始業式から一週間経つ日、窓の外は豪雨に見舞われていた。それを眺めながら、未桜はげんなりと肩を落とす。雨はまとまりのない癖毛の天敵だ。今日は夏期課題テストの返却もあると聞いている。よりによって一番苦手な科目でテンションが下がることは目に見えているのに、余計なことをしないでほしい。
溜息混じりに家を出ようとすると、今度は傘がない。
「ねー、ママ。私の傘は?」
「えー? 知らないわよ、忘れてきたんじゃないの?」
言われてみればそうかもしれない。ロッカーに折り畳み傘を突っ込んだ記憶がある。
ビニール傘しかないとか。こんなの絶対人に見られたくない。
駅に着くまで誰にも見られませんように──そう祈りながら、ビニール傘では顔を隠すこともできず、俯きながら歩く。横断歩道の手前で立ち止まるのはいつにも増してもどかしく、早く青になれと念じながら、上原の姿を探す。
会いたい気持ちは変わらずある。朝から上原に会えたらどんなにいいだろう。このビニール傘だって、なにか気の利いた台詞で笑い飛ばしてくれたら。
──なんて、都合の良い妄想だ。ビニール傘なんてダサい、そう笑われるに決まってる。だったら会えないほうがいい。それに、こんなこと考えたって仕方がない。上原がこの駅に来るかは二つに一つだし、時間が合うとは限らないのだから。
それなのに、見つけてしまう。この間、上原が現れた通り道を見ていて、豪雨の暗がりでも、そのシルエットだけで上原だと分かる。上原もビニール傘だった。
会えて浮き足立つ気持ちと、見られてしまうと落ち込む気持ちとのせめぎ合いが起こる。だとして上原に気付かないふりはできない。今からできるのは、“遠くからでも気付いていた”なんて好意丸出しの意識を悟られないようどうするか、だけだ。
悩む暇はない。上原の視線がこちらに向いた気がして、軽く手を挙げてみせる。上原も軽く手を挙げた。
「おはよ」
「おっはよー。見てこの傘」
あとは先に自虐して笑いに替える。未桜はわざとらしく溜息をつきながら肩をすくめた。
「親が私の傘持ってっちゃってさー」
「うわ、あるある。俺、姉貴に持ってかれた」
よし、この嘘はファインプレー。胸を撫で下ろすと、続いて上原は、軽く自分のビニール傘をつついた。
「てかおそろじゃん」
──上原のこういうところが好きだ。緩んだ頬を引き締める余裕はなく、早くおどけてみせなきゃとその一心で口を開く。
「なにそれぇー!」
「声デカ」
「だって、ビニール傘でおそろとか、めっちゃおそろ多いじゃん」
首のあたりが火照ってやまない。傘を学校に置いたままだった過去の自分を褒めてやりたい気さえした。天気を見たときの消沈した気分なんて、もう跡形もなかった。
歩き出してもその興奮は覚めなかった。上原との会話はいつになく盛り上がっている気がした。中身は、昨日見た動画とか、今日返ってくるテストの点数予想だとか、最近はまってるお菓子だとかそんな取り留めのないものばかり。でも今日は上原の反応がいつにも増していい気がする。
上原も自分に気があるのでは? そんな都合の良い妄想はいつもしていたけれど、今日ほどそれを強く感じたことはなかった。冗談じみた口調で「おそろ多いし、いっそ付き合っちゃお」なんて言いたくもなった。
もちろん、そんなことはしないのだけれど。告白はやっぱりされてこそ価値があるものだ。澤村だって、いつだって付き合うときは告白されてからだ。告白された回数だって加点要素になる。そうに違いない、と自分を抑える。
「てか中村ってさあ、将暉とまだ仲良かったりする?」
上原のクラスメイトで、一年生のときは未桜のクラスメイトだった――何より例の、夏休み前に告白してきた男子だ。まだ、という言葉のとおり、確かに告白されるまではよく喋っていた。でもそれは話しかけてくるからで、未桜側には特別な感情はなかった。なにせ相手はランクCだ。
