君の隣で、しっぽが揺れる


「あんた、なんかいいことでもあった?」
「何、急に」
 家のリビング、お気に入りのビーズクッションにもたれてリラックスタイムを満喫していると、風呂上がりの姉ちゃんが通りすがりに、わざわざ足を止めてまで声を掛けてきた。
「何って……自分がニマニマしてるのに気付いてないの?」
 そのタイミングでスマホの画面がスリープモードになり、反射で見えた自分の口元は確かに口角が上がっていて。全然意識していなかったから、どうしてそんな表情をしているのか自分でもわからない。
「外じゃ愛想笑いばっかしてるから、家の中では表情オフってるあんたがそんな顔してたら、どうしたのか聞きたくなるでしょう」
 穏やかな空気感が好きな俺なりの処世術。ニコニコしていれば大抵、自分が苦手とすることは舞い込んでこないし、何かあったとしても今度は当たり障りのない言葉でいなしてきた。
 本当はまっすぐに嫌だと言ってしまえば早いのだろうけど、それよりもその場の空気感が変わってしまうのが俺にとってはすごく嫌なのだ。
「で? 何があったの?」
 すぐ隣にあるソファーに座って、タオルで髪を拭きながら姉ちゃんは話の続きを催促してきた。姉ちゃんに話しかけられる前って、何を考えていたんだっけ……ああ、そうだ。
「今日、大学で新しく知り合った人がいてさ」
「ふーん。その『知り合い』の事を考えてニマニマしてたんだぁ?」
「含みのある顔と言い方、やめろよな」
 変に勘繰っていそうな姉ちゃんの様子にムッとしていると、スマホが光って通知が一件。そこには『一誠』と先輩の名前が表示されていた。
「ちょうどいいところに。俺が絡まれてるところを助けてくれた子の写真が届いたんだけど、見る?」
「絡まれてたって何! それを助けてくれたって……見せて見せて!」
 届いた画像を画面いっぱいに表示して、興味津々と顔に書いてある姉ちゃんに差し出すと手元からスマホがひったくられる。画面を見るや、黄色い悲鳴をあげて足をパタつかせる姉ちゃんを見て、予想通りの反応にプッと吹き出した。
「こんな『知り合い』ができたら、ニマニマするだろ?」
「しちゃう~! どうしたらこんな可愛い“わんちゃん”と知り合えるわけ?」
 画面に表示された笑顔に見えるロゼの写真を可愛い可愛いと言いながら自分のスマホへと転送しているところまでは見逃してあげたものの、先輩とのやりとりを遡ろうとする姉ちゃんの手からスマホを取り返した。
「今日仲良くなったばっかりで他に画像はないから。写真撮ったり、もらえたら共有してやるよ」
「生意気な言い方はどうにかできないわけ? まあ、あんたがそんな顔できる子に出会えて、よかったね」
 眩しそうに目を細めて微笑む姉ちゃんの表情を見て、不思議と一誠先輩の温かい陽だまりみたいな笑顔が頭に浮かんで。思い出すだけで胸が温まるなんて、こんな感覚初めてかも。



