幼い自分がいる。
翼は何かに怯えていた。
まだ感情の宿った瞳が向こうをじっと見据える。
恐怖と孤独に満ちた翼の精神。
どうして、何故。
怯える自分が繰り返す。悲鳴にならない悲鳴。
どうして、何故。
見せられたのは拒絶。
向けられたものも拒絶。
最も慈しみ、愛してくれるはずの相手の憎悪の瞳。
翼を憎む心。激しい拒絶。
どうして、何故。
伸びてきた白い手が翼の細い首を強く掴み――
どうしてっ!?なんでっ!?
「……やめて……」
震える、小さな声。
――締め上げる
苦しいのにっ。
どうしてっ……?
痛いのにっ。
なんでっ……?
足掻こうと伸ばした翼の手は、途中で止まる。
華奢な女の手に力が加わっていく。
……どうして……?
「あんたなんか消えればいい」
憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。
震える翼の瞳。
助けを求めて彷徨う視線の先に、翼によく似た男。
目の前の殺気の向こうから見つめる冷たい瞳。
憎しみさえ超えた無関心という憎悪。
どうしてっ!?なんでっ!?
翼の悲鳴は闇に飲まれていく。
「「お前なんか消えればいい」」
憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。
ひたすらに続く、憎悪。
――どうして……
翼の意識が消えかける。
その時。
かしゃん
硝子が砕けたような繊細な音がして、精神の中を駆け巡った何かが、翼を縛り付けた。
力の限りに翼は最後の叫びをあげた――
己の小さな叫び声に翼の意識は現実に戻る。
ひんやりと冷たい床が体の下にある。その白い床の上に落ちた紅が視界に映る。
ゆっくりと頭を持ち上げ、一度瞬きをしてから、翼は壁にもたれて座り直した。
失っていたような記憶が少しずつ蘇る。
あれは――過去
既に忘れかけていた昔の記憶。
けれど、その時精神を砕いた何かを忘れたことはない。
それは、どんな時も翼を支配し、今でも精神の中にあるのだから。
感情さえも失ったはずの瞳が少しだけ哀しげに瞬く。
映る紅色に耐えきれないように。
それでも、縛り付けられる、濁り、淀んだ深紅色に。
持ち上げた左腕を血が伝う。
切り裂かれた皮膚のその隙間から滲み、泉が湧くように溢れ翼を染めていく。
濁り、黒ずんだ禍々しい匂いのする深紅色。
それは翼がまだ生きているという証。
翼を狂気に包んでしまう生の証。
……翼が生きていることを嫌悪する瞬間
それでもどこか安堵を覚えさせ、不意に狂気から解放されたかのように錯覚する瞬間。
その痛みと深紅色だけが、翼の狂気を、苦しみを忘れさせてくれる。
ひとときの解放をくれる。
かしゃん
どこかで聞いたことがあるような音をたて、右手に握っていたカッターナイフが床に落ちる。
無意識に震えたその手が、傷に触れた。
ぬるりとした生々しい感触が伝わり、翼の手はまた紅に染まる。
翼の表情は変わらなかった。
無表情のまま虚ろな瞳が、僅かに見えた窓の外の青空の終を見つめる。
傷口につけた唇から、酷く濁った味が広がる。
淀んだ狂気の味。
禍々しい狂気の味。
翼はつまらなそうに左腕を床に投げ出した。
反動で血が床に落ちる。
痛みが響き、再び血が流れ落ちる。
それでも翼の表情は変わらない。
ふっ、と。
突然、翼の体が大きくびくっと震えた。
真っ赤な左腕が白い制服のシャツを穢しながら、胸元を掴む。
呼吸困難に陥ったように胸が詰まる。
苦しくて、息が乱れる。
心が何かに狭められていく。
否。何かではなく、翼はそれを知っている。
狂気と呼ばれるもの。
翼の中にずっとあるそれが、狂わせようと……それでも完全に狂ってしまわないように……。ゆっくりと、襲い来る。
翼のすべてを包む。
先程までとは違う、ひどく怯えた瞳で翼は虚空を見据えた。
押し寄せるものに必死で抗おうとする、いつもの自分ではないもう一人の別の自分が、いる。
細い自分の体を掻きむしるように、爪を突き立てる。
薄いシャツを通り過ぎ伝わる痛みが、遠のきそうになる意識を繋ぎ止める。