そんな男と今も昔も仲が良いなんて、有り得ない。「まっさかあー!」とビニール傘の時よりも大きな声が出た。
「一年のとき同じクラスだったけど、それだけ」
「じゃあさー、俺達付き合っちゃう?」
「え!」
そして告白は突然やってきた。思わず素っ頓狂な声が出た。
上原に告白される、その都合の良い妄想は何度もしていて、その中での自分は、いわゆる“いい女”風に受け入れていた。
でも現実はそうスマートに運べなかった。嬉しさ丸出しの表情で返事をしてしまったに等しかった。
やばい、上原と付き合う。歓喜と興奮の区別がつかないほどに気分は紅潮し、今目の前の現実に頭がついていかない。ああ、こんなところが自分をランクAに留める原因なのではないかと自省する余裕もなかった。
それでも、少しでも誤魔化そうと思えるだけの余裕はあった。やば、と言いながら口元に手を当ててみせる。
「急に言うから何かと思った」
「まあそんなもんしょ」
いやいや、やっぱりそこはロマンチックなものがよかったに決まってるでしょ。デートとまでは言わないまでも、二人きりの教室とかさ、誰もいない廊下とかさ。そんなことは、きっと高望みが過ぎる。いや、むしろ陳腐でさえあるかもしれない。軽いノリで付き合っちゃおうと言える、それこそが恋愛上級者の、ランクAの恋愛ではなかろうか。
そう結論づけて、未桜は軽くポニーテールの毛先をはらってみせた。
「確かに、そんなもんかも」
それでも気分は高揚したままだ。彼氏ができた。高校生になって初めての彼氏。しかも相手はランクAの上原だ。
やっぱり、私はランクAだ。
教室へ着いた未桜は、澤村の席が空だと真っ先に気が付いた。浜崎の席で話しているのかと思ったが、浜崎は別のクラスメイトと談笑している。未桜はあまり話したことのない相手だ。割り込むには中途半端な時間しか残っていなかったこともあり、仕方なく一人で席に着く。
ああ、彼氏ができたと、二人に報告したかったのに。出鼻をくじかれたと肩を落としたところで、澤村の前で彼氏ができたという話題は要注意だと思い出す。
でも、言いたい。折角彼氏ができたのだ。しかもランクBに告白されたとかではなく、ランクAの上原に告白されて彼氏ができた。未桜がランクAであることの何よりの保証がここにある。なんなら、Aの中でも総合点は「彼氏持ち」として上がったかもしれない。
ただ、澤村の機嫌を損ねるのは避けたい。夏休みは終わったばかりだけれど、十一月には修学旅行もある。それ自体はまだ先でも、班決めで外されるのは避けたい。だって、そんなことになった未桜をランクAだと思ってくれる人なんていない。
担任教師のホームルームが始まっても、隣は空席のままだった。澤村は遅刻だろうか。遅刻してきた澤村には、どんなふうに伝えるのが正解だろう。大真面目に「彼氏ができた」なんて切り出すのはナンセンスだ。軽い調子で「実は上原と付き合ったんだよねー」と話すのが無難だろう。……いや、彼氏ができて喜んでるなんて思われたら、”その程度で浮かれるモテなさ”なんて評されてしまうかもしれない。そうだ、ただの世間話のように「そういえばノリで上原と付き合ってさ」なんて言えば、澤村も気にしないかもしれない。……自慢できないのは残念だが、澤村に捨てられないためには仕方がない。
そうだ、そうしよう。そうと決まれば少し気が楽になった。
しかし、澤村は一時間目まで終わっても現れなかった。二時間目は体育で、浜崎は「未桜ー、一緒に行こ」とバッグを振りながらやって来た。そのバッグはピエロのような謎の人形が布の切れ端でデザインされていて、それだけ見ると「なにそれ」と言いたくなるが、浜崎が持つと「奇抜なセンス」になるのだから不思議である。隣に並ぶ自分は、去年のクリスマスに母親に頼み込んで買ってもらった某パジャマブランドのショッパーを使っていて、いかにも平凡で恥ずかしい。
「ね、てかさ、リアどうしたんだろ?」
