翼は学校に来なくなった。
そして、夏休み直前の夕方。
校舎の片隅の資料室で。
――翼は死を選んだ
学校中が騒然とする中、夏月はひとり、呆然と佇んでいた。
予感はあったはずだった。
なのに、現実感はなかった。
遺書は見つからなかった。
けれど、翼の遺書は夏月の心にあった。
夏月は誰にも言わなかった。言ってしまえば、翼の望みを壊してしまう気がした。
翼が夏月にだけ見せてくれた心を裏切りたくなかった。
翼が自殺を図ってから夏月の狂気は更に酷くなった。
理解不能な感情が体中を走り、暴れ、支配する。
しかし、ふとした瞬間に空っぽだと気づく。
何もなかった。すべて失った。
涙も出ない。泣き叫びたいのに。目も当てられないほどに、ぼろぼろになってしまいたいのに。
夏月の心には何もなかった。
……今なら、翼の心がわかる気がした。
そして。夏月は翼に会わなければならないと思った。
何かが……翼への答えがあったわけではない。
それでも、夏月は翼に会わなければならなかった。
担任に聞きに行ったら、意外と簡単に教えてくれた。
聞いてもいないのに、翼の家庭事情まで教えてくれた。
それは、夏月が顔を顰めるような内容だった。
しかし、翼の狂気の理由が少しだけわかった気がした。
翼が自殺を図ってから二日が経った日の昼。
夏月は教えられた病院へ行った。
面会が認められる訳もなく、夏月は病院の廊下の椅子に力なく座った。
ここにいても意味があるとは思わない。
でも、帰るということも出来なかった。
夏月はただ待っていた。
翼を。
ひとり、夏月は空を見つめる。
最後に見せた翼の力のない微笑。
あのときの小さな胸の痛みは、翼が死を選んだあの日、夏月を抉る激痛へと変わった。
『それでも、誰にも必要とされないことがひどく苦しくて……狂いそうだった』
そう言った翼が重なる。
「孤独……」
それが翼の狂気の理由なのかも知れなかった。
握りしめた己の手がじっとりと汗ばむ。
後ろから声が聞こえた。
知らない誰かの話し声。
「……最後は本人の生きようとする気力次第ね……」
やけに夏月の耳に残る。
――本人の生きようとする気力次第
翼には生きようとする意志がない。
夏月は知っている。
ずっと死を想っていたことを。
夏月は知っている。
だから、きっと翼が助からないことも知っていた。
……頭では理解していた。翼の心を理解できる。
夏月も翼と同じ狂気の中にいるのだから。
翼に、教えられたのだから。
けれども、精神が理解出来なかった。
したくなかった。
夏月は胸を押さえ込んだ。
また……狂気に似た感情がこみ上げる。
生まれたイミがないと言った。
生きるリユウがないと言った。
全部くだらなくて、そんなこと考えてる自分が一番くだらないと言った。
――翼は
虚ろな目で夏月を見て。
紅い光の中で。
――生きている自分の生命にすら気づかずに
狂気を知りすぎた翼は、死を選んだ。
解放されるためだけに。
精神に巣食う狂気から解放されるためだけに。
死することでの解放を翼は想った。
それを告げた時の翼は酷く儚げで、同時に一番人間くさく見えた。
そして、夏月はそれを悲しく思った。
それは、翼が死だけを見つめているからだ。
死以外の何も見ていない。見ることができない。
それしか出来なかった翼の生が、心に痛い。
死なんて考えもしなかった夏月の心が、痛い。
この病院のどこかで、翼はまだ生かされている。
翼は今、何を思い、生かされているのだろうか。
朧げに蘇る翼の微笑。
狂気に染められた微笑と、最後に見せた力のない微笑。
儚い、翼の幻影。
生きている自分の生命にすら気づかずに。
最後に見せた微笑にさえ気づかずに。
翼は微笑いながら死んでいくのか。
生きるリユウがないと。
生まれたことさえ無意味でくだらないと。
微笑い、狂気だけを抱え、解放されるためだけに。
自ら死んでいくのか。
そんなカンタンなものなのか。
生きるコトも死ぬコトも。
翼にとってはどうでもいいことなのか。
「そんな……そんなのは……」
――絶対に嫌だ
夏月の瞳に、強い光が宿った。
「俺は生きたい」
夏月は告げる。
ここにはいない翼に。
あの微笑みに。
「俺は、生きたい」
もう一度。
どれだけ狂気に蝕まれても、生きたい。
生まれたイミも生きるリユウも何もなくても、生きたい。
自らに嫌悪さえ抱いても。
誰かに傷つけられ、傷つけても。
誰にも必要とされなくても。
一筋の光さえ見えない闇夜の中にいようとも。
希望なんてなくても。
――それでも
「中原と一緒に生きたい」
それが、夏月の答えだった。
翼が夏月に狂気を教えたのだから。
夏月は翼に、生きることを教えてやる。
生まれたイミが必要ならば。
生きるリユウが必要ならば。
夏月がそれを翼に与えてやる。
だから……。
「今は、死ぬな」
夏月は呟いた。
今どこにいるのかもわからない翼に向かって。
先程までとは明らかに違う瞳で、意志を持って、前を見据える。
――狂気だけを俺に遺して逝くなんて、許さない
「生きろ、中原翼」
