夏の暑さが落ち着いて、肌を撫でる冷たい風と柔らかくなった日差しの優しいぬくもりを感じながら、大学にある図書館近くのベンチで買ってきたサンドイッチを頬張る。
「幸せ~」
サンドイッチの美味しさと、昼下がりのこの時間を穏やかに過ごせている感動で思わず口に出た言葉だった。
このまま……何事もなく今日を過ごせますように。
でもそんなことを考えた時に限って、反対の起こってほしくない出来事が現実になるんだよな。そんな考えが脳裏をよぎり、ぶんぶんと頭を振って払拭しようとしたが、時既に遅し。
「真柴、みーつけた!」
「っ高木……」
「なあ、これからうちにサークル来いよ。合コンの人数足りなくてさ」
高木は俺と同じ1年。取っている講義が一緒で、隣の席になった縁もあり話してみればノリのいい面白い奴だなと思っていたのだけど。
講義終わりに高木が入っているサークルの見学に来ないかと誘われて行ってみたものの……所謂飲みサークルと化しているところで、独特の内輪ノリや高木含め、サークルメンバーの押しの強さに苦手意識を感じてしまってからは理由をつけて逃げているのだ。
夏休み期間中は「講義があるから」という逃げ道が使えず、できるだけ見つからないように過ごしていたのに。
「えっと、そろそろ夏休みも終わりだろ。課題の必要資料がまだ揃ってなくてさ」
「そんなの明日だってできるだろ?」
なんとか逃げられないかともっともらしい理由を並べながら、食べ終わったサンドイッチのゴミをレジ袋に押し込んで、捨てる場所を探しに行こうとする姿勢をとったものの、がっしりと肩を組まれて捕まってしまう。
「合コンだっていつもやってるんだし、他の人誘ってみたら」
「先輩が真柴を呼んでほしいって言ってんだよ。なあ、頼むよ」
「……なんで俺なの? まだお酒飲める歳じゃないし」
そこは本当に疑問だった。顔を出したのは見学として誘われた一回だけだったのに、1ヶ月以上も誘われ続けていることを不思議に思っていたのだ。
「さぁな。んー、あっ。お前の顔が好みなんじゃね? 目がクリクリしてて、人懐っこい子犬みたいな可愛げある綺麗な顔してるし」
至近距離で品定めするような目つきに抵抗感を覚え、自然と顔を背けてしまう。同時にぐっと高木の腕を払いのけようとしたのだが……そういった反応が彼にとっては面白かったようで、肩を抱き寄せる力が強まった。
「何だよ……離して、っ!」
こめかみあたりに生温かい吐息がかかって、ぞわりと鳥肌が立つ。
と、急に近くの茂みが揺れ、黒い影が飛び出してきた。
——わんわんわんっ、グルルルル……
黒い影の正体は大きな犬だった。黒、白、茶色の毛足の長い賢そうな子だ。俺の足元に体を寄せ、高木に向かって大きく何度か吠えた後、牙を剥き出しにして低く唸って威嚇している。まるで俺のことを守ろうとしているみたい。
「うわっ、何だよこいつ!」
高木は最初に吠えられたタイミングで後ろに飛び退いていたが、まだ近くで様子見している。それを察してか、救世主である犬はダメ押しのようにもう一度「ばうっ!」と体を跳ねさせながら吠えると、飛び掛かられると思ったのか高木は背中を向けて逃げて行った。
その背中が見えなくなってから、ハッと足元を見下ろす。
犬の様子を見てみると先ほどまでの恐ろしい形相はなく、おすわりの体勢で俺のことを見上げる目はビー玉みたいにキラキラしている。だらりと舌が出ている口元は微笑んでいるように見えて可愛い。
ハーネスの背中部分からがっしりした革製のリードが地面にだらりと伸びていて、どうやら散歩中に手からすっぽ抜けて走ってきたらしい。
「俺のこと、助けてくれたの?」
目線だけがチラッと動く。なんとなく照れくさそうに「そうだよ」と返事しているように感じて、思わず吹き出した。
「あははっ、ありがとう! 本当に助かったよ。いい子だね」
しゃがんでみると目線が同じくらいになる。やっぱり大きい。
守ってくれたことと、意思疎通ができたように思えたからか、怖さは感じない。垂れた耳のあたりを両手でわしゃわしゃと撫でると目を細めて気持ち良さそうにしている姿に心が和んだ。
念の為、リードを拾い上げて先の輪っかになっている部分に手を通して、制御できるようにしておく。
「それにしても君はどこの子? ハーネスは付いてるし、リードもある。散歩中に逃げ出したんだったら、「いい子」は撤回しないといけないかも」
言葉を理解しているのか「きゅうん……」と小さく鳴くと、地面に伏せ、チラチラと上目遣いをしてくる様子にキュンとする。なんて可愛い子なんだろう。
「理由があるかもしれないし、「いい子」の撤回はなし。俺を助けてくれたご褒美にもっと撫でてもいい?」
待ってましたと言わんばかりにお腹を見せてきた。胸元のふわふわした白い毛を撫でてやると満足げにふすふすと鼻を鳴らす。
「ここで待ってたら、飼い主は探しに来るかな」