「風邪じゃん? 昨日言ってた」
「あ、そうなんだ?」
あれ、昨日、そんなこと話したっけ? 普段ならもっと気にしていたところだが、その時は「まあいいか」で終わってしまった。そのくらい、上原と付き合って浮かれていたのだ。
同時に、チャンスだと思った。上原と付き合ったことを、ここで浜崎に伝えてしまおう。そうすれば浜崎が澤村についても「言わないほうがよくね」とか「見舞いついでに伝えよう」とかコメントをくれるはずだ。そうでなくとも、澤村が登校してきたタイミングで浜崎が大袈裟なリアクションを取るのを避けられる。
「ていうかさー、私、上原と付き合うことになったんだよね」
「マジィ?」
案の定、浜崎は大声を上げ、廊下の何人かが振り向く。未桜は「ちょちょ、声大きいって」と人差し指を立てながらも笑みを堪えられなかった。ほらやっぱり、彼氏ができるのは優れた証拠だ。
だからこそ、これをさり気なく、ごく日常的なことのように話したい。笑みを消すまでせずとも、未桜は「ただのノリだって」と手招きをしながら言ってみせる。
「仲良かったしさ、友達の延長的な」
「へーっ、でもすごいじゃん。アメリカ(むこう)ってそういうのないからさ、なんかなんとなく一緒にいるだけ的な。進んでんなあ、未桜」
すごい、進んでる。その評価に鼻の穴を膨らめる。自分より点数の高い浜崎が、そんな誉め言葉を送る。なんて気分がいいのだろう。
「や、ほんとマジで、ノリだからさ。しかもさー、今日に限ってめっちゃ雨じゃん。髪めっちゃくちゃで、ムードとかなくって」
そのまま上原の話をしながらジャージに着替えた。体育は二人一組のバドミントンで、普段なら澤村と浜崎の三人で無理矢理やって、教師から「一人あっち行け」と東田と組み合わされるところだが、その澤村が欠席だったお陰で浜崎と二人で悠々とできた。ちなみに東田は教師と組んでいた。
この小一時間に起きた出来事を踏まえると、自分はもう、ランクSと言っても過言ではないのでは?
澤村が学校へ来たのは、そんな幸福の絶頂を迎えた二日後だった。
未桜が教室へ入ると、浜崎が澤村の前の席を後ろ向きに陣取って喋る、いつもの光景が目に入った。
上原との関係は順調だ。たったの二日しか経たないが、毎夜ごく自然にLINEをしてよくて、毎朝横断歩道の手前で待ち合わせできるというだけで、気持ちが浮足立つ。戻り始めた試験の結果は散々だが、それさえ上原と話すネタになるのだと思うと気にならなかった。
「おっはよう、リア」
「あー、おはよ」
その高いテンションのまま席に着いたが、澤村は気だるげだった。浜崎と向かい合ってスマホを見たまま、視線も上げない。病み上がりなのだろう。マスクも何もしていないし、化粧の仕方も変わりないとはいえ、久しぶりの学校を億劫に感じるのは分かる。
「リア、風邪大丈夫?」
「あー、うん。平気平気。すぐ治ったし」
「よかったじゃん。やっぱさー、夏休み終わったばっかってしんどいよねー。秋休みないのかな」
言いながら、頭には上原が浮かぶ。上原とはどこでどんなデートをしよう。二人きりだけではなく、トリプルデートもいいんじゃないだろうか。考えながら、教室の真ん中で喋っている男子の一団に目を向ける。その中心にいる坂江は、上原の親友で、澤村とも仲が良い、ランクSだ。未桜達三人が男子も混ぜたグループで遊ぶときは、その坂江を含んだグループと相場は決まっている。もちろん、クラスが違うだけで、メンバーには上原もいる。
いつものグループで遊びながら、未桜と上原だけがカップル――他のメンバーよりも一歩進んだ関係性で、しかもそれを当然のように享受する自分のことを想像すると胸が躍った。
ああ、そうだ。それより、上原のことをさり気なく澤村にも伝えなければ。
「そういえばさ――」
「そういえば未桜、上原と付き合ったってマジ?」
先に言われた。最初に思ったのはそれだった。
