夏の翼―闇夜の彼方に―

誰もいない教室。
窓から差し込む紅色の夕焼けが、教室内の空席を映し出す。
その夕焼けに創られた空間は、幻想的で残虐的だった。
でも、どこか今の夏月に似合っている。
そんな幻覚、そんな現実。

歪む。歪む。歪む。歪む。
それすらも歪みとはわからないほどに歪んだすべて。

麻痺している。
ココロ、イタミ。
麻痺している。
カヅキノスベテ。

クルッタカヅキ。

初めて見つけたもうひとりの夏月。
自分と違う別の夏月。

目を閉じた夏月は伏せった机に向かい、弱々しく怒鳴る。

「なんでっ……俺なんだよっ……なんでっ、俺だけ……あいつは……誰なんだ……」

がつっ。
左手で机を殴りつける。
鈍い痛みがじんわりと響く。

――その時

「教えてやろうか」

夏月の前方から。
夏月の耳に届く、声。
誰かの声。
聞こえてきた声は、高くもなく低くもなく、無機質な記憶に残らない声。
なのに響きは残酷な……何かを思わせる声。

夏月の記憶には覚えがない。
なのに――何かひどく重要な気がする。
そんな言葉(こえ)。

ゆっくりと夏月は顔をあげた。

しんとした教室。その静寂の中に立っていたのは……。

「中原……翼……?」

翼は微笑んだようにも見えた。

何かが重なりそうな気がした。
夏月の思考が危険な危険なシグナルを点滅させる。

キケンナヨカン。
キケン。
キケン。
キケン。

それでも。目が離せない。

思い出す。
夏月を見ていた翼。
左腕の陰気な包帯と虚ろすぎる瞳の奥。
そして、堕天使にも似た紅の横顔。
翼の後方から差し込む夕日が少年の表情を紅に染める。
ちょうどあの日のように。

その刹那。
突如として夏月の思考に飛び込んでくる記憶。あのときの記憶。

『ひどく不安定になる瞬間(とき)があるんだ』

そう言ったのは誰だったのか。
紅く鋭い光の矢を背にそう言った深い闇を、狂気を秘めた瞳……紅い翼の堕天使。

失われていた記憶の部分が蘇る。何かが重なり合う。

堕天使にも似た少年――中原翼が。
夏月に狂気を投げ込んだ。その事実。

夏月の表情が青ざめる。
彼の瞳はやはり闇に支配されていて。
虚ろな瞳。闇の中。崩れ落ちた血の海の中。狂気だけの世界。堕とされた天使。
それでも美しいとさえ感じさせる翼の狂気。

夏月は『翼』に恐怖を覚えた。
突然、血の雨を浴びたときにも似た恐怖を。
初めて狂気を見つけたときにも似た恐怖を。
これまで苦しみ、抱えてきた狂気にも似た恐怖を。
翼の中に見た。
翼の持つ『それ』は夏月とは違いすぎた。
否。
違いすぎるのではなく、夏月の中のそれを遥かに超えたものなのかもしれない。
夏月にはそれが恐ろしかった。

翼は夏月を見て再び微笑んだ。
夏月の中に狂気を見た。
翼が望んだように。翼の解放のために。
翼に馴染むこの血の海のような紅い空間の中で、叶うのだ。
紅い雫に怯えつつも、その中に浸るこの少年が叶えてくれる。
二人の翼の願いを。

歪んだ微笑が夏月を捉える。

「俺だ」

翼は気怠げに言った。
夏月の体が大きくびくっと震えた。
翼の左手が無意識に夏月に向かって伸びたからだ。
それを見た翼は僅かに目を細め、手を引いた。
それから、嘲笑にも似た笑みがその繊細な顔に浮かんだ。

「お前をここまで墜としたのは、あのとき、お前を狂気に陥れたのは、俺だよ」

そう告げて、翼は己の嘲笑に気づいてしまった。
瞬間、言葉に詰まる。
自分の中にある嘲る心に。これだけの狂気に飲まれ、他人さえ平気で巻き添えにしてもまだ自分を嘲ることのできる心に。嫌悪すら感じる。

翼から表情が消えた。
夏月は怯えつつも翼をのぞき込んだ。

深い深い、闇だけだった。
消えることのない永い狂気だった。

生命の不完全さを映すその瞳を僅かに細め、狂気の少年は狂気の海に怯える少年を見つめた。

瞳に宿った光が以前の翼と同じだ。

「相葉。お前は俺と同じだ」

堕天使が紡ぐ悪魔の言葉。
繰り返し繰り返し、夏月の中の狂気に呼びかける。

夏月は必死に首を振る。

――違う

違う。
違う。
違う。
違う。
違う。

――同じなんかじゃないっ!!