……足掻いてやる
誰にも必要とされなくても、足掻いてやる。
……でも
生きたくない。
壊れてしまったのだから、生きたくなんてない。
正反対のことを叫ぶ自分が二人。翼の中にいる。
どちらが本当の翼かなんて、忘れてしまった。
どちらも、翼自身なのだから。
ただこのまま消えていくのが嫌で、狂気に抗おうとする……足掻き続ける感情的な翼。
苦しむ自分さえも客観的に見下し、諦めすら忘れ、狂気を受け入れ……死を想うひどく冷めた翼。
それは全く正反対の感情を持つ二人なのに、そのどちらもがこの体の中にいる翼自身のふたつの精神なのだ。
「……っく……」
体を折り曲げ、ただひたすらに胸を掻きむしる。
ひんやりとしているはずの資料室の空気さえも、ひどく暑く感じる。
呼吸が苦しい。
左腕も熱くて痛い。
流れ落ちる血が、止まらない。
細めた瞳に映る紅色。
あぁ、俺は死ぬんだ。もう、生きなくていいんだ。
自然とそう思えた。
不意に痛みが和らぐ。
そして左腕の痛みも精神の痛みも失せていく。
いつもの翼に戻っていく。
冷酷で冷静で、全てを諦めて、足掻きもしない、叫びもしない、いつもの翼。
本当の翼かどうかはわからない。けれど、それは間違いなく、いつもの翼。
痛みも苦しみもすべて消えた。
解放されるんだ……やっと
呟き、体を床に投げ出したまま再度目を閉じる。
狂気から。生から。誰からも必要とされなかった自分から。
解放される。
『生まれたイミもなかったんだから、生きるリユウもない』
ずっとずっと昔に知った事実。
必要とされないことを。生まれたイミなんてなかったことを。
「……俺がいてもいなくても世界は変わりはしない」
学校もクラスメートも教師も両親も、何も変わらず続いていく。
俺は必要とされなかったのだから。
生まれたイミもなかったのだから。生きるリユウもないのだから。
俺の未来も変わらない。
見つめた闇の中に誰かがいる。
見覚えのある、誰か。
「……誰……」
翼は知っている。
あいつは……。
クラスメート、友達……否、そんなもんじゃない。
あいつは翼を知らない。でも翼は知っている。
「あいば……かづき……」
掠れた声が宙を漂う。
――相葉夏月
そうだ。
相葉夏月という名の翼の選んだ少年。
いつもの翼ではない翼が選んだ。
ただ消えていくのが嫌で、誰かを巻き添えにして足掻いてやりたいと思った翼が選んだ。
翼の中の狂気を押し付ける相手として。
そして。
夏月は見事に翼の狂気を受け取ってくれた。
翼の望む通りに進んでいく。
狂気に染まっていく。
闇の中の夏月が振り向く。狂気に支配された虚ろな瞳は翼を見ているのに、焦点が合っていない。翼を通り過ぎ、その向こうにある何かを見据えていた。
「あいば……」
翼の声が微かに闇を揺らす。
それを聞き取ったかのように、突如夏月の瞳が大きく見開かれ、翼に焦点が合う。
夏月は怪訝そうな表情を翼に向けた。
無意識に翼はその紅色に支配された左手を夏月に向かって伸ばした。
――刹那
夏月の体が大きく震え、強い拒絶の表情を示した。
翼にはない、強固な意志を持って。その瞳に強い拒絶を宿した。
――俺はお前とは違う
夏月の唇が動いた。
震え、動きを止めた翼の左腕から紅い雫が滴る。
夏月が翼を睨み続ける。
鋭い拒絶の瞳。翼の狂気を責め続ける瞳。
それは……翼が望まない夏月。
現実ではない。けれど、翼はそれを恐れた。
俺はそんなこと望んでいない。相葉はそんな方向に進んでない。俺の望み通りに、俺の解放を叶えてくれるはずだ。
翼は目を大きく見開いた。
眩しい太陽の光が瞳をさす。
目を細め、薄く瞬きをしてから壁伝いに起き上がり、体を預けて座り直す。
左腕から流れ落ちた血が、白い壁を浸食していた。
そしてそれは、翼の白いシャツの胸元にも黒ずんだ跡を残していた。
乾きかけた血の跡を右手で弱々しく握りしめ、大きく溜め息をつく。
「……幻」
呆然と呟く。
力の入らない右手が、それでも少しずつ現実感を取り戻していく。
「なんで……あんな……」
俺の望み通りに進んでいるんじゃないのか……?