なんで知ってるんだろう。次に思ったのはそれだ。浜崎が伝えたのだろうか。すぐにそう考え直した。
ここ数日、澤村と浜崎を含むグループLINEは、澤村の風邪を心配する内容で終わっていた。だからきっと、今こうして未桜が登校してくる前に、浜崎が口にしたのだろう。それだけを考えて、想像した通りに、頬の緩みを隠しながら、軽く椅子の背に凭れて、何でもない風を装った。
「そうそう。なんかノリで?」
「それって私に言えないことだったんだ?」
「へっ」
しかし、続いた言葉は予想外のものだった。
そしてその声ですぐに理解する。虎の尾を踏んだのだ、と。
澤村の気だるげな雰囲気は変わっていなかった。視線も上げないままだった。だからこそ、それは「友達に裏切られた」のではなく「格下が生意気なことをした」と感じているように見えた。
やばい。首筋から背中へと冷や汗が流れ落ちるのを感じる。まだどうにか、機嫌を直してもらえるだろうか。
「それはさ、リアが休んじゃってたから」
「私のせいってこと?」
「そうじゃなくて」
「ま、おめっと。ちょうどいいんじゃん?」
続けて澤村は「てかさー、このネイル、色薄くない?」と話題を強制終了させる。
その終了は、どういう意味だろう。気に食わない話題だったのか、それとも興味のない話題だったのか? ちょうどいいとは、未桜と上原がお似合いだという意味だろうか? それは素直に、それとも皮肉で?
分からなかった。二人の会話は、既に未桜をいないものとして扱っているようにも、いつも通りにも聞こえた。未桜が口を挟んだり相槌を打ったりするまで、二人の判断は分からない。
ハブられる。そしてそれは、ランクB、Cへの転落を意味する。そう思うだけで、冷や汗が止まらなかった。
打開策を思いつかないまま、ホームルームが始まり、浜崎は自席へ戻って行った。澤村はネイルを見つめてみたり、スマホを見てみたりといつも通りで、しかし未桜に話しかけてくる気配はなかった。
日頃なら、澤村の反応をもっと警戒したはずだった。でもそれをしなかったのは、間違いなく、彼氏ができたことに、何より彼氏を持つ自分のランクに、妄信的な自信を抱いてしまっていたからだと気付かされた。
溜息混じりに家を出ようとすると、今度は傘がない。
「ねー、ママ。私の傘は?」
「えー? 知らないわよ、忘れてきたんじゃないの?」
言われてみればそうかもしれない。ロッカーに折り畳み傘を突っ込んだ記憶がある。
ビニール傘しかないとか。こんなの絶対人に見られたくない。
駅に着くまで誰にも見られませんように──そう祈りながら、ビニール傘では顔を隠すこともできず、俯きながら歩く。横断歩道の手前で立ち止まるのはいつにも増してもどかしく、早く青になれと念じながら、上原の姿を探す。
会いたい気持ちは変わらずある。朝から上原に会えたらどんなにいいだろう。このビニール傘だって、なにか気の利いた台詞で笑い飛ばしてくれたら。
──なんて、都合の良い妄想だ。ビニール傘なんてダサい、そう笑われるに決まってる。だったら会えないほうがいい。それに、こんなこと考えたって仕方がない。上原がこの駅に来るかは二つに一つだし、時間が合うとは限らないのだから。
それなのに、見つけてしまう。この間、上原が現れた通り道を見ていて、豪雨の暗がりでも、そのシルエットだけで上原だと分かる。上原もビニール傘だった。
会えて浮き足立つ気持ちと、見られてしまうと落ち込む気持ちとのせめぎ合いが起こる。だとして上原に気付かないふりはできない。今からできるのは、“遠くからでも気付いていた”なんて好意丸出しの意識を悟られないようどうするか、だけだ。
悩む暇はない。上原の視線がこちらに向いた気がして、軽く手を挙げてみせる。上原も軽く手を挙げた。
「おはよ」
「おっはよー。見てこの傘」
あとは先に自虐して笑いに替える。未桜はわざとらしく溜息をつきながら肩をすくめた。