せ
そして、夏休み直前の夕方。
校舎の片隅の資料室で。
――翼は死を選んだ
学校中が騒然とする中、夏月はひとり、呆然と佇んでいた。
予感はあったはずだった。
なのに、現実感はなかった。
遺書は見つからなかった。
けれど、翼の遺書は夏月の心にあった。
夏月は誰にも言わなかった。言ってしまえば、翼の望みを壊してしまう気がした。
翼が夏月にだけ見せてくれた心を裏切りたくなかった。
翼が自殺を図ってから夏月の狂気は更に酷くなった。
理解不能な感情が体中を走り、暴れ、支配する。
しかし、ふとした瞬間に空っぽだと気づく。
何もなかった。すべて失った。
涙も出ない。泣き叫びたいのに。目も当てられないほどに、ぼろぼろになってしまいたいのに。
夏月の心には何もなかった。
……今なら、翼の心がわかる気がした。
そして。夏月は翼に会わなければならないと思った。
何かが……翼への答えがあったわけではない。
それでも、夏月は翼に会わなければならなかった。
担任に聞きに行ったら、意外と簡単に教えてくれた。
聞いてもいないのに、翼の家庭事情まで教えてくれた。
それは、夏月が顔を顰めるような内容だった。
しかし、翼の狂気の理由が少しだけわかった気がした。
翼が自殺を図ってから二日が経った日の昼。
夏月は教えられた病院へ行った。
面会が認められる訳もなく、夏月は病院の廊下の椅子に力なく座った。
ここにいても意味があるとは思わない。
でも、帰るということも出来なかった。
夏月はただ待っていた。
翼を。
ひとり、夏月は空を見つめる。
最後に見せた翼の力のない微笑。
あのときの小さな胸の痛みは、翼が死を選んだあの日、夏月を抉る激痛へと変わった。
『それでも、誰にも必要とされないことがひどく苦しくて……狂いそうだった』
そう言った翼が重なる。
「孤独……」
それが翼の狂気の理由なのかも知れなかった。
握りしめた己の手がじっとりと汗ばむ。
後ろから声が聞こえた。
知らない誰かの話し声。
「……最後は本人の生きようとする気力次第ね……」
やけに夏月の耳に残る。
――本人の生きようとする気力次第
翼には生きようとする意志がない。
夏月は知っている。
ずっと死を想っていたことを。
夏月は知っている。
だから、きっと翼が助からないことも知っていた。
……頭では理解していた。翼の心を理解できる。
夏月も翼と同じ狂気の中にいるのだから。
翼に、教えられたのだから。
けれども、精神が理解出来なかった。
したくなかった。
夏月は胸を押さえ込んだ。
また……狂気に似た感情がこみ上げる。
生まれたイミがないと言った。
生きるリユウがないと言った。
全部くだらなくて、そんなこと考えてる自分が一番くだらないと言った。
――翼は
虚ろな目で夏月を見て。
紅い光の中で。
――生きている自分の生命にすら気づかずに
狂気を知りすぎた翼は、死を選んだ。
解放されるためだけに。
精神に巣食う狂気から解放されるためだけに。
死することでの解放を翼は想った。
それを告げた時の翼は酷く儚げで、同時に一番人間くさく見えた。
そして、夏月はそれを悲しく思った。
それは、翼が死だけを見つめているからだ。
死以外の何も見ていない。見ることができない。
それしか出来なかった翼の生が、心に痛い。
死なんて考えもしなかった夏月の心が、痛い。
この病院のどこかで、翼はまだ生かされている。
翼は今、何を思い、生かされているのだろうか。
朧げに蘇る翼の微笑。
狂気に染められた微笑と、最後に見せた力のない微笑。
儚い、翼の幻影。
生きている自分の生命にすら気づかずに。
最後に見せた微笑にさえ気づかずに。
翼は微笑いながら死んでいくのか。
生きるリユウがないと。
生まれたことさえ無意味でくだらないと。
微笑い、狂気だけを抱え、解放されるためだけに。
自ら死んでいくのか。
そんなカンタンなものなのか。
生きるコトも死ぬコトも。
翼にとってはどうでもいいことなのか。
「そんな……そんなのは……」
――絶対に嫌だ
夏月の瞳に、強い光が宿った。
「俺は生きたい」
夏月は告げる。
ここにはいない翼に。
あの微笑みに。
「俺は、生きたい」
もう一度。
どれだけ狂気に蝕まれても、生きたい。
生まれたイミも生きるリユウも何もなくても、生きたい。
自らに嫌悪さえ抱いても。
誰かに傷つけられ、傷つけても。
誰にも必要とされなくても。
一筋の光さえ見えない闇夜の中にいようとも。
希望なんてなくても。
――それでも
「中原と一緒に生きたい」
それが、夏月の答えだった。
翼が夏月に狂気を教えたのだから。
夏月は翼に、生きることを教えてやる。
生まれたイミが必要ならば。
生きるリユウが必要ならば。
夏月がそれを翼に与えてやる。
だから……。
「今は、死ぬな」
夏月は呟いた。
今どこにいるのかもわからない翼に向かって。
先程までとは明らかに違う瞳で、意志を持って、前を見据える。
――狂気だけを俺に遺して逝くなんて、許さない
「生きろ、中原翼」
せ
