は扉から顔を出すのを止めて、後ろへと下がる。こんな所に部外者が居ても邪魔なだけだよな。
「えっと、あの、お邪魔しまし...」
「あ!もしかして武井君!?ちょっと待ってね、呼んでくる!」
「あ、いや、お構いなく......って、もう遅いか...。」
引き留める間もなく、その場にいた剣道部員が武井君を呼びに走っていってしまった。別に練習を邪魔したかった訳じゃ無いんだけどな。
それに、よく武井君を見てるって分かったな。と思ったが、そういえば部活動見学の時も武井君と一緒に来ていたのだから、それを知っている人からすれば大方予想はつくだろう。確かに、剣道部に武井君以外の知り合いが居ないのも事実だ。
どうしよう、武井君まで話が伝わってしまったみたいだ。
素振りを止めた武井君が、僕のことを伝えに来た部員の指し示しで、僕が来ているのに気が付いてしまった。
その瞬間、あの真剣な顔から一気に表情が変わり、僕がいつも見ているあの明るい笑顔になる。花が咲いたような、という形容詞が付きそうな程だ。
武井君は僕に向かって手を振っている。こうなったら仕方が無い。邪魔してしまったのは申し訳ないが、僕も手を振り返す事にした。
「どうしたんだ?滝沢、」
「ああ、いや、えーっと、」
すぐにこちらに向かってきた武井君。垂れた汗を道着の袖で拭っている。
どうしたんだと言われても、特別用事はなかったのだが。ただ何となく武井君の顔が思い浮かんで、何となく練習しているのを見に来てしまっただけなのだから。しかしここまで来て何もありませんでした、では練習を邪魔しただけになってしまう。
何か用事は無いかと、頭をフル回転させて考える。
(そうだ...!)
そして思い出す。鞄の中に余り物のクッキーがあった事に。
「あの、これ!差し入れ!」
「ん?あぁ、わざわざすまんな。ありがとう。」
急いで取り出して見せれば、武井君は怪しむことなく受け取ってくれた。なんとか会いに来た理由になったみたいだ。
「来てくれた上に差し入れまで...、って、え、このクッキー...オレが貰っていいやつか?」
いかにも手作りですという見た目に気付いたのか、武井君はクッキーの袋の裏表をまじまじ見て確認している。もしかして、女子から貰ったものを横流しするような奴だと思われてる?
「え?うん。僕が作ったやつだけど、それでも良ければ...、」
「え!?これ滝沢が作ったのか!?」
なるほど。僕が作ったとは微塵も思わなかったということか。
武井君はらしくない大きな声を出して驚いている。
「そうだよ。さっき調理部で。いっぱい作ったから、お裾分けってことで...。」
呆然とクッキーを見つめる武井君。そんなに驚かれるとは思わず、少しだけ恥ずかしくなってくる。僕がクッキーを作るって、そんなに意外だろうか。
「そ、そうか...。うん、有難くいただくよ。」
すると、やっと武井君も納得してくれたのか、いつものあの笑顔が戻ってきた。
「さっき部員のみんなと食べたから、味は問題ないよ。」
そう言うと、武井君はさっそく興味が湧いたのか、僕の目の前で袋を開け始めた。そうして星型のクッキーを一つつまみ上げると、一口でぱくりと頬張った。
(あっ、もう今食べるの...!?口に合うかな...!?)
不味くないのは分かっているけれど、自分の作ったものを人に食べてもらうって、こんなにもドキドキするものなんだな。自分で渡しておいて今更ではあるが、目の前で食べられるとなると緊張もする。
しかしそんな心配は杞憂だったようで、ハラハラと見守る僕を見て武井君はまた優しく微笑んでくれた。
「...うん、美味いな。滝沢も部活、頑張ってやってるんだな。」
「...っ、」
その言葉に、僕は一瞬にして呼吸が止まるのを感じた。
そうだ、僕が欲しかったものはその言葉だったのだ。
初めて上手く作ることが出来たものを、誰かに見せたいと僕は思った。それは、頑張った自分を誰かに認めて貰いたいからだった。
承認欲求を満たせるのなら誰でも良かったのかもしれない。でも、あの時武井君の顔が浮かんだのは、この優しい笑顔が見たかったからだろう。他でもない武井君に、頑張ったと褒めて貰いたかったから。
だって今、こんなにも嬉しい。
「...!うん...!まだ大したもの作れないけど...。」
何だか顔面が熱いような気がする。
自分が今どんな顔をしているのか分からなくて、思わず視線を逸らして下を向く。
「いやぁ、まさか調理部の王子様が作ったクッキーが食べれるなんてな。役得ってやつか?」
すると武井君は、揶揄うように笑ってまた一つクッキーを口に入れる。それ喉渇かない?
「武井君までその呼び名知ってんの...。」
「まあ有名だからな!」
クラスの女子が呼び始めた"王子"というあだ名は、知らない間に学年全体へと浸透してしまったみたいで、さらには僕が調理部に入部したのがバレた瞬間、今度は"調理部の王子"と一部で言われるようになったらしい。全部都築君からの情報だ。
「あ、そういえば、そろそろテスト勉強期間だよね。武井君はいつまで部活あるの?」
未だにクッキーをもぐもぐと食べる武井君を見ているのが何だか恥ずかしくなってきて、あとは"王子"の話題からも話を逸らしたくて、パッと思いついた話題を振る。
「ああ、確か来週から休みだったような。滝沢もか?」
「いや、僕は明日から休み。」
やっぱり運動部は文化部よりもテスト前はギリギリまで練習があるようだ。もしかして大会とかも近いのだろうか。だとしたら、余計に長居はお邪魔になってしまうかもしれない。
「そっか。じゃあ、部活頑張ってね。」
そろそろ周りの視線も痛くなってきたところだし、この辺で部外者は退散することにしよう。
「ん?あぁ、そろそろ終わりだから、もう少し待ってくれれば...、」
そんな僕に気を使ったのか、武井君は他の部員の様子と時計を一瞥する。
けど、邪魔になると悪い以外にも、この場を後にしたい理由があった。
「いや、大丈夫!目的果たせて満足したから!」
「お?おぉ、そうか。なら良かった。気を付けて帰れよ。」
上機嫌で言い放った僕に、武井君もそれ以上食い下がることなく、手を振ってくれた。それに僕も手を振り返して、さっと練習場を後にした。
熱くなった頬を早くどうにかしなくては、と考えながら。