言葉にはならずとも怯えた瞳はそれだけを語っていた。

もう、恐怖しかない。足掻くしかない。言葉(こえ)にならないのだから、心で拒否するしかない。

翼は眉をひそめた。
嫌な感じがした。
以前(まえ)に見た幻覚のように。
翼の思考を壊してしまう。
もうすぐ叶いそうなのに。今すぐにでも叶いそうなのに。
相葉夏月が叶えてくれるはずなのに。
相葉夏月がそれを壊してしまう。

「相葉は俺と同じだ」

再び、翼は告げる。

「狂気に怯えて苦しんで、生きることさえ嫌悪して。なんで自分だけ、と恨んだはずだ。俺を。憎んで苦しんで追い詰められて……。俺が誰かもわからないのに」

冷酷な言葉が夏月を追い詰める。
それは見事なくらいに的中していて夏月は言い返せない。

翼の表情が笑顔に歪む。
冷酷な笑み。歪な笑み。

「相葉は俺と同じだ」

翼は言った。
反論を許さない歪な笑みで、
紅い光を纏い、同化してしまいそうな儚さで。

「俺は、相葉に遺して逝くんだ。俺の中のこれを」

翼は己の細い左腕の包帯をむしり取った。

現れた無数の傷。
治った跡に再びつけられた生々しい裂傷。
それを何度も繰り返している傷跡。
新しい傷は未だに皮膚に血を滲ませ、その痛々しい傷(あと)を晒している。
濁った紅の雫が、夕焼けの禍々しい紅に更に深く染まり、白い翼の左腕を蝕んでいく。

翼のセリフの中の異様な言葉とそ(・)れ(・)は、翼のひとつの答えを示していた。
しかし夏月は怯えを含んだままの瞳で翼を見返し、問う。否定して欲しかった。別の答えがあると示して欲しかった。

「遺すって……どういう……」

答えを、夏月は知っている。翼が言わなくても。
夏月自身、狂気の中でそれを思ったときもあったのだから。
知っている。
それでも……。

翼は穏やかに微笑んだ。
その笑みは先程までの歪なものよりも恐怖を誘った。
全身に悪寒が走る。
体の震えが止まらない。
聞いておきながら、答えを聞きたくないと夏月は切望した。

しかし、翼は夏月の心ではなく、言葉の方に応えた。

「俺の、いつもと違うもうひとりの俺の望み……」

翼の目が夏月を映す。

「狂気を遺すこと……誰かを巻き添えにしてやること……それは叶った」

――もうひとつは?
――いつもの翼の望みは?

夏月はそれを口にすることは出来なかった。
それでも、翼は告げた。

「俺は解放されるんだ。俺の中の狂気から。生きるという狂気から。イミもリユウもないことから」

翼のすべてが紅に絡みとられる。

――生まれたイミも生きるリユウも俺にはない

いつもと同じことを最後に繰り返す。
感情のこもらない言葉。

――狂ってる

夏月は体に力が入らなかった。
ただ、見つめる。
目の前の美しい少年を。
深紅色の闇に染まり、儚くも残虐的に微笑(わら)う少年を。

動けないままの夏月の胸に、僅かな痛みが残った。

「誰でも良かったんだ」

翼は言った。
左腕を冷たい右手で掴みながら。

「俺の思い通りに進んでくれる奴なら、誰でも。相葉、お前を見た時、つまらなそうに笑う顔が俺に似てると思った。だからこいつなら、いいと思ったんだ」

夏月は何も言えずにただ、翼を見ていた。

「俺にとっては、全部つまらなくてくだらなくて、でもそんなこと考えてる俺が一番くだらないと思ってた。それでも、誰にも必要とされないことがひどく苦しくて……」

淡々と告げる翼の言葉。
なのに、痛い。
痛々しく空の教室に響く。

「狂いそうだった……お前には……悪いと思ってる。それでも俺は……」

ふっと表情が変わった。
これまでの無機質なものとは違う、疲れ切った表情。
夏月の胸がまた痛んだ。

「解放されたかった……」

力なく微笑(わら)う翼は、最後に「ごめん」とだけ呟いた。

それが、夏月が見た最後の翼だった。