夏の翼―闇夜の彼方に―

熱いほどの空気が体中にまとわりつく。

初夏の太陽が開け放たれた窓から、教室内を容赦なく照らしつける。
窓側の一番後ろの席にいる夏月にも、その陽射しは降りかかり、彼を苛立たせる。

まだ初夏のはずなのに、この暑さはなんなんだろう。

やけに冷静に思いながら、夏月は教室内を見回した。

いつもと同じ喧騒。
授業の合間のひとときの安らぎの時間。

そこにあるのは、『日常』で少しも変わらないクラスという場所。
クラスメートという、人たち。

――この中にいるはずなのに。

「誰なのか、わからない」

あの時、あの言葉を言ったのは誰だったのか。
そのことだけが最近の夏月の思考を支配していた。

それは、一週間ほど前のことだった。

教室で古典の課題の居残りをしていた。
何百年も昔の人間が書いた文章の現代語訳がどうしてもできなくて、辞書片手に悪戦苦闘している時だった。
教室には夏月以外は残っていなかった。

窓の外に見えていた青空が夕焼けに変わった頃だった。

ふと気づくと、空席だったはずの前の席に誰かが座って夏月を見ていた。

逆光になっている夕焼けに白いシャツがやけに紅く染められていて、夏月は僅かに目を細めた。

「……何だよ?」

その言葉は不機嫌極まりない問いだった。
だが、彼はそんなこと気にすることもなく、ひどく虚ろで冷たい目を夏月に向けた。

「ひどく不安定になる瞬間(とき)があるんだ」

彼は言った。
彼の唇の端が奇妙に持ち上げられ、歪んだ微笑を作った。
瞳の奥の、ひどく禍々しいものが、夕焼けの紅を吸い込み、その中に巣食う狂気が夏月を捕らえた。

夏月の全てがそれに囚われ、少年の中で何かが歪み、崩れた。
堕天使のような歪んだ微笑の彼の名を、夏月は呼んだはずだった。
しかし、それは言葉にならずに宙を彷徨う。

それ以来、そのことだけが夏月を支配した。
彼の虚ろな瞳が、歪んだ微笑が夏月の日常を狂わせていった。
少しずつ、だが確実に侵食されていく。

訳のわからない恐怖に耐えるしかなくて……次第に日常を見失い、夏月はひどく虚ろな嘲笑を見せるようになっていた。
それに気づいた時、精神(こころ)の中で何かが覚醒を始めた。

それは……。

「確実に、狂い始めてる……」

表情を歪め、呟いてから胸に溜まった息を吐き出す。

暑すぎる空気が夏月の思考を苛立たせる。

本鈴が鳴る。
クラスメートたちが次々に席についていく。
いつもの喧騒は消え、型通りのいつもの静寂が教室を支配した。
それはいつも通りのものなのに、だからこそ夏月には見慣れぬ異物のように見えた。

夏月は無意識に顔をしかめ、伏せた。
嫌なものが、淀んだ何かが胸の中で形を成しつつあった。

数分後。
教科係が次の数学は自習だと伝えた。
教室はすぐに元の喧騒を取り戻した。
それらの全てを、暑さに包まれた夏月の思考はひどく遠いものとして捉えていた。
時折話しかけてくる友人の言葉にさえ、反応できない。
会話にのらない夏月を、彼らは訝しげに見て、去っていった。

けれど夏月は無感動のまま、それを見ていた。

精神(こころ)が麻痺していく。
何かが壊れていく。
何かが、嫌だ。

けれど何なのかわからない。
ただ、それら全てが確実に壊されていくのだけはわかった。

そして、夏月を壊した狂気が全てを支配していく。

頭を抱え込み、目をきつく閉じると、夏月は低い声を漏らした。

見え始めたばかりの夏。
何もわからない夏。

初夏の空気が暑い。