「親が私の傘持ってっちゃってさー」
「うわ、あるある。俺、姉貴に持ってかれた」
よし、この嘘はファインプレー。胸を撫で下ろすと、続いて上原は、軽く自分のビニール傘をつついた。
「てかおそろじゃん」
──上原のこういうところが好きだ。緩んだ頬を引き締める余裕はなく、早くおどけてみせなきゃとその一心で口を開く。
「なにそれぇー!」
「声デカ」
「だって、ビニール傘でおそろとか、めっちゃおそろ多いじゃん」
首のあたりが火照ってやまない。傘を学校に置いたままだった過去の自分を褒めてやりたい気さえした。天気を見たときの消沈した気分なんて、もう跡形もなかった。
歩き出してもその興奮は覚めなかった。上原との会話はいつになく盛り上がっている気がした。中身は、昨日見た動画とか、今日返ってくるテストの点数予想だとか、最近はまってるお菓子だとかそんな取り留めのないものばかり。でも今日は上原の反応がいつにも増していい気がする。
上原も自分に気があるのでは? そんな都合の良い妄想はいつもしていたけれど、今日ほどそれを強く感じたことはなかった。冗談じみた口調で「おそろ多いし、いっそ付き合っちゃお」なんて言いたくもなった。
もちろん、そんなことはしないのだけれど。告白はやっぱりされてこそ価値があるものだ。澤村だって、いつだって付き合うときは告白されてからだ。告白された回数だって加点要素になる。そうに違いない、と自分を抑える。
「てか中村ってさあ、将暉とまだ仲良かったりする?」
上原のクラスメイトで、一年生のときは未桜のクラスメイトだった――何より例の、夏休み前に告白してきた男子だ。まだ、という言葉のとおり、確かに告白されるまではよく喋っていた。でもそれは話しかけてくるからで、未桜側には特別な感情はなかった。なにせ相手はランクCだ。
そんな男と今も昔も仲が良いなんて、有り得ない。「まっさかあー!」とビニール傘の時よりも大きな声が出た。
「一年のとき同じクラスだったけど、それだけ」
「じゃあさー、俺達付き合っちゃう?」
「え!」
そして告白は突然やってきた。思わず素っ頓狂な声が出た。
上原に告白される、その都合の良い妄想は何度もしていて、その中での自分は、いわゆる“いい女”風に受け入れていた。
でも現実はそうスマートに運べなかった。嬉しさ丸出しの表情で返事をしてしまったに等しかった。
やばい、上原と付き合う。歓喜と興奮の区別がつかないほどに気分は紅潮し、今目の前の現実に頭がついていかない。ああ、こんなところが自分をランクAに留める原因なのではないかと自省する余裕もなかった。
それでも、少しでも誤魔化そうと思えるだけの余裕はあった。やば、と言いながら口元に手を当ててみせる。
「急に言うから何かと思った」
「まあそんなもんしょ」
いやいや、やっぱりそこはロマンチックなものがよかったに決まってるでしょ。デートとまでは言わないまでも、二人きりの教室とかさ、誰もいない廊下とかさ。そんなことは、きっと高望みが過ぎる。いや、むしろ陳腐でさえあるかもしれない。軽いノリで付き合っちゃおうと言える、それこそが恋愛上級者の、ランクAの恋愛ではなかろうか。
そう結論づけて、未桜は軽くポニーテールの毛先をはらってみせた。
「確かに、そんなもんかも」
それでも気分は高揚したままだ。彼氏ができた。高校生になって初めての彼氏。しかも相手はランクAの上原だ。
やっぱり、私はランクAだ。
教室へ着いた未桜は、澤村の席が空だと真っ先に気が付いた。浜崎の席で話しているのかと思ったが、浜崎は別のクラスメイトと談笑している。未桜はあまり話したことのない相手だ。割り込むには中途半端な時間しか残っていなかったこともあり、仕方なく一人で席に着く。
ああ、彼氏ができたと、二人に報告したかったのに。出鼻をくじかれたと肩を落としたところで、澤村の前で彼氏ができたという話題は要注意だと思い出す。