そう犬に訊ねるのと、遠くで誰かを呼んでいるような声が聞こえてきたのはほとんど同時だった。犬はというと声の方向に顔は向けるものの、もっとお腹を撫でていてほしいというように腹を見せたままで。
「ロゼ! どこにいるんだ、ロゼ……ロゼ!」
茂みの向こうから聞こえる声は何度も叫んでいたのか少し掠れていて、息が切れているのもわかる。もしかして——
「飼い主?」
そう言って視線を向けると、重そうに体を起こして座り「わんっ」と声のする方に向かって吠えた。
「っ、ロゼ!」
茂みの向こうからこちらへは少し回り込まないといけないものの、歩いても数秒といったところなのだが、強く地面を蹴って走り出す足音が聞こえた。どれほど必死に探したのか伝わってくる。
飼い主はどんな人だろう。おすわりしている犬を抱き締めるように撫でながら待っていると、目の前に現れたのは見知った人物——大学内では有名人——だった。
「篠崎、一誠……」
180cm以上ある長身をシックな黒いシャツ、ジャケットで包み、金色の髪がわずかにかかる目は切れ長で鋭い印象だ。大学内でもあの人には関わらない方がいいと噂されている、怖い人物……のはずだけど。
「見つかって、良かった……ロゼ」
探していた犬——ロゼの姿を見つけて足を止め、安堵で膝に手をついて大きく息を吐いた後、ゆっくりと近付いてくる様子や表情は普段見かける時の印象よりも何倍も優しくて。
「君が保護してくれたのか。助かった」
ロゼを挟んで斜め前。少し距離を空けてしゃがんだ先輩は深々と頭を下げた。
「あっ、いや。助かったのは俺の方なんです」
「……?」
「ちょっと人とトラブってる時にこの子が飛び込んできて。困ってる俺の足元で相手を威嚇して追い払ってくれたんですよ」
助けてくれた時の状況を簡潔に話してみたが、先輩の不思議そうな表情は変わることがなく伝わっていないのだろうかと不安になった。どうしたらいいんだろうと助けを求めるようにロゼの方を向くと目が合って、俺の鼻の先をペロリと優しく舐める。
「ロゼが人に懐くなんて、珍しい。さっきの話も本当なんだな」
先輩はわずかに驚いた顔をしたあと、口元に手を当てて納得した様子で小さく呟いた声が聞こえ、今度はこちらが驚く。
「え? 人懐っこい子なんだとばかり……」
「いや、家族以外にはなかなか心を開かないんだ。親父……篠崎教授には懐いているけど、俺は時々無視される」
先輩の少しだけしょんぼりした顔を見て、思ったよりも普通の人なんだと安心した。噂で聞いたイメージだけで避けてしまっていたことを申し訳なく思う。
「心を許している証拠じゃないですか? ちょっとイタズラしてもいいやと思える、そうだな……兄弟くらいの感覚っていうか」
手首からリードを外して先輩に手渡しながら、なんとなく感じていたことを言ってみた。
そんな風に考えたことはなかったとハッとした表情をして、視線だけをロゼに向ける先輩の様子に、目だけで返事する時のロゼの姿が重なって笑みが溢れる。
「一誠先輩とロゼ、仕草がそっくりですよ」
本人は気付いていないようだけど、視線を向けるタイミングまでロゼとまったく一緒だった。それを知っているのは俺だけという事実がなんだか嬉しくて、あえて言わないことにした。
「そうだ……まだ君の名前を聞いていなかった。俺は3年の篠崎一誠。知っているようだったけど一応」
「文学部1年の真柴夏絃です。よろしくお願いします」
いつもの流れで自己紹介と挨拶をして、軽くお辞儀をしてから顔をあげると、なんと言い表せばいいのかわからない表情をしている先輩が目に入る。
先輩と言葉を交わしたことがなかった自分だったら、不機嫌そう、怒っていると考えていたかもしれない。でも言葉を交わした俺から見た先輩の表情に一番近いのは「困惑」だと思った。
「俺、何か変なこと言っちゃいました?」
「いや……よろしくお願いしますって言われることがなさすぎて。どう返したらいいのか、わからなかった」
視線を彷徨わせながら首の後ろを撫でる先輩は他に言葉を探している様子だった。痺れを切らしたのはロゼの方で、一度「わふっ」と小さく吠えてから俺の手を舐めたり、鼻先を擦り付けたりとアクションで仲良くしようと誘ってくれているようだ。
先輩もそんなロゼの様子に気付いて頭を撫でると、今日の日差しみたいに、柔らかくて温かい笑みを浮かべた。
「そうだな。ロゼがこれだけ懐いていることだし、これからも大学に居るから仲良くしてやってほしい」
「ロゼには恩があるんで、これからも仲良くできるの嬉しいです」
「その……真柴が怖くなければでいいんだけど。俺とも話してくれないか?」
一瞬、先輩の言っていることがよくわからなかった。
特に、さっきのロゼに向けた笑顔を見たあとだ。怖いなんて気持ちは俺の中にはなかったから。
「俺、先輩と仲良くなるつもりでよろしくお願いしますって言ったんですよ? 先輩とロゼはニコイチなんですから、ね」
その言葉に驚き、こちらを見つめてキラキラと光る目はやっぱり、ロゼと似ている。