 正午過ぎ。スマホが震えた。
 一誠先輩から『着いた』とメッセージが届いて、広がっていたノートや資料を手早く片付けて図書館を出る。
 前日に自分が昼食をとっていたベンチで待っている一誠先輩とロゼがいて。
「お待たせしました」
 急いで駆け寄ると、ロゼはおすわりをしたまま尻尾をブンブン振って、お利口さんにしながらも喜びを伝えてくれる。その健気な様子にしゃがんで抱きしめるように撫でてみれば、しっとり柔らかな毛並みの中に晴れの日を閉じ込めたような香りがして何度も吸い込んだ。
「はぁ、落ち着く匂い。ロゼに添い寝されたい……」
「お礼はランチよりも、ロゼとの添い寝がいいか?」
「ランチがいいです! 俺は今、お腹が空いています!」
 先輩の質問に急いで立ち上がって姿勢を正し、宣言する。
 その変わり身の早さが面白かったようで、先輩は堪えきれず肩を揺らしてくつくつと笑い始めた。笑い顔を見せるのも慣れていないのか、顔を背けて隠そうとするところはちょっと先輩らしいかも。
「っふ……く、ははっ。食欲に忠実なのも、いいと思う」
「食いしん坊みたいに言わないでくださいよ! ほらもう、行きますよ」
 そう言って、俺は先に歩き出したが、すぐに先輩が隣へ並び、ロゼはその間に自然と入ってペースを合わせて歩いている。
 これから向かうのはペット同伴可能なカフェ。
 昨日のロゼの一件で「お礼がしたい」と先輩から言われたものの、何がお礼になるかわからないからと裁量を委ねられて、ランチを奢ってもらうことにしたのだ。
「さっきの言い訳じゃないけど……俺は一誠先輩たちとランチに行けるのが楽しみなんです。先輩のことも、ロゼのことも知りたいから」
「……っ」
 通る風の音を感じ取れるほど静かな昼下がりで、先輩の足音が止まったことにすぐに気付いた。
「先輩?」
 不思議に思って振り返ると、先輩は片手で口元を覆い、目に見えないはずの考えや言葉を探しているかのように視線を泳がせている。耳の先がほんのり赤いのは、日差しのせいだけではなさそうだ。
 俺の視線に気がつくと、少し俯いて目に掛かった前髪の隙間からこちらを窺う様子はやっぱりロゼと似ている。
「ロゼのことならまだしも……俺についてなら、大して面白い話はないぞ。名前を知ってたってことは、噂のことも知っているだろう」
 自虐というよりは、事実を述べているだけという感じの淡々とした声。噂のことや人から避けられていることにも“慣れてしまった”のだろう。
「噂のことは知ってます。けど、昨日見た先輩だったり、今こうして話してみて、噂は噂でしかないんだなって思いました。だからこそ、本当の先輩を知りたい」
 まだ歩き出さないのかと間でソワソワしているロゼの頭を撫でながら続ける。
「あまり人に懐かないロゼが懐くなら、悪い人じゃない。それなら先輩だってそうでしょう? 家族だからって贔屓してるわけでもないと思うんですよね」
 そう言って笑うと、先輩はどこか毒気を抜かれたように目を丸くして。それから、困ったように口元を緩め、先輩もロゼの頭をポンポンと撫でた。
「ロゼの人を見る目は、正しいよ」
 ぽつりと呟かれた言葉で、俺自身が先輩やロゼに認められたような気持ちになって、じわじわと湧き上がる嬉しさで頬が緩みきってしまうのを抑えるのに必死だ。クルッとカフェの方向に向き直る。
「先輩っ。ランチ時だし、早くしないとペット同伴席埋まっちゃいますよ!」
「あ、ああ」
 先輩の返事の後、さっきまでは歩調を合わせてくれていたロゼが、今は俺たちよりも前を歩いて先導する背中に「こっちだって楽しみにしているんだから早く目的地に行こう」という意思が見えて微笑ましい気持ちでいっぱいになった。



「先輩って、なんで噂を否定したりしないんですか?」
「いきなり突っ込んでくるな……」
 カフェのテラス席。白いキャンバス地の屋根の下、先に届いていたメロンソーダを飲みながら質問をぶつけてみた。先輩は自分語りするようなタイプでもなさそうだし、こちらから聞いてみないと話が進まないと思ってのことだった。
「端的に言うと、俺が篠崎教授の息子だから。入学してからゼミに入りたい先輩たちから声をかけられることが多かった」
 声をかけられるのであればいいことなのでは?と一瞬思ったのが表情に出ていたらしい。先輩はフルフルと小さく顔を左右に振った。
「下心のある人間から声をかけられても、結果に繋がらなかったら俺のせいにされる。それが見えていたし……そもそも親父は実力主義だから、俺が橋渡しできるわけでもない」
 言葉を探す間を埋めるように、アイスコーヒーに入れたミルクが混ざりきっていない部分をストローでつついたあと、話を続けていく。
「実力主義のゼミなんだから、息子に媚び売るよりも実績作ったらどうですかって言った。そしたら今みたいな噂が広まって、一人になって。元からそんなに人付き合いが得意なわけじゃないし、楽だと思う部分の方が大きかったからそのままにしてる」
 話し終わってふっと笑った先輩の顔から寂しさを感じ取った。
 人見知りなのも、その方が楽なのも本当なんだと思う。でも、一人だけでどうにもならないことがあった時、仕方ないと諦めてきたんだろう。
 寂しさというよりも、諦めの表情。
 俺も仕方ないと諦めた経験がたくさんあるからよくわかる。
 だからこそ、今その表情をしているのが無性に嫌だった。
 俺と一緒にいる時だけでも、一人じゃないって感じてほしい。
 グラスの結露をなぞる先輩の手に、自分の手を重ねた。
 意識外から触れられたことに驚いて、こちらを向いた視線を逃すまいとしっかり見据えて言葉を紡ぐ。
「今は、本当の先輩を知っている人間がここにいますよ」
「っ、真柴……」
「まあ、まだ他の人に比べたらってだけですけどね」
「それでも、ありがとう」
 重ねた手から伝わってくる温もりに、短い言葉以上のたくさんの想いが詰まっている気がした。