でも、言いたい。折角彼氏ができたのだ。しかもランクBに告白されたとかではなく、ランクAの上原に告白されて彼氏ができた。未桜がランクAであることの何よりの保証がここにある。なんなら、Aの中でも総合点は「彼氏持ち」として上がったかもしれない。
ただ、澤村の機嫌を損ねるのは避けたい。夏休みは終わったばかりだけれど、十一月には修学旅行もある。それ自体はまだ先でも、班決めで外されるのは避けたい。だって、そんなことになった未桜をランクAだと思ってくれる人なんていない。
担任教師のホームルームが始まっても、隣は空席のままだった。澤村は遅刻だろうか。遅刻してきた澤村には、どんなふうに伝えるのが正解だろう。大真面目に「彼氏ができた」なんて切り出すのはナンセンスだ。軽い調子で「実は上原と付き合ったんだよねー」と話すのが無難だろう。……いや、彼氏ができて喜んでるなんて思われたら、”その程度で浮かれるモテなさ”なんて評されてしまうかもしれない。そうだ、ただの世間話のように「そういえばノリで上原と付き合ってさ」なんて言えば、澤村も気にしないかもしれない。……自慢できないのは残念だが、澤村に捨てられないためには仕方がない。
そうだ、そうしよう。そうと決まれば少し気が楽になった。
しかし、澤村は一時間目まで終わっても現れなかった。二時間目は体育で、浜崎は「未桜ー、一緒に行こ」とバッグを振りながらやって来た。そのバッグはピエロのような謎の人形が布の切れ端でデザインされていて、それだけ見ると「なにそれ」と言いたくなるが、浜崎が持つと「奇抜なセンス」になるのだから不思議である。隣に並ぶ自分は、去年のクリスマスに母親に頼み込んで買ってもらった某パジャマブランドのショッパーを使っていて、いかにも平凡で恥ずかしい。
「ね、てかさ、リアどうしたんだろ?」
「風邪じゃん? 昨日言ってた」
「あ、そうなんだ?」
あれ、昨日、そんなこと話したっけ? 普段ならもっと気にしていたところだが、その時は「まあいいか」で終わってしまった。そのくらい、上原と付き合って浮かれていたのだ。
同時に、チャンスだと思った。上原と付き合ったことを、ここで浜崎に伝えてしまおう。そうすれば浜崎が澤村についても「言わないほうがよくね」とか「見舞いついでに伝えよう」とかコメントをくれるはずだ。そうでなくとも、澤村が登校してきたタイミングで浜崎が大袈裟なリアクションを取るのを避けられる。
「ていうかさー、私、上原と付き合うことになったんだよね」
「マジィ?」
案の定、浜崎は大声を上げ、廊下の何人かが振り向く。未桜は「ちょちょ、声大きいって」と人差し指を立てながらも笑みを堪えられなかった。ほらやっぱり、彼氏ができるのは優れた証拠だ。
だからこそ、これをさり気なく、ごく日常的なことのように話したい。笑みを消すまでせずとも、未桜は「ただのノリだって」と手招きをしながら言ってみせる。
「仲良かったしさ、友達の延長的な」
「へーっ、でもすごいじゃん。アメリカ(むこう)ってそういうのないからさ、なんかなんとなく一緒にいるだけ的な。進んでんなあ、未桜」
すごい、進んでる。その評価に鼻の穴を膨らめる。自分より点数の高い浜崎が、そんな誉め言葉を送る。なんて気分がいいのだろう。
「や、ほんとマジで、ノリだからさ。しかもさー、今日に限ってめっちゃ雨じゃん。髪めっちゃくちゃで、ムードとかなくって」
そのまま上原の話をしながらジャージに着替えた。体育は二人一組のバドミントンで、普段なら澤村と浜崎の三人で無理矢理やって、教師から「一人あっち行け」と東田と組み合わされるところだが、その澤村が欠席だったお陰で浜崎と二人で悠々とできた。ちなみに東田は教師と組んでいた。
この小一時間に起きた出来事を踏まえると、自分はもう、ランクSと言っても過言ではないのでは?