俺は……相葉に何を望んでいるんだ……。
俺は……何が……。
そのどれにも答えは出なかった。
力の入らない左手が口元を押さえた。
いつもの狂気とは違った苦しみがどことなく心の中に残った。
それでも、翼の中の死への想いも消えることはない。
もう戻ることは出来ない。
翼も。夏月も。
もう、戻れない。
何かが変わるかもしれない夏。
すべてが終わるかもしれない夏。
――狂気に蝕まれた翼の夏はまだ、続く。
翼は何かに怯えていた。
まだ感情の宿った瞳が向こうをじっと見据える。
恐怖と孤独に満ちた翼の精神。
どうして、何故。
怯える自分が繰り返す。悲鳴にならない悲鳴。
どうして、何故。
見せられたのは拒絶。
向けられたものも拒絶。
最も慈しみ、愛してくれるはずの相手の憎悪の瞳。
翼を憎む心。激しい拒絶。
どうして、何故。
伸びてきた白い手が翼の細い首を強く掴み――
どうしてっ!?なんでっ!?
「……やめて……」
震える、小さな声。
――締め上げる
苦しいのにっ。
どうしてっ……?
痛いのにっ。
なんでっ……?
足掻こうと伸ばした翼の手は、途中で止まる。
華奢な女の手に力が加わっていく。
……どうして……?
「あんたなんか消えればいい」
憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。
震える翼の瞳。
助けを求めて彷徨う視線の先に、翼によく似た男。
目の前の殺気の向こうから見つめる冷たい瞳。
憎しみさえ超えた無関心という憎悪。
どうしてっ!?なんでっ!?
翼の悲鳴は闇に飲まれていく。
「「お前なんか消えればいい」」
憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。憎悪。
ひたすらに続く、憎悪。
――どうして……
翼の意識が消えかける。
その時。
かしゃん
硝子が砕けたような繊細な音がして、精神の中を駆け巡った何かが、翼を縛り付けた。
力の限りに翼は最後の叫びをあげた――
己の小さな叫び声に翼の意識は現実に戻る。
ひんやりと冷たい床が体の下にある。その白い床の上に落ちた紅が視界に映る。
ゆっくりと頭を持ち上げ、一度瞬きをしてから、翼は壁にもたれて座り直した。
失っていたような記憶が少しずつ蘇る。
あれは――過去
既に忘れかけていた昔の記憶。
けれど、その時精神を砕いた何かを忘れたことはない。
それは、どんな時も翼を支配し、今でも精神の中にあるのだから。
感情さえも失ったはずの瞳が少しだけ哀しげに瞬く。
映る紅色に耐えきれないように。
それでも、縛り付けられる、濁り、淀んだ深紅色に。
持ち上げた左腕を血が伝う。
切り裂かれた皮膚のその隙間から滲み、泉が湧くように溢れ翼を染めていく。
濁り、黒ずんだ禍々しい匂いのする深紅色。
それは翼がまだ生きているという証。
翼を狂気に包んでしまう生の証。
……翼が生きていることを嫌悪する瞬間
それでもどこか安堵を覚えさせ、不意に狂気から解放されたかのように錯覚する瞬間。
その痛みと深紅色だけが、翼の狂気を、苦しみを忘れさせてくれる。
ひとときの解放をくれる。
かしゃん
どこかで聞いたことがあるような音をたて、右手に握っていたカッターナイフが床に落ちる。
無意識に震えたその手が、傷に触れた。
ぬるりとした生々しい感触が伝わり、翼の手はまた紅に染まる。
翼の表情は変わらなかった。
無表情のまま虚ろな瞳が、僅かに見えた窓の外の青空の終を見つめる。
傷口につけた唇から、酷く濁った味が広がる。
淀んだ狂気の味。
禍々しい狂気の味。
翼はつまらなそうに左腕を床に投げ出した。
反動で血が床に落ちる。
痛みが響き、再び血が流れ落ちる。
それでも翼の表情は変わらない。
ふっ、と。
突然、翼の体が大きくびくっと震えた。
真っ赤な左腕が白い制服のシャツを穢しながら、胸元を掴む。
呼吸困難に陥ったように胸が詰まる。
苦しくて、息が乱れる。
心が何かに狭められていく。
否。何かではなく、翼はそれを知っている。
狂気と呼ばれるもの。
翼の中にずっとあるそれが、狂わせようと……それでも完全に狂ってしまわないように……。ゆっくりと、襲い来る。
翼のすべてを包む。
先程までとは違う、ひどく怯えた瞳で翼は虚空を見据えた。
押し寄せるものに必死で抗おうとする、いつもの自分ではないもう一人の別の自分が、いる。
細い自分の体を掻きむしるように、爪を突き立てる。
薄いシャツを通り過ぎ伝わる痛みが、遠のきそうになる意識を繋ぎ止める。