澤村が学校へ来たのは、そんな幸福の絶頂を迎えた二日後だった。
未桜が教室へ入ると、浜崎が澤村の前の席を後ろ向きに陣取って喋る、いつもの光景が目に入った。
上原との関係は順調だ。たったの二日しか経たないが、毎夜ごく自然にLINEをしてよくて、毎朝横断歩道の手前で待ち合わせできるというだけで、気持ちが浮足立つ。戻り始めた試験の結果は散々だが、それさえ上原と話すネタになるのだと思うと気にならなかった。
「おっはよう、リア」
「あー、おはよ」
その高いテンションのまま席に着いたが、澤村は気だるげだった。浜崎と向かい合ってスマホを見たまま、視線も上げない。病み上がりなのだろう。マスクも何もしていないし、化粧の仕方も変わりないとはいえ、久しぶりの学校を億劫に感じるのは分かる。
「リア、風邪大丈夫?」
「あー、うん。平気平気。すぐ治ったし」
「よかったじゃん。やっぱさー、夏休み終わったばっかってしんどいよねー。秋休みないのかな」
言いながら、頭には上原が浮かぶ。上原とはどこでどんなデートをしよう。二人きりだけではなく、トリプルデートもいいんじゃないだろうか。考えながら、教室の真ん中で喋っている男子の一団に目を向ける。その中心にいる坂江は、上原の親友で、澤村とも仲が良い、ランクSだ。未桜達三人が男子も混ぜたグループで遊ぶときは、その坂江を含んだグループと相場は決まっている。もちろん、クラスが違うだけで、メンバーには上原もいる。
いつものグループで遊びながら、未桜と上原だけがカップル――他のメンバーよりも一歩進んだ関係性で、しかもそれを当然のように享受する自分のことを想像すると胸が躍った。
ああ、そうだ。それより、上原のことをさり気なく澤村にも伝えなければ。
「そういえばさ――」
「そういえば未桜、上原と付き合ったってマジ?」
先に言われた。最初に思ったのはそれだった。
なんで知ってるんだろう。次に思ったのはそれだ。浜崎が伝えたのだろうか。すぐにそう考え直した。
ここ数日、澤村と浜崎を含むグループLINEは、澤村の風邪を心配する内容で終わっていた。だからきっと、今こうして未桜が登校してくる前に、浜崎が口にしたのだろう。それだけを考えて、想像した通りに、頬の緩みを隠しながら、軽く椅子の背に凭れて、何でもない風を装った。
「そうそう。なんかノリで?」
「それって私に言えないことだったんだ?」
「へっ」
しかし、続いた言葉は予想外のものだった。
そしてその声ですぐに理解する。虎の尾を踏んだのだ、と。
澤村の気だるげな雰囲気は変わっていなかった。視線も上げないままだった。だからこそ、それは「友達に裏切られた」のではなく「格下が生意気なことをした」と感じているように見えた。
やばい。首筋から背中へと冷や汗が流れ落ちるのを感じる。まだどうにか、機嫌を直してもらえるだろうか。
「それはさ、リアが休んじゃってたから」
「私のせいってこと?」
「そうじゃなくて」
「ま、おめっと。ちょうどいいんじゃん?」
続けて澤村は「てかさー、このネイル、色薄くない?」と話題を強制終了させる。
その終了は、どういう意味だろう。気に食わない話題だったのか、それとも興味のない話題だったのか? ちょうどいいとは、未桜と上原がお似合いだという意味だろうか? それは素直に、それとも皮肉で?
分からなかった。二人の会話は、既に未桜をいないものとして扱っているようにも、いつも通りにも聞こえた。未桜が口を挟んだり相槌を打ったりするまで、二人の判断は分からない。
ハブられる。そしてそれは、ランクB、Cへの転落を意味する。そう思うだけで、冷や汗が止まらなかった。
打開策を思いつかないまま、ホームルームが始まり、浜崎は自席へ戻って行った。澤村はネイルを見つめてみたり、スマホを見てみたりといつも通りで、しかし未桜に話しかけてくる気配はなかった。
日頃なら、澤村の反応をもっと警戒したはずだった。でもそれをしなかったのは、間違いなく、彼氏ができたことに、何より彼氏を持つ自分のランクに、妄信的な自信を抱いてしまっていたからだと気付かされた。