……足掻いてやる
誰にも必要とされなくても、足掻いてやる。
……でも
生きたくない。
壊れてしまったのだから、生きたくなんてない。
正反対のことを叫ぶ自分が二人。翼の中にいる。
どちらが本当の翼かなんて、忘れてしまった。
どちらも、翼自身なのだから。
ただこのまま消えていくのが嫌で、狂気に抗おうとする……足掻き続ける感情的な翼。
苦しむ自分さえも客観的に見下し、諦めすら忘れ、狂気を受け入れ……死を想うひどく冷めた翼。
それは全く正反対の感情を持つ二人なのに、そのどちらもがこの体の中にいる翼自身のふたつの精神なのだ。
「……っく……」
体を折り曲げ、ただひたすらに胸を掻きむしる。
ひんやりとしているはずの資料室の空気さえも、ひどく暑く感じる。
呼吸が苦しい。
左腕も熱くて痛い。
流れ落ちる血が、止まらない。
細めた瞳に映る紅色。
あぁ、俺は死ぬんだ。もう、生きなくていいんだ。
自然とそう思えた。
不意に痛みが和らぐ。
そして左腕の痛みも精神の痛みも失せていく。
いつもの翼に戻っていく。
冷酷で冷静で、全てを諦めて、足掻きもしない、叫びもしない、いつもの翼。
本当の翼かどうかはわからない。けれど、それは間違いなく、いつもの翼。
痛みも苦しみもすべて消えた。
解放されるんだ……やっと
呟き、体を床に投げ出したまま再度目を閉じる。
狂気から。生から。誰からも必要とされなかった自分から。
解放される。
『生まれたイミもなかったんだから、生きるリユウもない』
ずっとずっと昔に知った事実。
必要とされないことを。生まれたイミなんてなかったことを。
「……俺がいてもいなくても世界は変わりはしない」
学校もクラスメートも教師も両親も、何も変わらず続いていく。
俺は必要とされなかったのだから。
生まれたイミもなかったのだから。生きるリユウもないのだから。
俺の未来も変わらない。
見つめた闇の中に誰かがいる。
見覚えのある、誰か。
「……誰……」
翼は知っている。
あいつは……。
クラスメート、友達……否、そんなもんじゃない。
あいつは翼を知らない。でも翼は知っている。
「あいば……かづき……」
掠れた声が宙を漂う。
――相葉夏月
そうだ。
相葉夏月という名の翼の選んだ少年。
いつもの翼ではない翼が選んだ。
ただ消えていくのが嫌で、誰かを巻き添えにして足掻いてやりたいと思った翼が選んだ。
翼の中の狂気を押し付ける相手として。
そして。
夏月は見事に翼の狂気を受け取ってくれた。
翼の望む通りに進んでいく。
狂気に染まっていく。
闇の中の夏月が振り向く。狂気に支配された虚ろな瞳は翼を見ているのに、焦点が合っていない。翼を通り過ぎ、その向こうにある何かを見据えていた。
「あいば……」
翼の声が微かに闇を揺らす。
それを聞き取ったかのように、突如夏月の瞳が大きく見開かれ、翼に焦点が合う。
夏月は怪訝そうな表情を翼に向けた。
無意識に翼はその紅色に支配された左手を夏月に向かって伸ばした。
――刹那
夏月の体が大きく震え、強い拒絶の表情を示した。
翼にはない、強固な意志を持って。その瞳に強い拒絶を宿した。
――俺はお前とは違う
夏月の唇が動いた。
震え、動きを止めた翼の左腕から紅い雫が滴る。
夏月が翼を睨み続ける。
鋭い拒絶の瞳。翼の狂気を責め続ける瞳。
それは……翼が望まない夏月。
現実ではない。けれど、翼はそれを恐れた。
俺はそんなこと望んでいない。相葉はそんな方向に進んでない。俺の望み通りに、俺の解放を叶えてくれるはずだ。
翼は目を大きく見開いた。
眩しい太陽の光が瞳をさす。
目を細め、薄く瞬きをしてから壁伝いに起き上がり、体を預けて座り直す。
左腕から流れ落ちた血が、白い壁を浸食していた。
そしてそれは、翼の白いシャツの胸元にも黒ずんだ跡を残していた。
乾きかけた血の跡を右手で弱々しく握りしめ、大きく溜め息をつく。
「……幻」
呆然と呟く。
力の入らない右手が、それでも少しずつ現実感を取り戻していく。
「なんで……あんな……」
俺の望み通りに進んでいるんじゃないのか……?
俺は……相葉に何を望んでいるんだ……。
俺は……何が……。
そのどれにも答えは出なかった。
力の入らない左手が口元を押さえた。
いつもの狂気とは違った苦しみがどことなく心の中に残った。
それでも、翼の中の死への想いも消えることはない。
もう戻ることは出来ない。
翼も。夏月も。
もう、戻れない。
何かが変わるかもしれない夏。
すべてが終わるかもしれない夏。
――狂気に蝕まれた翼の夏はまだ、続く。
